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深夜0時。 毎夜この時間、針が重なる瞬間、短針の腕が僕を抱き寄せる。 その温度を知ってしまってからというもの、昼間は知らん顔を決め込む短針のくせに、重なる時刻だけは容赦なく心を乱してくる。 0時前後の20分が終わると、会話は途切れた。腕を離した短針の声はもう届かない。静寂の中、僕はただひとり、時間の流れに揺られていた。 これは慣れるものなのか……胸の奥の熱がしばらく収まりそうになかった。 声が届かない40分ほどの時間。ぼんやり外を眺めたり、眠気に負けてうとうとしたり、長いようで短い、ひとりの時間。 けれど、1時台が近づくにつれ、眠気より胸のざわつきが勝ってしまう。 1時5分。 0時の次に重なる時間だ。 「……起きてるか?」 重なる10分前、短針の声がふいに響いた。 夜の静けさを割るような、落ち着いた声。 「起きてるよ。……さすがに」 ほんの数分前まで眠気と戦っていたなんて言えない。声が届いただけで身体が勝手に覚醒してしまうのが悔しい。 「よかった。お前、さっき……0時過ぎ、眠そうだったからな」 「見てたの?」 「お前が眠そうにしてるの、けっこう好きだよ」 「……なんで」 「隙があるから」 言葉の意味が分からなくて、心臓が一度止まった気がした。それを追うように、短針がじわりと近づいてくる。 「……あと一分だな」 「なにが」 「重なる時間だって言っただろ」 重なる寸前のこの会話がいちばん心に悪い。わかってるくせに、とぼけると必ず短針は距離を詰めてくる。 そして、1時5分。 ふたたび最も近づく位置に来た瞬間、 短針の腕が僕を強く抱き寄せた。 「っ……また……!」 「当たり前だろ。……重なるたびに、こうするって決めた」 呼吸が触れ合いそうな距離。0時よりずっと深い抱き方だ。腰を引き寄せられる。 「……なんで、そんなに近い」 「近づきたいからだよ」 「だからって……近いよ」 「近い方が、いいだろ」 短針が、あきれるほど自然に言う。その声が耳元でほどけて、身体が熱くなる。 胸の奥のリズムが、一瞬だけ乱れた。その乱れを拾うように、短針の指が僕の顎にそっと触れた。 「……キス、していい?」 息が止まった。 「……い、ま……?」 「今がいい。お前が、俺の腕の中にちゃんといる時間だから」 拒否できる理由がどこにもなかった。逃げる気持ちも残っていなかった。 「……したい、なら……」 その瞬間、短針の瞳がふっと細まった。 次の息の重なりで、迷いなく唇が触れた。 静かで、深くて、時間の流れが一度すべて止まったようなキスだった。 離れたあと、短針が僕の頬を、ゆっくり撫でた。 「……次もするからな」 「……っ」 返事なんてできなかった。けれど胸の奥では、次の重なりのことばかり考えていた。 声が届かなくなる 『カチッ』が鳴る直前、短針は小さく囁いた。 「…そんな顔するなよ」 そして声が消える。 残されたのは、唇に残る熱だけだった。 僕らの声が途切れる合図の『カチッ』が響くと、短針の気配が、ふっと離れる。 これからは、声が届かない40分。 いつも通りの静かな時間のはずなのに、今日は胸の奥がうるさくて眠れない。 キスなんて……する? 何故したのか? 触れた唇の熱が、夜気の中でも消えない。 その余韻を追うように、時計台の内部はしん……と静まり返っていた。 声が届く20分。そして、その後会えない40分。この40分がやけに長いと何故感じるのだろうか。 ◇ 深夜2時。 そろそろ短針の声が届く頃だ。 針のリズムが少しだけ速く感じる。本当は変わらないのに、心が先に進んでしまう。 「……起きてるか?」 短針の声が届いた瞬間、音もなく胸の奥がひっくり返るような感覚だった 「寝れるわけないだろ、こんなん……」 言った自分に驚いて、慌てて口を閉じた。 短針は笑いながら、ゆっくり近づいてくる。 「へぇ。寝れないほどの、キスだった?」 「っ、違……!」 「じゃあ、なんで眠れなかった?」 言葉を詰まらせている間に、短針は距離を縮めた。まだ重なる時間ではないのに、声が聞こえる範囲ぎりぎりまで寄ってくる。 「……なぁ、長針」 いつもより少し低い声。 僕は、喉が熱くなるのを感じた。 「お前は20分しか俺の声、聞けないよな」 「……うん」 「でもその20分、お前は必ず俺の方を向く」 「……当たり前だろ。会話できるの、その時間だけなんだから」 「違う」 一拍置いて、短針が言った。 「俺だけを見てる、って言ってるんだ」 呼吸が止まった。 「お前が回ってる40分の間に見てるものは、人間、景色、星……いろいろだろ。でも、声が届く20分の間だけは、お前は俺の方に意識を向ける」 短針は、ゆっくり僕へ手を伸ばした。 「その瞬間がずっと好きだった。……気づけば、ずっと前から」 胸がつかまれたみたいに熱くなる。 ……ずっと前から? 短針の言葉がこだまする。 短針は続けた。 「長針。