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第4話 誘拐事件、発生

 壁に雪化粧をした富士山が描かれている昔ながらの銭湯は平日の夕方のためか人が疎らだ。  この銭湯は熱海から湯を運んできている。  塩化物泉の湯は疲労回復効果があるそうだ。  鷹也は番頭の男に顔を覚えられており、軽く世間話をする程度には親しい。    SAT隊員専用の官舎は一人部屋だが、その他は共有である。  勇退した元SAT隊員が管理する官舎は古いながらも掃除が行き届いており清潔だ。  いつ行っても食事が出るし、栄養もボリュームも満点。  不満を言うなれば、夕方以降にしか給湯器が稼働せず、シャワーはかろうじて浴びれるものの、湯船に浸かれるのは夜のみということだけ。  そのため、鷹也は体のメンテナンスも兼ねて、当直明けで昼前後に帰宅する日や訓練で酷く疲れた日は官舎の近所にポツンと佇む銭湯に行くのだ。    鷹也はほぼ貸切状態の浴槽でぼぅっと富士山を眺めていた。  銀行強盗に対応した昨日は当直日で、あれから延々と事務処理に追われ、帰宅したのは昼過ぎ。  体に蓄積された疲労を、深く息を吐き、全身の力を抜いて湯に流し出す。 (はぁ……気持ちいい……)  まるで天国だ。  命の洗濯とはよくいったもので、鷹也にとって銭湯での入浴がそれだった。  このときだけは何も考えずにいられる。  無になれる瞬間は至福の時だ。  富士山の頂上辺りを漂っていた意識が徐々に戻ってくる。  脳裏に浮かぶのは銀行強盗を制圧した現場のことばかりだ。    猪突猛進と言われた現場の対応。  全体の局面を冷静に見ることは確かに大事だ。    鷹也はこれと決めた目標のことしか目に入っていない。  まずはそれを片付けなければと思ってしまうのだ。  現に、あの現場では馬場の行動しか視界に入っていなかった。  思い返せば、訓練でも米田たちがどう動いているのか視界に入れた記憶がない。  それを続けていた場合、仲間のフォローに入れず、全員を危険に晒すことになる。  鷹也を猪と称し、猪突猛進と言った金城は正しい。 (ってもなぁ……。気をつけてはいるんだけどなかなかできないのが現状だし)  あるいは、センチネルだったらできるようになるのだろうか。  視覚が発達したセンチネルは視野も視界も人間の限界まで広がっていると聞く。  それならば、周りを見れるようになるのかもしれない。  鷹也はミュートだ。  センチネルやガイドには憧れがある。    子ども向けのヒーロー番組には必ずセンチネルとガイドが登場し、大概は赤の色を纏い、ヒーローメンバーの中でも中心人物に置かれることが多い。    センチネルの能力は単純明快で格好良い。  ガイドは地味なイメージがあるが、共感能力(エンパス)読心能力(テレパス)を使って、センチネルの能力を制限したりメンタルをケアする重要な役割を担っている。  センチネルとガイドがバディを組み、ガイディンを通してその絆を育む。  物語の最後、その二人は魂の契約――ボンド――をして生涯を共にする。    その様は胸をドキドキさせた。  二人にしかわからない特別な絆は、美しく、崇高なものに見えたのだ。    いつかきっと能力に目覚める(プレゼニングする)のだと信じて疑わず、友人たちとヒーローごっこをして遊んだ幼少期。  だが、プレゼニング時期と言われる十歳前後になってもその気配はなく、自分は特別な存在ではないと思い知らされた。  鷹也は選ばれなかったのだ。  センチネルやガイドの能力は個人の資質によりもので、努力でどうにかなるものではない。  それを知っていたからこそ、鷹也はミュートでありながらヒーローになるために体を鍛え、空手の腕を磨き、望んだ通り警察官となった。  そして、今はSAT隊員になり国を守っている。  正真正銘のヒーロになった。  それでもセンチネルとガイドに憧れがあるのは、その強さと、選ばれた特別な存在であるということからだ。  