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冬は寒いから好きじゃない。
夏は暑すぎて、どうにも集中できない。
でも、雨は別だ。
濡れることはないのに、水滴が静かにガラスを伝っていくのを見るのが好きだ。
あのゆっくりとした動きに、時間の流れを感じる。僕らは刻むことしかできないから、余計に惹かれるのかもしれない。
春は……人が多い。
一年で一度、僕らの下がいちばん賑やかになる季節。旅立つ前に写真を撮る学生たち、新しく大学に来たばかりの子たち。みんな僕らを見上げていく。
その顔が晴れやかで、僕のどこか柔らかい部分を毎年そっと撫でていく。
だから春は好きだ。大好きだ。
秋は……どうだったっけ?
思い出そうとした、その瞬間。
「おい……おーい。起きろよ」
「……ん、……おあっ!」
視界が揺れたと思ったら、短針に腕を掴まれていた。
「はは、どうした? 寝不足か?」
「……まあ、そんなとこ」
寝不足なのは事実だ。
急に抱きしめられたあの時から、重なる時間が来るたび胸がざわつくようになった。
0時0分 初めて抱きしめられた。
1時5分 意識していたらまた抱き寄せられた。
2時10分、3時16分、4時21分……二人が重なる時間のたび、短針の腕が回ってくる。
5時27分には、もう抵抗する気もなくて…いや、単に眠かっただけかもしれない。
気づけば抱きしめられ肩を預けていた。
「……今、なんじ?」
「あはは、8時43分。……本職が聞くなよ」
朝の8時43分。
二人が重なる時間帯だ。
「確認したいときもあるだろ。誰だって」
ほんの少し棘を混ぜたつもりだったが、
短針は肩を揺らして笑っただけだった。
うとうとしていたらしい。だけど今8時の重なりでは、短針は抱きしめてこない。
夜の間は迷いもなく抱くくせに。
朝は何事もなかったような顔をするなんて、ずるい。
……あれじゃ眠れるわけない。
そんなこと、言えるわけないけど。
喉まで出かかった言葉は、結局飲み込んだ。言ったら、笑われる気がしたから。
◇
朝の重なりを過ぎ、いくつかの講義が終わるころ。日の光は斜めに差し込み、学生たちの影が地面に長く伸びていた。
声が届かない時間帯。ひとりきりだけど、この景色だけは飽きずに眺めていた。
「お、今日は珍しく賑やかだな」
重なる五分前、短針の低い声がふっと届いた。
夜じゃない…だから抱きしめてこないだろう。なのに、その声が耳に届くだけで身体がわずかに震えた。敏感になってきているのが、少し悔しい。
「見て。あの二人、そろそろじゃない?」
僕が指し示した先では、ベンチに座った男女が向き合っていた。男の子はポケットを何度もまさぐり、小さな箱の角を指でなぞっている。
「プレゼント、かな」
「アクセサリーだな。渡す前が一番緊張する」
短針は落ち着き払って言う。恋愛経験があるみたいな顔をして、こういうときだけよく喋る。
「ずいぶん詳しいね?」
「表情で分かるだけだ。……ほら、来るぞ」
男の子が箱を差し出した。女の子の頬がふっと緩んで、次の瞬間には涙と笑顔が一緒になって弾けた。風が吹き抜け、ふたりの空気だけがやけに明るい。
「……いいな。ああいうの、素直で」
思わず口にしていた。すると短針は、こちらをちらと見てくすっと笑った。
「お前、ほんと顔に出るな」
「出してない。……出すつもりはない」
「いや、今すごく嬉しそうだった」
からかわれて、思わず視線を逸らす。
その瞬間、短針の表情がふっと変わった。
「……あっちは逆、だな」
視線の先。
別のベンチでは、男女が静かに向き合っている。女の子は言いかけては口をつぐみ、
男の子はスマートフォンだけを見たまま、目を合わせようともしない。
「空気が……冷えてる」
「別れ話だよ」
短針は淡々と言ったが、その声はさっきより低い。
「男の方は、もう気持ちが残ってない。女の方は気づいてるけど……最後の一線を自分から言いたくない顔だ」
「……そんなの、わかるの?」
「人間はな、心が離れるときほど、時間を見ない」
男の視線はスマートフォンだけ。
女の子は一度も僕たちを見上げない。
「……やだね。なんか胸が重い」
「人の恋なんてそんなもんだ。寄ったり離れたり、忙しい」
短針の言葉は正しいのに、どうしてだろう。その横顔が妙に遠く見えて、胸が少しざわついた。
気づけば、口が勝手に動いていた。
「……短針は?くっつく方が好き?それとも離れる方?」
自分でも変な質問だと思った。でも、訊かずにいられなかった。
短針はわずかに沈黙して、静かに言った。
「俺は……重なる方が好きだよ」
そのまっすぐな言葉に、胸の奥がじんと熱を帯びた。
「特に……」
声が近くに感じる。
触れる距離ではないのに、その距離が縮まった気がした。
「お前と重なるのは、悪くない」
「……っ」
返事ができない。
何を言えばいいのか分からないまま、時間が止まったように感じた。
そのとき、『カチッ』と音が響いた。
会話が途切れる境目の合図。
声が消える直前、短針が小さく笑った。
「次の重なり……寝てたら起こすからな」
そう言われた瞬間、また胸がキュッ音を立てたような気がした。昼間の静けさの中なのに、心臓だけが忙しく動いている。
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