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第44話 戻ってきた

※残酷な描写があります。  ご注意ください。  背中に温もりを感じる。  守るように回された腕は、しっかりと鷹也を抱き止めていた。  首筋には、いつか感じた熱があった。 (これは、夢?)  いや、夢じゃない。  不足していた酸素を必死に取り込む体は、生きていると、これは現実だと叫んでいる。  視線を上げると、白と赤のコントラストが飛び込んできた。  広がり迫る赤の源水を辿ると、そこには重なり合った二人の人間がいた。  伏せる海老原を庇うように上に重なった内海。  ほんの数メートルしか離れていないのに、全身を赤く染めた内海の喘鳴は集中しないと聞こえない。  力の抜けた体がずるりと床に落ちると、びしゃりと嫌な音がした。  手を伸ばしかけて、ようやく気付く。  自分の手が赤黒く濡れていることに。 「お、おれ……うつみ、せんせ……」  青白く、暗い闇に呑まれていた間、現実世界でのことは覚えていない。  だが、覚えていなくとも、この現状を見れば何があったかわかる。  内海を傷付けたのは、自分だ。  震える体は、翔に強く抱き締められている。  その腕に縋ろうとして腕を体の方へと引き寄せた刹那。 「危な……!」  内海に視線をやりすぎたせいで、海老原が拳銃をこちらに向けていることに気付くのが遅れてしまった。  だが、鷹也は叫んだ翔にぐんっと強く体を後ろに引かれ、転がり、部屋の出入口付近にあった机の下に押し込まれる。    その直後、乾いた銃声が聞こえたが、鷹也と翔が被弾することも、机が凹むこともなかった。  出入口のドアがある壁に亀裂が走っている。  被弾したのはそこのようだ。 「体は痛むか?」  低く潜められた声に問いかけられ、鷹也は横にある温もりに目頭が熱くなる。  そこには、机の反対側にいる海老原と内海の様子を窺いながらも、鷹也に視線を向ける翔がいた。 「許容範囲だ。翔は?」 「無傷だ。全身防弾服だからな」  翔は、とん……と脇の辺りを手で押さえた。  黒い服には穴が空いているが、血は流れていない。    鷹也も防弾服を着ている。  よくよく考えれば無事なことはわかったはずなのに、あのときは柄にもなくパニックになってしまった。  それは、翔への気持ちがあるだけでなく、内海から渡されて服用した薬の影響もあるのだろう。   「よかった……。なあ、俺、なんで……」 「野生化したんだ。ガイドが傷付けられたときに起こる反応な。内海先生を怪我させたのは事実だが、薬の影響と野生化のきっかけはあいつらが原因だ。鷹也は何も悪くない」 「ッでも……」  野生化は他者から誘発されないと起こり得ない状態だ。  だからこそ、法でも野生化時の免責事由が明記されている。    だが、内海をあそこまで怪我させたのは事実だ。  何も悪くないことにはならない。  自責の念に駆られ、弱々しい声を出す鷹也の肩を、翔は優しく掴んだ。   「言いたいことはわかっている。でも、今やるべきことは考えることじゃない」 「そう、だな」    今やるべきなのは、拳銃を持っている海老原を制圧し、内海を早く医療に繋げること。  そして、タワーに捕らわれている能力者たちを解放し、タワーの非道な研究を白日の下に晒すことだ。  仲間を裏切ったとしても、それが警察官だった鷹也の矜持だった。  机の前垂れの影からそっと顔を出す。    海老原は拳銃をこちらに向けたままだ。  だが、崩れ落ちた内海の体を左腕に抱き、食い入るように彼の顔を見ていた。  二人の唇は動いている。  小さいが、細々とした会話が交わされているようだ。 (逃げる算段でも話しているのか?)  鷹也はタイミングを計りながら二人を視界に収めつつ、聴覚を拡張し、彼らの会話に集中した。 「紀夫さ、ん……怪我……は?」 