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 結局、しっかりとした睡眠をとることはできなかった。  それでも朝は、間違いなくしっかりとやってきて、窓から光を注がせる。俺は鈍く沈んだ気持ちでそのギラギラした光を見つめている。  いつものように扉が開いてツェータが入ってきた。 「眠れたか?」 「うるさい」 「……眠れなかったのか」 「うるさい」  ふう、とため息をつき、ツェータは俺の隣に座った。 「親父から聞いたのか。俺の、今日の、……」  それから先が言えなかった。ツェータは、寝転がる俺を黙って見下ろしている。  彼は一言だけ言った。 「大丈夫だ、お前なら」  聞いた言葉だ。だけど、その言葉が何よりもありがたかった。  会談の予定された時刻になった。  大広間、俺は椅子に座り、黙って扉を見つめていた。 「まもなく参ります」  扉の脇に立つクロノが言った。  俺たちは立ち上がって、歓迎の準備をする。  ほどなくして、室内にノックの音が響いた。  そして声。 「失礼いたします」  扉を、クロノが開く――。  一団が部屋に入ってくる。  先頭の男。一目で王族だとわかる服装だ。  この男が、隣国の皇子か。  男は、俺の想像よりも若く見えた。聞いた話では、俺とそう年齢は変わらないはずだった。体は鍛えられているのか体積がある。綺麗な金色の短い髪の下に、透き通る青い目が二つ。くりくりと丸いその眼(ルビ:まなこ)が、どうにも顔つきをあどけなく見せている。  言ってしまえば、幼く見えた。  隣国の、第二皇子。名前は―― 「フェン、と言います」  彼は俺に手を差し出した。幼い顔つきと対照的に、手は意外に大きい。 「ルーだ」  俺も手を差し出した。フェンは俺の手をしっかりと握る。  それではとクロノが言い、俺たちは席についた。  和やかなムードでの会談、とは行かなかった。何しろ彼らの国では、今現在も疫病が猛威を振るい、多数の死者が出ているのだ。 「――率直に申し上げます」  会談が始まってすぐ、フェンは言った。それを継いで、隣りのイグという学者が話す。 「支援をお願いしたく思います、今回の疫病の流行で――私どもの国は、甚大な被害を被っています」  イグの年も、俺やフェン皇子と同じくらいか。事前にもらった資料によれば、彼は隣国を代表する学者だという。フェン皇子と並んでいるからか、こちらは随分大人びて見える。俺は隣に座るツェータをちらと見た。似た印象だ。頭の良いやつというのはどうやら似通うものらしい。  イグは、冷静沈着に今の国の状態を話した。それは、我々の想像よりも過酷で、惨憺としたものだった。 「――ですので、支援を是非ともお願いしたく馳せ参じた次第です」  それを受けて、ツェータが尋ねる。 「支援とは、具体的にはどういったものでしょう」  金銭的な支援。人員的な支援。食糧的な支援。  俺はさまざまなパターンを想定していた。  しかし、イグの答えは予想外だった。 「血を――分けていただきたい」 「血?」 「そうです。血です。状況は、百年前の流行に酷似しています」  百年前。そう言われて、俺たちの側に緊張が走ったのがわかる。向こうが自らその話題に触れるとは思わなかった。  フェン皇子が、語りだした。 「百年前の疫病。あなたたちの体はそれを乗り越えている。そしてあなたたちの血には、疫病を生き抜く術が刻まれている」  我々は黙って聞いていた。 「ですから、血が必要なのです。その血があれば、我々の仲間たちの命が――助かります」  言葉が、喉元まで出かかった。それはきっと、俺だけの感情ではなかった。俺の後ろにいるクロノも、隣にいるツェータも、同じ感情だったろう。  お前たちはそのとき、我々を切り捨てた。  そして、我々の仲間は命を落とした。  俺たちは、俺たちだけで必死に生き延びた。  それを――利用しようというのか?  それは、それは――あまりに――都合が、 「都合が良すぎる話です」  フェン皇子が言った。 「あなたたちの立場からすれば、とても承諾できない話だと思います」  フェン皇子の顔は、見たこともない表情だった。苦しんでいるのか、恥じているのか、悔いているのか、とにかく、見たこともない表情。 「私たちは、あまりにも、醜いことを言っています」  俺たちは何も言えない。皇子は続ける。 「わかっています。とても、申し訳ない。ですが、それが――あなたたちの血が、我々の最後の希望なのです」  皇子が立ち上がって、頭を下げた。 「お願いします」  他の隣国の人々と立ち上がって、深々と頭を下げた。そのまま、動かない。  停止して動かない隣国の人々。  ツェータが俺の方をちらりと見た。  そうだ。  俺が決めるのだ。  どうするのか。承諾か、拒絶か――。  ――何を悩むことがある?  俺の中で囁く声がする。  ――こんな、こちらを軽んじる話はない。  だからこれは、とても簡単な話だ。そうだろう?  今すぐ目の前の彼らを追い返して、再び『扉』を閉ざしてしまえばいい。