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第26話 傍観者でいられない

 左斜め後ろを振り返ると、那輝が右の上腕を押さえていた。  彼の右の袖と、腕を押さえている左手に嵌められている手袋がじわじわと色を変えていく。  元々黒色の衣服はさらに黒くなり、腕を伝って床を彩ったのは赤い命の証。  その場に鉄の臭いが充満した。 「走れ!」    翔が叫んだ。  彼は女性を背負いながら、苦痛に顔を歪める那輝の左腕を掴み走り出す。  鷹也もそれに続いて駆け出そうとして、すぐに立ち止まり後ろを振り返った。  カシャンッ……カランカラン……。  五感すべての能力を開放した鷹也の耳が捉えたのは、薬莢が排出され、新たな銃弾が装填させる音だ。    長い廊下の先、四十メートル離れたところには、性別不明の武装した人間がいた。  彼、あるいは彼女が手にしているのは銃身の長い銃だ。  視覚を研ぎ澄まして観察すると、それは鷹也も知っているスライド式のライフル銃だった。  あのライフルにはすでに弾丸が装填されている。  射手が狙いを定め引き金を引けば、鉛の弾は鷹也たちの命を奪いにくるだろう。  ドクンッ!  鷹也の心臓が一際大きく跳ねた。  那輝は負傷。  翔は手負いの二人を連れ出すので手一杯。  行く先には、傷付いた能力者を背負った者ばかり。  この場で応戦できるのは鷹也だけだ。  命の危機に瀕した時、いつもなら瞬時に、状況に適した動きをするべく体が反応する。  だが、今の鷹也の思考はぐちゃぐちゃだった。    警察官は法律という縛りの中で職務を執行する。  その縛りから逸脱した行為は犯罪だ。  すなわち、警察官の地位から退くことに直結する。  ここは日本だ。  警察官たる鷹也の心臓には、法律が広く深く根付いていた。  ここでベフライエンを手助けするということは、警察官である鷹也自身を殺すことと同義なのだ。  翔が鷹也に手出しをするなと指示したのは、元警察官だからこそ理解できる鷹也の心情を慮ってのこと。  そして、鷹也の将来も見据えているからこそだ。    世界の実情を知った鷹也が選ぶ道は、翔も、当然鷹也自身もまだわからない。  このタワーの防犯カメラ等の記録機器は破壊しているものの、万が一ここで鷹也が応戦したことが露呈したとき、積極的にベフライエンに協力したと見做される。  そうなれば、鷹也が警察官の道を選んだ未来の弊害になってしまう。    未だ自分は警察官だと自負している鷹也の手を、犯罪で汚すわけにはいかない。  だからこそ、翔は傍観者であれと言ったのだ。  しかし、このまま何もしなければ、鷹也も背後に庇うベフライエンも無事では済まない。  新たな負傷者が出るのは必至だ。    警察官である自分と、虐げられた者たちを救い出したいと渇望する自分。  天秤は激しく揺れ、どちらかに傾いて止まる様子はない。 (どうすればいい……⁉︎)  何も決められないまま、ライフル銃の銃口を凝視する。  射手は必ず仕留めるとでも言うように殺気を漲らせ、その視線は真っ直ぐに鷹也を射抜く。  狙いを定めた銃口。  ギリッと握り直された銃把。  引き金にかかる射手の指先。  考えている余裕はない。  一般的なライフル銃の弾速は秒速六百から千メートル。  今すぐにでも何かしなければ、ライフル銃の弾丸が鷹也の命を奪いにくるだろう。  そして、その次に奪われるのは、翔や救出したばかりの能力者たちの命だ。  喉元に重く冷たい金属の塊が迫り上がってくるような感覚。  乱れる息。  どっと吹き出す嫌な汗。    鷹也は、翔の腰に収まっていた拳銃を引き抜いた。   「おい!」  鷹也の愚行に気付いた翔が叫ぶ。   「俺、は……ッ!」    翔の制止を聞きながら、鷹也は肩の力を抜き、真っ直ぐに両腕を伸ばす。  射手の右腕に素早く、ぼんやりと照準を合わせると同時、躊躇せず引き金を引いた。  ドンッ!  鼓膜を破る勢いの破裂音と硝煙の臭い。  廊下の先からくぐもった呻き声が響き、射手がライフル銃を取り落として右腕を押さえるのが目に入った。  果たして、鷹也の放った弾丸は狙い通り射手の右腕に当たったのだ。  鷹也はそれを確認すると、すぐさま床に転がった小さく熱を持った空薬莢を拾い上げ、顔を歪める翔に駆け寄った。 「行くぞ」  翔から短く告げられた指示は、どんな感情が乗っているのか読み取ることができない。  