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イグは、これからの準備のために早々に帰国すると言い、慌ただしく部屋を出て行った。
「フェン皇子は、この後はどうされるのですか?」
「そう、ですね、私も――」
「もしよろしければ、ご案内します、この国を」
国へ、と続く言葉を遮るように俺は言った。フェン皇子は、驚いた顔で俺を見ていた。
「せっかくの、百年ぶりのご来訪ですから。もちろん予断を許さない状況なのは把握しています。ですので、少しだけ」
皇子は、少し考えて、
「では、ぜひ」
そう答えた。
――我々は城門へ向かった。俺とフェン皇子が並んで歩く。
「先ほどは、申し訳ありませんでした」俺は、自然と謝罪していた。「あんなことをさせて」
「いえ、とんでもない。私があなたの立場だったら、こんな話は……きっと断っていますから」
「そう、ですか」
「お受けくださる可能性もないことはないと思っての来訪ですが、正直、ほとんど無理だと思っていました。あなたたちの気持ちを考えれば、それが当然です。でも」
俺は、横を見た。フェン皇子の目が、何度かまばたきをし、青い目が左右に泳いだ。涙を堪えているのだとわかった。
「これで、たくさんの国民が助かります。本当に、私はそれが嬉しいです」
俺は、フェン皇子から目を逸らした。目を逸らした向こうで、涙を拭っているようだった。
俺とフェン皇子は同じ馬車に乗り込んだ。隣に座って、街中の景色を指差して説明する。外を覗いた皇子は、
「活気がありますね」
そう、ぽつりと言った。
疫病のことを言っているのだろう、そう思った。でも、皇子の横顔を見て、もしかするとそれだけではないのかもしれないと思う。
神に祈りを捧げる敬虔な国。その国の皇子には、この極彩色で解放的な国は、少し眩しく見えるのかもしれなかった。
隣の国。
すごく近いのに、遠い。
それは、『扉』の向こうの国。
そこは、何もかもがこことは違うのかもしれない。違ってしまったのかもしれない。
彼が帰ったら、あの本を開いてみよう。ようやくそう思えた。
「あ! 皇子様!」
街中の民衆が俺に気がついて嬉しそうに手を振ってくる。俺は手を振りかえす。
「人気者ですね」
微笑ましく彼が言ったその言葉に――俺は少し気分が曇った。
「『これ』のおかげです」
俺は『しるし』を指差して投げやりに言う。
「ご存知かもしれませんが、この国では『しるし』が顔に現れるのは幸福の象徴だとされています。それだから、ですよ」
「謙遜されている」
「違う、俺は本当に――」
がば、と皇子に向き合おうとしたときに馬車が揺れ、俺は皇子にもたれかかった。
「すみ、ません」
慌てて体を離して視線を引き剥がす。
少し気まずくなってしまった。そのまま、馬車は一通り市中を巡る――俺たちは再び距離を探るような会話をし始めた。
俺は、先ほどの件にあえて触れることにした。それは――おそらく、子どもがかさぶたが痒くて剥がしてしまうのに似た心情だったのかもしれない。
「私には兄がいます」
それだけで、俺の置かれた状況はある程度把握できるだろう。兄がいるのに、俺が皇子なのだ。
「それなのに俺が皇子なのは――『これ』が理由です」
俺は『しるし』をとんと指差した。
フェン皇子は口をきゅっと結んで黙っていた。
「『これ』の、おかげなんです」
俺は先ほどの言葉を繰り返した。
俺の視線は重力に負けるように少しずつ下がっていき、フェン皇子のお腹のあたりを彷徨っていた。だから俺には、もうそのとき彼がどんな表情をしていたのかはわからない。
それでも彼の体が少し動いて、息を吸い込んだとわかって、俺は彼が何か言うのを聞きたくなかった。
だから顔を上げて話題を逸らした。
「月に一度、大きな市場が開かれるんです。あのあたりで――広場、見えますか?」
俺は遠くを指差す。フェン皇子もつられて外を見た。
「あそこ、ですか?」
「はい、そうです。あのあたり。すごく賑やかで、楽しいんですよ」
「私たちの国でも似たような催しがあります」
皇子が言った。
「そうなんですか」
「ええ、賑やかに行われます」
「ぜひ――」