今でもセンチネルかガイドになりたかったと思う。  ないものねだりだが、心に嘘はつけない。  それはそれとして、鷹也がすべきことはただひとつ。  職務を全うすることだ。 「っし」  考えても仕方がないことは考えるだけ無駄だ。  喝を入れ立ち上がるとザバッと大波が立ち、静かな水面が騒ついた。  鷹也は出入口の手前に設けられた棚に置いていた籠の中からタオルを取り出す。  体の拭き、たっぷりと水気を含んだタオルを限界まで絞る。  脱衣所でさっと服を着ると、半乾きの髪を乾かした。    そして、定番のビンの牛乳を買うと、ぐいっと一気に飲み干す。  ベタだなんだと言われても、これが気持ちいいのだからやめるつもりはない。  自動販売機の隣に設置されたゴミ箱にきちんと分別して捨てると、プラスチック製の籠と貴重品や服を入れた小ぶりのリュックを背負い、番頭が待つ番台へと足を向けた。 「おっちゃん、ありがとう」  木製のロッカーの鍵を番台の上にカタンと置くと、番頭の男は新聞から顔を上げてニカッと人の良い笑みを浮かべた。   「おう。また来いよ」 「うっす」  それに首を前に出すようにして応えると、彼は再び新聞に目を落とした。  鷹也は靴箱からスニーカーを取り出してさっと履くと、昭和の懐かしさを感じる引き戸をガラガラと開いて、間もなく夜になる街へと踏み出した。  空はどんよりと重く、今にも泣き出しそうな様相だ。  降られてしまううちに早く帰ろう。  ああ、でも。 (ビール、切らしてたんだっけ)  食堂にある共有の冷蔵庫には鷹也の名前が書いてある酒はひとつもない。  無事に任務を終わらせて帰ってきた夜に飲むと決めているのだが、前回は二ヶ月前と間が空いていた。  そのうち買いに行けばいい、と買い出しを先延ばしにしていたことを思い出す。 (何やってんだよ、俺ぇ!)  過去の自分に舌打ちをし、官舎とは逆方向のコンビニへとくるりと方向転換。  早足で坂道を下り始めた。  もし雨が降ってきたら傘を買えばいいだけのこと。  コンビニまでは徒歩五分。  造作もない距離だ。  今日はどのビールを買おうかと前向きに考えていると、一台の白いバンが鷹也をビュンッと追い抜いた。  ナンパープレートは業務用を示す緑。  後部座席の窓が車体と同じ白色で、冷蔵若しくは冷凍車だと窺える。  それは鷹也の前方五十メートルほどの場所で止まり、後部ドアから男が二人現れた。  おかしい。  冷蔵車だか冷凍車だか判然としないが、あれは貨物車だ。  後部に座席はなく、通常なら極寒の空間になっている。  だというのに、後部ドアから人が出てきた。  普通ならありえない状況だ。    だが、それだけではない。  鷹也の勘は、それ以上の何かがあるとけたたましく警報を鳴らしていた。  早歩きから駆け足に切り替えて坂を下る。  ドクドクと嫌な鼓動が耳に響く。  男たちが坂を登っていた男性二人に近づいた。  そして。 「うわ、ぁ……⁉︎」 「な、に……⁉︎ おい、陽介を離せ!」 「柏木!」  一人が車道側にいた学生風の男性を肩に担ぎ、もう一人が「柏木」と呼ばれた男性を押さえ込んで奪還を阻止している。  その動きは素早く洗練されており、素人でないことは明白だった。  しかも、鷹也の記憶違いでなければ、連れ去られそうになっている男性は経済産業省大臣政務官である生田雄介の一人息子で、都内の大学に通う生田陽介だ。 (クソッタレ! 身代金目的か⁉︎)  よりにもよって職務外で誘拐の現場に遭遇するとは。  仕事で使っている無線機がない以上、安易に応援要請ができない。  鷹也は全力で駆け出すと同時にチノパンのポケットに手を突っ込み、スマートフォンの電源ボタンを連打して緊急通報の画面にすると、画面を見ないまま慣れた手つきで警察のボタンをタップした。  ワンコールの後、通信司令室の職員が事件か事故か聞いてくるのを待たずに叫ぶ。 「朝波区田谷月一の三! 生田陽介が誘拐されている!」  陽介を肩に担ぐ男はステップに足を掛け、まさに誘拐を成功させようとしていた。 