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しと……しと……と落ちる雨が、時計の内部まで静かに響く。 僕はこの音が好きだ。濡れることはないのに、水滴がガラスを伝う様子だけは、どこまでも鮮明に見える。 夕方。 雨が静かに降り出して、キャンパスの色が少しだけ薄くなった。 「今日は、雨だな」 雨の日は落ち着くから好きだ。そんな話をしたことを、短針は覚えていたらしい。 短針のぼそっとした独り言が、重なる少し前に届く。雨の音に混じっても、その声だけはよくわかった。 「雨、好きだけどね。外の景色がゆっくりになる感じが」 「お前は眺めてるだけだもんな。濡れないし」 「それ、ちょっとずるい言い方じゃない?自分だって同じくせに」 そんな軽口を交わしていると、階段の下に二人組が駆け込んできた。片方の子が、慌てた様子で鞄を開けたり閉めたりしている。 「……あ、やらかした顔だ」 短針が小さく笑う。 「傘、忘れた?」 「だろうな。ほら、もう片方の子が自分の傘を気にしてる」 片方の子は傘を握りしめていて、もう片方の肩を気まずそうに見ている。 「一緒に入ればいいのに」 思わず口にすると、短針がふっと笑った。 「言うのは簡単なんだよ、それ」 「……そういうもの?」 「そういうものだ。ほら、どっちが言い出すかで、ちょっと揉める」 本当に、その通りになった。 傘を持っている子が、何度か口を開いては閉じて、傘なしの子は「平気だよ」と言いたげに空を見上げている。 「強がってるな。あれはびしょ濡れパターンだ」 「でも、本当は相合傘したいんだろ」 「どっちもな」 短針の言い方は淡々としているけど、どこか楽しそうだった。しばらく押し問答みたいな空気が続いたあと、傘を持っている方が、ようやく一歩近づいた。 『……入る?』『……いいの?』 声はここまで届かないけれど、口元の動きでそれくらいは読める。次の瞬間、二人は一本の傘の下におさまった。肩と肩が少し触れて、お互いの顔が一瞬だけ近づいた。 「……いいな、ああいうの」 ぽつりと言うと、短針がすぐ反応した。 「また顔に出てるぞ」 「出してない」 「出てる。さっきより、針先が柔らかい」 そんなところまで見られているのか。じわっと照れくさくなって、視線をそらした。 「……ああやって、一緒に帰れるんだな」 「まあ、人間はな」 短針は少しだけ間を置いて続けた。 「雨の日に隣にいてくれるやつを、大事にした方がいい」 「はは、またなんか、それっぽいこと言ったね」 「あいつらの会話、散々聞いてきたからな。別れるときほど傘は別々で、付き合い始めほど無理やりでも一緒に入ろうとする」 「……やっぱり物知りだな」 「耳がいいだけだよ」 短針はそう言って笑った。 雨音が少し強くなって、二人の姿が見えなくなる。 こうやって、誰かの恋が始まる瞬間を眺めること、それを見て、二人でこっそり笑い合うことが楽しい。 「……短針」 無意識に名前を呼んでいた。 「ん?」 「……なんでもない」 言葉にならない声を、雨音がそっと誤魔化してくれた。 ◇ 雨の気配が消えると、しずかな夜が、また僕らを包みはじめる。 深夜2時前。 次の重なる時間の10分前になると、短針の声がひっそり届いた。 「……あそこ、まだ灯りついてるぞ」 短針が示す方向を見ると、キャンパスの端の教室だけぽつんと明るい。窓越しに、数人の学生がぐったりしながらパソコンに向かっている。 「レポート……だよね、あれ」 「ああ、締め切りが朝のやつだ。毎年この時期になると増える」 短針はまるで昔から全部知っているみたいに言う。 「なんでギリギリまでやらないのかな。間に合うの?」 「ギリギリまでやらないんじゃない。まだ時間があるって思って甘えるんだ」 「……時間に甘える?」 