行ってみたいです、と言いかけて止まった。百年の止まっていた時はまだ動き出したばかりなのだ。勢いを急につけるべきではないのかもしれない。
俺は頭の回転も急に抑えられて、それでも残った勢いでぐるぐると回っていた。いろいろなことが頭を巡った。
そして俺は思い出す。そうだ、あの本――そう思った矢先、馬車は止まった。外を見ると、いつの間にか『扉』がそこにあった。
「お時間です」
すでに待っていたフェン皇子の執事が呼びかける。
目の前の『扉』は再び大きく開かれていた――フェンは、
「それでは、失礼します」
そう言い馬車を降りた。
そして地面に降り立った彼は俺に改めて向き合い、深々と頭を下げる。
「今回は本当にありがとうございました。この御恩は必ず何かの形でお返しいたします」
俺は馬車の上からそれを見ながら、彼との間に横たわる大きな距離を実感させられた気分だった。そうだ、俺たちはあくまで交渉をしたに過ぎないんだ――。
フェン皇子が顔を上げる。そして彼は、俺に微笑んだ。
優しい笑顔だ。
俺は息を呑んだ。
「ま――」
呼びかけようとした矢先、彼は準備されていた馬車に乗り換えて、そのまま『扉』の向こうの自らの国へと帰っていった。
『扉』が大きく鈍い音を立てて閉まるのを、じっと俺は見つめていた。
そして城へ戻る。俺は何か、とても落ち着かない気分だった。変に気分が昂って、部屋の中を何度も往復する。
そうだ、と俺は重要なことを思い出し、国王の執務室へと向かった。
報告をしなければ。
「――失礼します」
室内に入り、いつものように書類に目を落とす国王に会う。
「どうだった、会談は」
「――隣国の要望に、全面的に応じました」
それを言うとき、俺は確かに緊張した。自分が何か、間違った判断をしたかもしれない――一瞬脳裏にそれが過ぎったが、フェンの顔を思い出す。
大丈夫。
大丈夫だ。
俺は、間違ってない。
国王が俺のことを見た。
「そうか。ご苦労だったな」
それだけ言う。笑っていた。何かの荷が降りたような顔に見えた。
「では、この件に関しては、お前が中心になって進めてくれ」
「はい、もちろんです」
俺は執務室を出た。
「お疲れ様でした」
クロノが立っている。この、もう何年も王族に仕える執事を、生まれてからずっと俺の近くにいるこの執事を見て、改めて思った。
俺はこの男のことをあまりに知らない。
「――クロノ、たまには少し話でもしないか」
だからそう提案すると、クロノは驚いた顔をした。そんな表情も、今まで見たことがない。そしてすぐに元の顔に戻ると、
「構いませんよ」
そう言った。
俺は自室にクロノを招いた。
「よろしいのですか、本当にこちらで」
「ああ」
俺はそう言うと、小さな丸テーブルを挟んでクロノの前に座った。クロノを無理矢理に制して俺自身が紅茶を用意する。
「何を話そうか」
なんだか気まずい、というよりも気恥ずかしい感覚にそう言うとクロノは笑った。
「なんでもどうぞ」
そう答える。
「私が呼ばれた理由はなんとなく想像がつきます」
「そう、なのか」
「ええ、隣国とのことでしょう?」
クロノがティーカップに手を伸ばした。俺もそうして、中の液体を飲んだが、味がしなかった。多分気のせいとか緊張じゃなくて、本当に味がしない。
「あなたはとても大事な決断をしました。おそらくそれは、この国にとって――とても良い決断です。ですがあなたの話したいことは、きっとそれではない」
心臓が縮んだ感じがした。
すべてを見抜かれていると思った。
「隣国の皇子について、お話がしたいのでしょう」
クロノはじっと俺を見る。
そうか、俺はこの男のことをほとんどしらないが――この男は、俺のことをよく知っている。とてもよく知っている。多分、誰よりも。
「今あなたは、とても楽しそうです」
「そうか?」
「ええ、そしてそれはとても良いことです。あなたはいつもどこか冷めていて、何をしていても諦念が見え隠れしています。何をしていてもどこか退屈そうで、倦んでいて――。私はあくまでただの執事ですので、ルー様の心中を本当に察することはできません。あなた様にかかる重圧を、本当に推し量ることはできない。ですが私は、率直に言ってしまえばずっと心配でした」