「止まれ!」    その膝に向かってシャンプーなどが収まっている籠を叩きつける。  いや、そうしようとしたが、横から伸びてきた脚に阻まれた。  その持ち主は陽介から「柏木」と呼ばれた男を押さえていた男のひとりで、酷く落ち着きを払った顔をしている。  その黒い瞳には犯罪者独特の異様な興奮も、野心も、崇拝も写してはいなかった。  あるのは、深い森のような静寂。  ぞわりと、得体の知れない感覚が背筋を叩いた。    蹴り上げられた籠につられて右手が空に伸びる。  中に入っていたボトルが宙を舞った。  自由落下を始めたそれらに視界を妨げられた隙を突かれ、拳が真っ直ぐに鷹也の顔に向かってくる。  それをパシリと叩き落とすと、冬でもないのにパチッと静電気が弾けた。  それに構わず、顔を狙ったお礼に鷹也も顔を狙う。  しかし、それは瞬時に屈まれて空振りに終わり、代わりに腹に一発、重い拳がめり込む。 「ぐっ、はぁ……!」  バチンッと、また火花が散る。  痛みよりも強いそれは、体を、脳をおかしくしていくようだ。 (っの野郎!)  フェイントを掛けて拳を突き出し、躱わすために体を半身にした男の背中に回し蹴りを入れる。  パチッ――。  車体にぶつかった男に追撃の蹴りを入れようとすると、体を反転させて避けられ、代わりに白いボディがベッコリとへこんだ。  その伸ばした脚に男の踵が落とされる。  瞬時に引っ込めたが、少し脛が掠れた。  パチッ――。  飛んできた拳を叩き落とし、流れた腕を掴んでその背後に回し車体に叩きつける。  首の後ろと回した腕をきつく握って車に押し付けると、男が息を詰めた。  そして、鷹也も唇を震わせた。 (なんだ、これ)  男を拘束している手のひらに、断続的に電気が走る。 ――パチッ、バチッ……バチッ!  それだけではない。  触れているところからじわじわと熱のようなものが這い上がってくる。  鼓動に合わせて得体の知れない何かが体を巡る。  胸がざわついて、目の前の戦闘に集中できない。   「動くな!」  この男の戦い方からして、彼らは間違いなくプロの犯罪集団だ。  それも厄介なことに戦闘の心得がある。    どこの組織だ。  鷹也の頭に入っている要注意リストに該当するそれはない。  顔立ちは日本人のようだが、海外の組織の可能性もある。  何にせよ、一刻も早く陽介を救出しなければ。  体の不可解な異変もあるため、どうにか事を納めなければ。    電話は繋がったままのはず。  だが、通報してまだ三分も経っていないこの状況で応援は望めない。  運良く近くに警戒中の仲間がいればいいのだが、現実ではそうもいかない。  陽介はすでに車の中だ。  鷹也が拘束している男が車に戻ってしまえば取り返しがつかない。 (どうする……?)  迷いは隙を生み出す。  杉浦から散々指導されていたというのに、鷹也は思考停止してしまった。  男はそれを見逃さなかった。 「うッ、ぐぅ……⁉︎」  男の後ろに蹴った足が鷹也の膝頭を直撃。  弾みで緩んだ拘束から脱出した男は、振り向きざまに鷹也の肩に肘を打ち込む。  どちらも強烈な一撃だ。  痛みに呻く間に背後を取られると、車のフロアマットに全身を押し付けられていた。  ドアが勢いよく閉まる前に車は動き出す。 「待って!」  柏木の怒号が響く。  胸を切り裂くような声が頭にぐわんと反響した。 「おいこら離せ!」 「うるさい」  拘束から逃れようと踠くが、関節をより強く固められて痛みが強くなるばかりだ。  それだけでなく、あの奇妙な感覚が体を駆け巡る。 (何なんだ、何だんだよこれ)  一体、何が起きている。  混乱しているうちにポケットからスマホを、腕からリュックを抜き取られ、走行している車の窓から放り捨てられた。  スマホさえあればGPSを辿って仲間が救援が来る。  だが、その望みは潰えた。  最悪の状況だ。

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