「ああ。人間は未来が続くと思ってる。だから夜になって焦る」 窓の向こうの学生たちは、笑いながら、泣きながら、眠そうに首を回して、それでも手を止めない。 その姿が、なんだか眩しかった。 「……なんか、羨ましいね」 ぼそっと言うと、短針が少し意外そうに返す。 「羨ましい?」 「うん。疲れた様子なのに、顔が楽しそうだから」 短針は一瞬黙ったあと、低く笑った。 「……お前、そういうとこ本当に素直だな」 「褒めてる?」 「褒めてるさ」 窓の中の学生の一人が、大きく伸びをした。肩がぶつかって笑いあう子たち。眠気に負けそうで机に顔をつっぷす子。頬杖しながら、窓の外をぼんやり眺める子は顔がぐしゃぐしゃだ。 「朝になったら、きっと忘れるだろうけど……今のこの瞬間、青春ってやつなんだよ」 短針の言葉は穏やかで、少しだけ憧れが混じっているように聞こえた。 「青春って、そんな感じなんだ」 「俺たちは徹夜もしないしな」 「……徹夜してるけど?」 「違う意味でだろ」 思わず吹き出して、短針も笑った。 ◇ 長い夜を越えて、空はまた光を取り戻す。 暗いキャンパスが、光に満ちる時間へと変わっていった。 正午12時。 太陽が真上でまぶしいくらいの時間帯。 重なる時間の少し前に、短針がふっと視線を下へ向けた。 「……あいつ、さっきからずっと見てるな」 「どれ?」 「ベンチの前。紙を握りしめてるやつだ」 見ると、一人の学生が、くしゃくしゃになった紙を胸に抱え、何度も僕たち時計台を見上げていた。 息を吸っては吐き、目を閉じてはまた開ける。まるで、自分を励ますみたいだ。 「……緊張してるね、あれ」 僕が言うと、短針が静かに頷いた。 「ああ。何か決めたい時の顔だ」 「決めたい……?」 「未来のこと。行くか、行かないか。挑戦するか、やめるか。どっちにも転べる時、人はこういう顔になる」 その言い方は、何年分もの人間の迷いを見てきた響きがあった。学生は手の中の紙の折り目を、一度、二度となぞる。 「あれ……出すかどうか迷ってるのかな」 「そうだな。でも、迷ってるってことは…前に進みたいってことだ」 「そうなの?」 短針はふっと笑った。 「進む気もなきゃ、迷いもしない。本当に諦めたやつは、目を上げないんだ」 学生は、ぎゅっと紙を握りしめ、もう一度、僕らを真っ直ぐに見上げた。その目が、少しだけ強くなる。 「……決めた、ね」 「決めたな」 僕らの声は届かない。触れることもできない。でも、この瞬間、僕はどうしても言いたくなった。 「……がんばれ」 小さく呟いた。 もちろん、届かない。けれど、短針がぽつりと続けた。 「行ってこい。未来は行くやつのものだ」 その声はいつもより低く、優しかった。 学生は大きく息を吸い、勢いよく立ち上がった。そして、決意を抱えて校舎の奥へ走り出す。陽光の中に吸い込まれていく背中を見て、僕は胸の奥がじんわり熱くなった。 「短針……僕たちの言葉、届いたかな」 「届かないさ。でも...時間は届く」 「時間?」 「迷ってるやつの背中を押すのは、いつだって『今』だ。それだけは、俺たちでも与えられる」 そう言って、短針はわずかに針先を僕へ寄せた。僕はそのほんの小さな距離の変化に心臓が跳ねるのを感じる。 「……ぼくと短針で、あの子を押したんだね」 「さあな。でも、あいつはいい顔してた」 そのままいなくなったベンチを見ていると、遠ざかる瞬間の合図『カチッ』が響き、短針の声が聞こえなくなった。 それでもその間、僕はずっと学生が消えていった方向を見続けた。 あの子の未来が光り続けるように。 あの子の時間が止まらず進み続けるように。 ほんの少しだけ、針先が未来へ向けて伸びた気がした。

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