俺がクロノを見ると、クロノは微笑んだ。
「それは、将来の王としてというよりも、一人の人間として――性に解放的なのは、この国では特に責められるべきことではありません。ツェータ様は随分と苦言を呈されていましたが、私はそれは構わないと思っています。ですがあなた様は、それで本当に満たされているのかと不安でした」
俺は、黙っていた。
「ですから、今の表情を見て少し安心しました。この国らしい楽しそうな顔です」
思わず、頬に手をやって表情筋を確認する。
「あなたが昂揚しているのは、重要な決断をしたからでしょう。あなたはその昂揚に慣れなければいけないし、上に立つものとしてのその昂揚を飼い慣らさなければならない。これからたくさんの決断をしなくてはならないのですから。ですがあなたの昂揚の原因はそれだけではない。だから私を呼び出した、落ち着かなくて。そういうことでしょう?」
俺の中の整理のついていない感情を、見事に言い当てられた気がする。もうそうすれば、結論まではあと一歩。
そう、俺は気付いていた。
このこころの昂りを。
俺はそれを持て余している。
「クロノは俺のことを、本当によく知っているんだな」
「そんなことはありません。私はただの執事ですよ」
「いや――その、正直に言って、クロノは俺に仕えていることが、不服なんだと思っていた」
「おや、なぜです?」
クロノの眉間に、本当にわずかに皺がよる。
「そう思われているとしたら、とても悲しいことですね」
その言葉が意外だった。
「だって、その……クロノは、親父と……」
「交接していることですか」
なんでもないことのようにクロノは言う。
「そう、クロノは親父のことを――愛しているんだろう? そう、だからクロノは、本当は親父に仕えたいんじゃないのか?」
クロノは少し考え込む。そして言った。
「確かに私は国王様をお慕いしています」
はっきりと、堂々と。
「ですが、私が国王様をお慕いする気持ちと、あなたにお仕えする気持ちは、両立しないものではありません。……私は、今あなたにお仕えできてとても幸せですよ」
クロノは笑みを口元に浮かべて言う。
決まりが悪くなってしまった俺は、視線を逸らした。しかしすぐにそれを戻す。
「それは、……その……悪かった。だとしたら、俺はとても失礼なことを言った」
「そういうところです」
「え?」
「あなたのそういう、しっかりと謝ることができるところが、私はとても誇らしい。自分の間違いを認めることは、普通はなかなかできません」
そうだろうか、そんなものだろうか。
クロノは続ける。
「あなたはとても素直で、誠実な人間だと私は思っています。そしてそれは、おそらく国王となるには不向きだということも。ですがあなたには、できればそのままでいてほしい。それはきっと、この国をよりよくしてくれます」
「ほ――」
褒めすぎだ、と言おうと思って、言葉に詰まった。
黙り込んだ俺に、クロノが言う。
「話が逸れましたね」
そう言い、また紅茶を一口。
「私は国王様をお慕いしています。国王様と体を交えることも、あります。ですが、国王様にとって私がどういう存在なのかは、私にはわかりません」
クロノは視線を落とし、ティーカップを見下ろした。そこには残った味のない紅茶が、かすかに波打っていることだろう。
「あの方にはこの国を守る責務があり、そして心の中で思い続けるお方がいる――」
ちら、とクロノはこちらを見た。母の面影を、そこに見出したのかもしれない。
「ですが、それでもいいのです。私はあの方と体を重ねているとき、とても幸せなのです。私は、それで十分なのです。それがあの方にとって一時の慰めに過ぎなくても、私は、それで」
クロノの微笑みの向こうに、彼の強い決意を見た気がした。その決意の裏側にあるもの。
俺も、そんな風に言えるだろうか。
そんな風に思えるだろうか。
この思いが報われなかったとしても――。
「あなたのその美しく温かな感情が、正しく報われることを私は祈っています。あなたの執事として」
俺は、ようやく一言だけ。
「――ありがとう」
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