それどころか、鷹也は自分の感情すらわからなかった。  体は動くが、頭の中が滅茶苦茶なのだ。  数秒前の、拳銃を撃つという選択は正しかったのか? ――苦しめられていた能力者を救うため撃つしかなかった、正しいに決まっている。    自身を縛り、一方で自身を守るための根拠となる法律を破ってまで撃ってよかったのか? ――正当防衛だ、撃っても問題ない。    独善的な正義を振り翳し、実力行使に出て、それで警察官だと言えるのか? ――それは……。  ベッタリと張り付くような汗が止まらない。  息も、走るだけではあり得ないほど不規則に乱れて苦しい。  何より、心臓が細い糸で幾重にも巻かれて締め付けられるような痛みを感じている。  翔に続いて森を駆け抜け、エンジンのかかったボートに飛び乗った。  ボートの操縦を担う伊吹は、全員が乗船したことを認めるとフルスロットルでボートを大海へと発進させる。  翔は背負っていた女性を横たえ、インカムを通し陽動班に脱出完了の連絡を入れる。  すると、すぐさま了解の返事とともに無線が切れた。  陽動班から再び連絡が入るまでの間、翔は他のボートに乗った救出班に負傷者の有無を確認していたが、救出班で怪我をしたのは那輝だけだった。  その那輝は、すでに応急処置に入っていた。  痛みに顔を顰めているが、仲間と軽口を交わすくらいの余裕はあるようだ。    それから数十秒の後、陽動班の脱出も完了したとの連絡が鷹也のインカムにも入った。  陽動班の負傷者は二人だが、どちらも軽傷。  安堵の言葉があちこちから上がった。    ボートでは、横たえられた能力者たちが、武装を解き、素顔を晒したベフライエンたちによって応急処置を受けている。  症状が酷いセンチネルに対してはガイディングが行われていた。  あと三十分ほどボートに揺られたら水上機が待機する海域に着く。  そこには内海が待機している。  内海に引き継ぎ、本格的な治療をすることとなる手筈だ。  鷹也は低い船の淵に体をもたれかけ、ずるずるとずれ落ち、座り込んだ状態でそれを眺めていた。  息が苦しい。  体が勝手に震え、止められない。  変に力が入り、拳銃を握り込んだ右手が開けない。  激しく繰り返される呼吸と、次第に痺れてくる指先。  何故、こんなに苦しいのか。  どうして体が言うことをきかないのか。 (わからない)    ここにいる誰もが救出した能力者の応急処置にかかりきりだ。  優先されるのは疲弊した能力者たちであることは理解している。  けれど、もう苦しくてどうしようもない。  誰かに助けてほしい。  いや、誰かじゃない。   「ぁ……ッかけ、る……ッ」  鷹也が絞り出した小さな声は、一度で翔の耳に届いた。  はっと振り返った翔は、近くにいた仲間に声をかけて女性の状態を引き継ぐ。  そして、すぐに鷹也の傍に駆け寄ってきた。 「鷹也、大丈夫だ。手を開け」  翔は鷹也のヘルメットを脱がせ、握りしめた拳銃のセーフティをロックすると、動かなくなった鷹也の拳に手を重ね、ゆっくりと開いていく。  その手の温かさに、鷹也の目尻から涙が流れた。  胸に閉じ込めていた名前のないぐちゃぐちゃな感情が、堰を切って溢れ出す。    ゴトンと荷台の床に拳銃が落ちた。  翔は関節が固まった鷹也の腕を体のラインに沿わせてそっと下ろしてくれる。  そして、拳銃を拾い上げ、腰のホルスターに収めると、眉を寄せて鷹也を顔を覗き込んできた。 「いき、が……ぁッ……」  指先すらも動かせない。  激しく上下する胸と視線で苦しさを訴えると、翔は鷹也の頬を伝った涙を優しく拭った。   「過換気だ。焦らなくていい。十秒数えるからゆっくり息を吐け」    翔の言葉にどうにか小さく頷いた鷹也は、ようやく自分の症状に合点がいった。 (そっか。これ、過換気か)  この症状には覚えがある。  鷹也が警察官として、人生で初めて人を撃ったときも、正しい職務執行と理解しながらもこうなった。 「一、二、三……」  翔が鷹也の肩を撫でながらカウントを始める。  それに合わせ、鷹也は息を吐き出した。  乱れた息は意識しても五秒間で吐き出すのが限界だ。  それを六秒、七秒と、次第に長くしていく。    ようやく十秒間、息を吐けるようになった頃、鷹也は自分の意思で息ができるようになっていた。  指先は痺れているが、ぎこちないながらも、手は握って開いてを繰り返すことができる。  固まっていた体中の関節も、ギッと軋む音が聞こえそうだが、問題はなさそうだ。 