「ない。爽太が庇ってくれたからだ」 「役に立てましたか?」 「もちろんだ。パーフェクトマッチの二人を連れてきてくれた上に、私の命を守っただろう」 「よかっ……た、ぅ、ぁ……」  痛みの波が来たのだろう。  内海は言葉を切り、喉を絞った呻き声を上げた。    鷹也がつけた内海の背中の傷。  一瞬しか見えなかったが、かなり深かった。  痛みに慣れていない非戦闘員には耐えがたい苦痛だろう。  そう思うと、罪悪感で胸がひしゃげそうだ。   「痛むか。あの二人を捕えたらすぐに処置を」 「ねえ、紀夫さん。お願いがあります」  内海が、海老原の言葉を遮るように、掠れた声を上げた。   「なんだ? 何でも聞いてやる」 「僕は曲がりなりにも医者です。自分の体のことはよくわかっています。今から処置しても、生き残る確率は五分五分です」 「大丈夫だ。私が助ける」    決して言葉を違えることはない。  わずかに震える海老原の声には、決意の強さが滲み出ていた。 (へえ……。人を人と思わない研究をしてきた奴にも、人間の心はあったんだな)  海老原がしてきたことはあまりにも非道だ。  平然と人の肉体と精神を弄ぶくらいだから、血も涙もない冷徹な人間だと思っていた。  だが、どうやら彼にも心が残っていたようだ。   「この上には大勢の警察官がいます。手負いの私を連れたらすぐに捕まってしまう。僕は貴方の目の届かないところで死にたくない。だから……」 「それ、は……」 「僕は紀夫さんの手で逝きたい。ね、お願い」  部屋にいた全員が息を呑んだ。  内海の願いは、あまりにも身勝手で、儚く、そして残酷だった。    痛い沈黙が落ちる。  海老原は無言のまま、内海の切ない眼差しを受け止めていた。  心拍数も上昇し、かすかに緊張した汗の臭いがする。    この様子や震える声から、内海の願いは退けられる。  少しでも人の心を持っているならば、恋人を自らの手で殺めることなどしないだろう。  だが、鷹也の考えは甘かった。   「……爽太が願うなら」    それは、静かな声だった。  恋情と哀憫が入り混じった視線。  海老原は長い沈黙の後、鷹也と翔に向けていた銃口を内海の心臓へと向けた。 (嘘だろ!?)  鷹也は机の影から躍り出て、すぐさま駆け出した。  背後では翔が動く気配がする。  翔の行き先は、この部屋に入って手放した武器が転がっているところだ。  翔が海老原の動きを射撃で止め、鷹也がその動きを封じる。  打ち合わせをしなくても互いの意図がわかるのは、多くの現場を踏んできたからだ。  海老原と内海まではあと数メートル。  ここまで来ると、二人の表情がよく見えた。  内海の唇が小さく動く。   「ありがとう」  か細い声は、乾いたふたつの発砲音に掻き消された。  後ろからの音がわずかに遅い。    首が絞められたように息ができない。  それでも、鷹也はこのチャンスを逃すことなどできなかった。  再び破裂音が響く。  発砲の反動で斜め上へと伸びている海老原の前腕付近で血しぶきが散った。 「ぐッ、う……」    鷹也は呻ぎ声を漏らした海老原の腕を捩じり上げ、脱力した手から拳銃を奪い取った。  そして、握った腕を軸に体を回転させ、海老原の体を血の池と化した床に押し倒して制圧する。  その間に、翔が内海へと駆け寄った。   「内海先生は!?」  顔だけを内海の方へと向ける。  鷹也からは、内海は翔の体で遮られて見えない。   「駄目だ……」  顔を上げ、振り返った翔は今にも泣きだしそうだった。  ゆっくりと横へずれた翔の体。  その奥に、内海は倒れていた。    さっきまで、悲痛な喘鳴を上げていた内海。  その顔は、穏やかに微笑んでいた。  とても、幸せそうに。  

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