彼らはきっと、素直に言うことを聞くだろう。なんの成果も持ち帰れず、疫病の蔓延る国に戻ればいい。  そして彼らは彼らで解決すればいい。俺たちが百年前にしたように、自力で生き延びればいい。誰にも頼らず!  俺は彼らを見た。頭を下げ続けるその姿。  でも――。  百年前とは状況が違う。  彼らの国のすぐ隣には、それ(傍点)を克服した国がある。  その血を手に入れれば、被害を抑えることができる。  俺が、彼らだったら。  俺が、フェンだったら。  きっと同じことをするだろう。  かつて切り捨てた隣国に行き、頭を下げ、協力を依頼するだろう。それがどんなに厚かましい行為、恥知らずだとわかっていても。  生きるためには、使えるものはなんでも使わなければならない。  醜くとも、汚くとも。  それが、生きるということなのだ。  ――だとすれば。  俺はどう決断すればいいのだろう。  彼らの生きるための、生き延びるための決断を、どうすればいいのだろう。  俺にはそれを操る権利があった。彼らの運命を、俺が(傍点)決めることができた。  決断。  親父のことを考えた。親父なら、どういう決断をするだろう。そう思ってやめた。今決断するのは、親父本人でも、俺の中の親父でもない。俺の中の、俺自身なんだ。 「ただ、決めるだけだ」  親父はそう言った。  そうだ、俺はただ決めるだけ。  国民の顔が思い浮かんだ。それは特定の誰かであったりもしたし、漠然としたイメージでもあった。彼らの望むと思うことを、俺はすればいいんだ。そう想像すると、自然と答えがわかった気がした。  この国の、明るく優しい人々の姿。  多分、この俺の決断を理解できないという人もいるだろう。怒る人も、呆れる人もいるだろう。  ――だけどきっと、最後には理解してくれる。  俺は言った。 「いいでしょう、おっしゃる通りの支援をいたします」  俺が言うと、隣国の人々は顔をあげた。心の底からの安堵が、顔に浮かんでいた。俺は続けた。 「ですが、条件があります」 「――条件?」  彼らは一転、不安を隠さない顔になる。  フェンだけは、真剣な顔だった。  俺は、ゆっくりと自分の顔を指差した。そしてはっきりと言った。 「フェン皇子が、ここに、――口づけることができれば」  場の空気が一瞬で張り詰める。 「そうすれば、協力いたします」  俺は、別に彼らを揶揄いたかったとか、与える側として彼らを弄びたかったわけじゃない。意趣返しや復讐がしたかったわけじゃない。  ――彼らの覚悟が知りたかった。それだけだ。 『堕落のしるし』。皇子が皇子に口づけるということ。それも、『堕落のしるし』に。それが隣国でどういう意味を持つか。俺は十分に理解していた。 『しるし』に触れる俺の指は、少し震えていた。  俺は心の中で自嘲的に笑った。  でも、本当はやっぱりただ嫌がらせをしたかっただけなのかもしれない。  だって、そうしないと――俺が納得できなかった。  だけど、彼らが少し困った顔をして動揺を見せれば、それだけで満足だった。そんな些細なことで十分だったんだ。 「それは、その」  慌てた声を出したのは、皇子でも博士でもない、彼らの後ろに控える壮齢の執事だった。  その絶望したような顔を見て、俺は心がすっと晴れたのを感じる。十分だった。「冗談ですよ」、そう言おうと口を開いた瞬間、執事の前に、フェンが手を差し出した、彼を制したのだ。  そして、椅子から立ち上がった。  カーペットの上、彼の歩く音は立たなかった。だがここが大理石であったら、凜々しい足音が規則正しく鳴っただろう。  皇子は、俺の正面にやって来た。 「失礼します」  それだけ言うと、皇子はまるで恋人にするように、俺の顔を優しく両手で包んだ。  皇子の顔が近づいた。  そして彼は、俺のしるしに口づけた。一切の躊躇もなく。  それも、唇を一瞬あてるだけではなく、しっかりと、まるでそこから何かを得ようとしているかのように、俺のしるしに確かに唇を押し当てた。  時間が止まってしまったようだった。俺は、目の前の彼のまぶたをじっと見つめていた。閉じられているその目は、今何を見ているのだろう。 「これで、よろしいですか」  彼は唇を離し、そう言った。  彼の顔、その真剣で誠実な表情を見て、俺は彼の王族としての矜持を見てとった。  その時俺は、何か無性に恥ずかしくなった。  恥ずかしい? なぜ?  ――彼を試すようなことをしたから?  それはそうだった。だがきっと、それだけではない。  思ったのだ。  ――俺は、国民のためにこんな顔ができるだろうか? こんなことができるだろうか?  こんな場に来て、頭を下げて、そして――醜い(傍点)堕落のしるしに、躊躇なく口づけられるだろうか?  俺は彼に告げた。 「ああ、もちろんだ。我々は協力を惜しまない」  皇子は笑った。嬉しそうなその顔、純粋な目は、まるで子どもみたいだった。

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