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第3話 継信③

継信の席は廊下側の後ろの方である。そもそも誰も継信の方を見ていないし、この男ははたから見れば男子生徒がふざけて話しているかのような笑顔を浮かべているから、今継信が息も吸えないほど苦しめられていることはわからないだろう。 「う、うぅ」 「お前いつまで調子に乗ってんだ?」 何のことを言われているのか、継信にはさっぱりわからない。できうる限り継信は空気に徹して学校生活を送ってきていたはずだ。息が苦しい。顔に血が集まってきているのがわかる。 「いい加減安芸坂にまとわりつくのやめろよ。飯の時間になったらさっさとどっか行ってろ。お前がいなけりゃ安芸坂は俺たちと一緒にいんだから」 わかったんなら返事をしろ、と低く恫喝されても、継信は息ができなくて答えられない。震える手で自分の首元を締めている相手の手を掴んだ。 すると、男は投げ捨てるようにばっと手を離した。よく見れば、男の後ろにはもう一人の男と女がいて、同じように継信を睨みつけていた。 げほげほと咳き込みながら必死にひゅうひゅうと息を吸っている継信の事を、蔑んだような目で一瞥すると、男たちは教室から出ていった。 急に教室の喧騒が大きくなったような気がした。おそらくはクラスの生徒も今のやり取りを眺めていたのだろう。だが、誰も関わろうとしないし、何ならあの男たちに同意していたのかもしれない。 口の端から零れてしまった唾液を拳で拭いながら、ゆっくりと継信は震える身体を席に沈めた。 今日が最後の飯だったんなら、もっと食わせてやればよかったな。 継信はぼんやりとそう考えていた。 翌日から継信は、光映が迎えに来る前に家を出るようにした。そして四限目の授業の前には弁当箱をすぐ取り出せるように準備し、授業が終わるや否や弁当を掴んで教室を飛び出すようになった。 行き先は、その日によって変えた。光映が探しに来るからだ。何度か光映との攻防があり、メッセージでも随分と責められたが継信は逃げきれていた。それは光映の「友人」たちが、光映を引きとめているからというのも大きかった。光映と食事をともにしたい、たくさん話をしたいという友人たちは、いわゆる一軍と呼ばれるような人々で、遠目に見ても彼らは華やかだった。 二週間もすれば、光映が探しに来ることもなくなっていった。継信はほっとして、食べる場所を固定することができた。旧校舎の屋上へつながる階段が継信の隠れ場所だった。屋上へは出られないが、この階段に座っていれば、誰かに邪魔をされることはなかった。学校で楽しい時間というものはほとんどない。せめて自分で作った弁当くらいはゆっくり味わって食べたかった。 しかし、一人で食べる弁当は味気なかった。横からつまみ食いをする光映の指は現れない。落ち着いて食べられるはずなのに、あの指におかずをつまみ上げてほしかった。 「一回くらい、作ってやればよかったかな‥」 自分の思い出のためにも、作ってやったらよかったのかもしれない。 一瞬そう思った自分の考えを、継信は頭をぶんぶん振って打ち消した。 朝も光映が家に来る前に家を出る、ということを繰り返した。結果、とんでもなく早い時間に家を出ることとなり、継信は朝の余った時間を駅の近くの公園で潰した。早く学校に行ってもすることはない。 ところが光映はさすが幼馴染ともいうべきか、継信がいる公園を探し当ててやってきた。 「継信」 声をかけられて文字通り継信は飛び上がった。まさかにここまで光映が追いかけてくると思わなかったのだ。手にしていた文庫本が、ばさりと音を立てて足元に落ちた。 「なんでそんなに俺を避けるんだよ、継信」 継信は何と答えていいかわからず焦った。光映の友人のことを素直に言えば、きっと光映は友人を責める。周り巡ってその責めは自分にもやってくるのがわかり切っていた。それが怖いのではなく、ただひたすらに面倒くさかった。 光映を取り囲む人々と、これ以上のかかわりを持ちたくなかったのだ。 「継信」 光映はもう一度名を呼んで、継信の腕を掴んだ。大きな光映の手に、継信の細い腕は余るようだ。こんな体格の男を組み敷く夢を見るなんておれもどうかしてるな、と、その節くれだった男らしい手を見てそう思う。 継信は、光映の手を取ってそっと外した。 もう、いいか。 もう、離れよう。 本当に、離れよう。 どうせ無理なんだから。 これ以上嫌われたって、何も変わらない。 「光映」 「おう、なんだよ」 継信は真っ直ぐに光映の目を見た。優しげな垂れ目が、精一杯厳しい表情を作っていて、何だか笑える。 「おれ、光映のこと好きなんだ」 「‥え」 「光映のこと、恋愛対象として見てる。キモいだろ?だから、離れようと思って」 光映の表情が、何とも言えない様子で固まっている。そうだよな、そんな感じになるよな。継信は、とうとう言ってしまった自分を嘲笑った。何か、どこかで期待してたのか?何を一丁前に傷ついているんだおれは。 光映が、一般的にこんなことを言われた高校生が、キモいと思うなんて当然のことじゃないか。 継信は震える自分の心にそう言い聞かせた。そして足元に落ちている文庫本を拾い上げ、ぐちゃぐちゃになったカバーをきれいにかけ直した。 「だから、もうおれと喋らなくていいから。朝も来なくていい」 そう言い置いて文庫本を鞄に入れ、そこを立ち去ろうとした。すると、光映がまた継信の腕を掴んだ。 「つ、継信」 「‥何?」 「‥少し、‥待ってくれ、ちゃんと、返事をするから」 継信は光映の顔を見た。やはり、何と言ったらいいのかわからないような顔で、だが少し赤くなった顔でそう言ってくる光映に、ああ、こいつはこういう優しいやつだったな、と思った。 「‥じゃあ、メッセージでいいから、別に俺に話しかけなくていい」 継信はそう言って、今度は意図的に腕を振り払って光映の手を離した。 そして、ちゃんとその返事が来た。 ごめん、俺彼女できたわ 「別に、ごめんとかじゃないのにな」 誰に言うともなくひとりごちて、継信は椅子から重い身体を引き起こし、ベッドに移動して寝転がった。 わかっていたはずの拒絶の言葉に、知らず知らずのうちに目頭が熱くなり鼻の奥がつんと痛くなる。 泣くのは違うだろ。 そう思いながら、だが溢れてくる涙を止めることができない。両腕を目の上に押しあてて、継信は声を殺して泣いた。 いつか、この苦しいほどの胸の痛みが消えるのだろうか。 いつか、光映が彼女を連れて歩いているのを見ても苦しくならないで済むのだろうか。 いつか。 いつかって、いつだ。 その日、いつ眠ったのか覚えていない。朝起きると、信じられないくらい目元が腫れており喉はガサガサだった。母親が心配して学校を休めと言ってくれたので、素直にそれに従った。 どうせ、学校に行ってもこの調子じゃ『普通』に振る舞えないかもしれないし。 そう思いながらベッドに横になる。 だが、何も外的刺激がない中で一人でいると、頭の中を占めるのは光映のことばかりだった。 彼女って、あの一軍の女子の中の子かな。 俺が、キモい告白したから、慌てて光映も告白したんだろうか。 だとしたら、その女子は俺に感謝してくれていいよな、結果的に俺がキューピッドになったんだし。 そんなことを考えているとまたじわりと涙が滲んできた。 光映の事を考えていると涙が止まらなくなる。やめよう、と思って継信は身体を起こし、本棚から好きな本を取り出して読むことにした。

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