お前は自由に回って、俺よりもずっと多くを見てる。けど……俺にはお前を見てる時間しかない」 その声はいつもより静かで、いつもより痛いほどまっすぐで、そしてたまらなく優しかった。 言葉がうまく出てこない。僕の胸の奥で、何かがゆっくり形を取り始める。 「だから……重なるたび抱きしめたくなる。20分の間だけでいいから、俺のものにしたくなるんだよ」 「……っ」 短針は僕の頬に触れて、自分でも抑えきれないみたいに微笑んだ。 「さっきのキスも……そういうことだ」 「……短針」 名前を呼んだだけで、胸が痛いほど熱くなる。 重なる時間まで、あと少し。 短針は僕の額に自分の額をそっと合わせた。 「20分じゃ足りない。40分も、お前のこと考えてる」 「……僕も……」 「ん?」 「……40分、長く感じた。それだけは言ってもいい」 その瞬間、短針の手が少し強く僕を引き寄せた。 「……長針」 名前を呼ばれるだけで、胸が震える。 次の瞬間、短針の唇が僕に触れた。すぐに離れて、今度はほんの少し角度を変えて、もう一度キスをされる。 くすぐったいのに、身体の奥まで熱が落ちてくる。 「……なんで……そんな……」 息がうまく吸えない。 短針は小さく笑って、頬に触れながら、また角度を変えてそっとキスをする。 「お前さ……ちょっとずつ違うとこにキスすると、びくってなる」 「な、なるわけ……」 最後まで言えなかった。唇を重ねられたからだ。 抱きしめられ、さっきより深く、けれど優しいままのキスをされる。外の空気が静かに伝う音だけが世界を満たす。 短針の息づかいと、僕の心臓の音が混ざり合う。 「……もっと触れたいけど、時間が来る」 短針の低い声に胸がさらに跳ねる。 「あと数秒で、また離れてしまう。それが……嫌だ」 僕は短針の胸に額をそっと預けた。時計台の冷たい空気と短針の体温が混ざる。 「……僕も。離れたくない……と思う」 重なりが解ける直前、短針はもう一度だけ、ゆっくり、深く、唇を重ねてきた。 そのキスは、会えない40分を埋めるための、優しくて、どうしようもなく愛しいものに感じる。 「……次は、もっと深くする」 「……な、なにを……」 「決まってるだろ。キスの続きだよ」 声が届く最後の瞬間まで、短針は囁くように言った。 『カチッ』 会話が途切れても、胸の奥は、まだドクドクと音を立てていた。 抱き寄せられた腕の熱だけが、身体に残っていた。キスの余韻は、まだ消えていない。 ……重なる時間はあっという間だった。いつもよりずっと短く感じた。あれほど早く終わってほしくないと思ったのは初めてだ。 ここから40分は声が届かない。 短針の存在が急に遠くなる時間。 静まり返った時計台。誰もいない夜の空気をゆっくり吸い込みながら、短針の言葉を思い返した。 ___「長針。お前は自由に回って、俺よりもずっと多くを見てる。」 本当にそうなんだろうか。 僕は1時間で時計の中を一周する。景色はよく変わるし、人間の表情もいくつも見える。でも…知っていることは、短針の方がずっと多い。 昼間の待ち合わせ 春という旅立ちの季節 雨の日の歩き方 スマートフォンなんてものの存在さえ、 みんな短針が教えてくれた。 僕が見てきた景色は多いのかもしれないけど、意味を知っているのは短針の方で、会話の中で、いつも学ぶのは長針の方だった。 ……僕のほうが、ずっと子どもだな。 そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。 短針の言葉はいつも落ち着いていて、感情に揺れないように見える。 なのに…… あのキスのときだけは、すごく近くて、すごく熱い。 あれは、僕にしか見えない顔だ。そう思った瞬間、胸がぎゅっとしてしまった。 ……会いたい 40分がこんなに長いなんて、これまで思ったことがない。 会いたい。 声を聞きたい。 重なる瞬間の温度に触れたい。 言葉にできない衝動が、胸の奥でじわじわ増えていく。 「……短針」 名前を呼んでも、返事は返ってこない。 わかっているのに、呼びたくなる。 静けさの中で、ふと気づく。 これが、会いたいって気持ちなんだと。 ただ話したいんじゃない。 ただ抱きしめられたいんじゃない。 短針に触れたい。 短針の声が欲しい。 短針の視線が、僕だけに向いてほしい。 深夜の空気は凍るほど冷たいのに、胸の中だけがずっと熱いままだった。 針の音が、胸の奥へゆっくりと歩み寄ってくる。 「……重なる時刻が、近い。」 言葉にした途端、自分の声があまりにも待ち遠しさを隠せていなくて、思わず息を呑んだ。 短針が言った。 ___「20分の間だけ、お前は俺だけを見る」 本当は、40分の間もずっと見ている。 声が届かなくなっても、離れても、ずっと考えている。 ……短針に、会いたい。 その答えを自分の中で言葉にした瞬間、 次の20分がようやく始まろうとしていた。

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