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夜になった。俺は図書室へ行った。図書室に来るなんていつぶりだろうか。兄はよくここに来ていた。ここで本を読んでいた。兄は俺に本を読み聞かせてくれた――。そのとき兄は、自分の運命がわかっていたはずだ。顔に『しるし』のある俺を見つめて、兄はどういう気持ちだったのだろう?
――どうにもこの本に満たされた空間は、人を考えに没入させるらしい。
俺は本棚の間を歩きながら、とりとめのない考えを巡らせた。
小説の棚に差し掛かる。
タイトルの『愛』という文字が目に入る。
愛――俺の頭の中にフェンの顔が浮かぶ。
俺は、フェンを愛しているのだろうか? 俺はまだわからなかった。俺の中のこの昂りにつける名前がそれで正しいのかわからなかった。
俺は思い出す。今まで体を重ねてきたたくさんの人のことを。俺は彼にも彼女にも、何かを感じていたはずだった。だから体を重ねたのだ。おそらく今までに、愛したと思った人もいるはずだった。
だけど。
それでも。
俺は首を振った。窓際の椅子に腰かけて、手元の蝋燭を灯す。持っていた本を机に置く。
『向こう側に』
表紙にそう記された、簡素なモノクロームの装丁の本。
『扉』の向こうの国の本。
タイトルから、少し予感があった。それはもしかすると、この二つの国のことを書いた本なのかもしれないと。
――だとすれば。
これを読めば、フェンのことがわかるかもしれない。
俺はゆっくりと本を持ち上げて、表紙をめくった。
‡
あるところに、狩りをして暮らす男がいた。男には家族がいた。嫁と二人の子どもだ。家族はつつましく幸せに暮らしていた。
男は厳しい冬を乗り越えるために、大きな河の向こう側へと渡った。向こう側には大きな動物がたくさん住んでいた。毎年のように、冬の前には男はその河を渡っていた。今年も同じように、男は河を渡り、獲物を狩って肉を担いで戻ってくるはずだった。
男は遠くまで歩き、無事に獲物を捕獲した。男はその場でけものを捌き、肉に分解する。いくつかを空腹の足しにすると、残りを家族のために肩に担いだ。
男は歩いた。雨が降ってきた。それは激しい雨だった。しかし男は休むわけにはいかなかった――家族が待っているのだ。
男は河にたどり着いた。そして呆然と立ち尽くした。
河は見たことのない姿になっていた――。溢れかえった河はごうごうと音を立て、濁った色になり激しく流れていた。
それは今まで見知った、自然と調和するような優しい河の姿ではなかった。まるで暴れるように河は荒れ、とても泳いで渡ることはできない。
男は雨から身を隠すため、離れた場所の大きな木へと向かった。
雨はやがて上がった。男は安心し、河へと向かう。
男を待っていたのは、変わらずに荒れた河の姿だった。男は呆然とした。綺麗に晴れた空。呑気に空を飛ぶ鳥。緩やかに動く雲。こんなことはありえなかった。
それから男はずっと河のほとりで、河が荒れ止むのを待った――しかし河は、どこから水を得ているのかと思う勢いで荒れ続けた。
男は方法を変えた。
男は河の下流へ、そして上流へと歩いた。しかし河はどこまでも続き荒れ続けていた。
男はようやく気づいた。
帰ることはできない。
既に男は空腹で獲物の肉を食い尽くしていた。男は思った。今頃、河の向こうの家族はどうしているだろう。空腹に腹を空かせているに違いなかった。しかし男が戻ったところで、もう渡すことのできる食糧はなかった。
それでも男は帰らなければならなかった。食料がなくとも、家族は男を待っているのだ。
ごうごうと音を立て河は荒れている。
男は理解する。
俺はこれを越えなければならない。どうにかして、どうしてでも。
そのとき男は、河の向こうに家族の姿を見つける。とても遠いが、それは間違いなく男の家族に違いなかった。
妻、そして子どもたち。向こうも男に気づいたようだった。
手を振る。何かを言っているようだったが、河の音でかき消されてしまう。
しかし男は、それで決意する。
どうしても俺は向こう側へ行かなければならないのだと。
男は意を決し息を止め、勢いよく河へと飛び込んだ。
‡
俺は本を閉じた。不思議な物語だった。俺は真っ先にフェンのことを思った。この本のことをフェンと話したいと思った。
フェンはこの物語を知っているのだろうか。
この物語は、向こうでは有名なのだろうか。
彼はこれを読んで、どんな風に思うのだろうか。
俺は表紙を指でなぞりながら、そんなことを考えていた。
窓の外を見ると、月が明るく輝いている。あの方向に、フェンの暮らす国がある。――その国の現状を思うと、俺の胸が確かに痛んだ。今までも、なにかのしこりのようにそのことは俺の頭の中にあったはずだった。それが、急にしっかりと目の前に現れた。フェンが連れてきたのだと思う。それは、正しい痛みだった。
俺はゆっくりと手を合わせ、目を閉じた。
そして祈った。
生まれて初めて、心から祈ったのだ。
体が勝手に動いていた。俺はゆっくりと目を開けて、頬を伝った涙を親指で拭った。祈りが届いてほしいと思った。
泣いてしまったことが恥ずかしくて、誰にも会わないことを願って図書室を出る。廊下を歩くと聞き慣れた声がして、俺は思わず近くの部屋に隠れた。案の定、声はツェータだった。一緒に豪快な笑い声がついてきて、それがカーツだとわかる。
意外な取り合わせだった。
あまり接点のない二人だ。声が近づいてくる。俺は出て声をかけようと思う。
珍しいな、お前たちが一緒なんて。
部屋を出てそう言おうと思ったとき、二人が通り過ぎて――、その顔に、見たことのない親密な表情が宿っているのが見えた。
相手を親しみのこもった視線で見つめている。微笑んで、幸せそうだ。
カーツも、そしてツェータも俺にあんな表情を見せたことがない。
その表情を見れば誰でもわかる。
二人は結ばれているのだ。
俺は改めて身を隠した。
――そうか。そういうこともあるのか。
俺は思わず少し笑った。
部屋から出て廊下を歩く。ツェータと、カーツが。意外な事実を、ドライフルーツから滲み出る味みたいに噛み締める。なるほど、なるほど。
おそらく、二人のことをよく知らない人間には、とても二人がうまくいくようには見えないだろう。堅物で規則にうるさいツェータと、豪放磊落を地でいくカーツは、とても気が合うようには思えないからだ。
だけど、俺にはなんだかお似合いに見える。
絶対にハマるように見えなかったものが、少し向きを変えるとすっぽり収まるときがあるように、二人は欠けている部分を補える関係に見えるのだ。似たもの同志ではないからこその関係というべきか。
何よりも俺は、幼いころからよく知るツェータがそういう相手をちゃんと見つけていたことが嬉しかった。
俺は少し軽やかなステップで廊下を歩く。
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