「違和感はないか?」 「ない、と思う」  掠れた声で答えれば、翔は長い安堵のため息を吐いた。   「よかった」  翔はそう言うと、余っていた医療用のガーゼを引き寄せ、涙と鼻水で濡れた鷹也の顔をそっと拭った。 「すまない。俺の読みが甘かった。鷹也に銃を使わせたのは俺の責任だ」    あの時、翔の制止を無視して発砲したのは鷹也の意思だ。  翔に落ち度はない。  鷹也は首を振って否定する。  すると、翔は俯いた鷹也の顎に手のひらを沿わせ、上へと掬い上げた。 「それと、ありがとう。あのとき、鷹也が動いてくれたから仲間全員がここにいる。鷹也の辛い気持ちは、俺もよくわかる。苦しませてごめん。それでも、本当にありがとう」  翔の言葉が、鷹也の胸を貫いた。 「ぉ、おれ……俺ッ……!」  自分でも何が言いたいのかわからない。  落ち着いた涙が再び溢れ出し、頬を濡らしていく。  翔が持っていたガーゼは飽和状態で、ハンカチの代用にはならなかった。  逞しい翔の腕が鷹也を囲う。  鷹也の泣き顔を隠すように、涙を拭うように、翔は鷹也を抱きしめた。  その温かな体温に、さらに涙が零れ落ちていく。  生命の危機を回避するために一発の弾丸を発射した自分自身への困惑。  その行為によって、鷹也自身のアイデンティティを壊し、翔との約束を破ったという後悔。  囚われていた能力者を救出し、生きて帰って来られたという達成感。  そして……。 (翔が生きている)  鷹也を引き寄せるこの温もりは、鷹也自身が守り切ったもの。  窮地だというのに、いや、そんな状況だからこそ思い知らされた。 ――翔が好きだ。    第一印象は最悪で、いけ好かない野郎だと思っていた。  けれど、思い返せば翔は最初から優しかった。  翔の抱えている傷に触れ、翔のことを知りたいと思った。    その思いは少しずつ成就した。  実は子どもの扱いが不得手で、ここで過ごすうちに慣れたということ。  意外と辛いものが苦手だということ。  軽快なやり取りは関西出身の父譲りであること。  ともに過ごすうち、そんな些細なことを知っていった。    そして、翔は責任感が強く、同じ能力者を救いたいという決意は固い。  その背負っている重荷を、どうにかしてなくしてやりたい。  心の一部を置いてきた日本に、共に帰りたい。    不敵な笑みも意外と愛嬌があるが、ふとした瞬間に溢す柔らかな微笑みをもっと見てみたい。  鷹也とは少し違う筋肉に、その日焼けした肌に触れたい。    立場が云々と言い訳を並べ、どうせ叶わないからと心に蓋をしていたはずなのに。  それが、命の危機に直面し、安堵と共に、仕舞い込んでいた感情が思わぬところで弾けた。  正と負の感情がごちゃ混ぜだ。  自分では抱えきれない感情を、どうしたらいいかわからない。  鷹也は優しく包み込んでくれる翔に、縋り付くように腕を回してその背中にしがみつき、胸に顔を埋めた。  噛み締めた唇からは、小さな嗚咽が零れ落ちていく。  翔は何も言わずに鷹也の背中を撫で、鷹也の感情を受け止めてくれた。  しばらくして、海上で水上機に乗り換える。  動ける者たちでボートを素早く片付け、離陸した機内では待機していた内海が右へ左へと休みなく動き回っていた。  その手元は迷いなく的確で、処置をされた能力者たちは、心なしか穏やかな表情を浮かべている。  内海が医者として優秀であることは経歴からして明らかだが、修羅場ともいえる現場で命を預かる医者の姿を眺めているだけで、鷹也はその気迫に圧倒された。 「一緒にいてやりたいが、まだやることがある。ここで休んでいろ」  翔にそう告げられ、機内の最後部の席に座った鷹也は、ただ呆然と、病院と化した機内を眺める。    涙の止め方がわからない。  次から次へと頬を伝うぐちゃぐちゃの感情は、胸の内から溢れて止まらないのだ。 (俺はこの先、どうしたらいいんだ)  犯した過ち。  けれど、それは本当に過ちなのか。  立ち位置によって変わる正解と不正解。  早く答えを出さなければ……。  答えが決まらなければ、身の振り方も定まらない。  しかし、フライト中、どれだけ考えても答えは出なかった。  考えれば考えるだけ、ただひたすら虚無感に襲われ、真っ白な頭は何度も同じ場所でエラーを起こす。  鷹也は、子どものように瞼を腫らし涙を流すことしかできなかった。

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