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しばらく前から、僕たちの下の通りがざわざわと落ち着かない。 普段は人が少ないはずの朝から、ヘルメットをかぶった男の人たちが立ち止まって、時計台を見上げては何かを話している。 時々、梯子をかけて途中まで登ってくる人もいる。こんな光景、今まで一度もなかった。 「……ねぇ、短針。なんか、変じゃない?」 声が届く時間帯、重なり始める数分前。僕はずっと気になっていた疑問をようやく口にした。 短針は、しばらく黙っていた。ゆっくり、僕の角度に合わせるように振れてから言う。 「……工事だ」 「工事……?」 嫌な響きだった。その二文字だけで、胸がひゅっと縮む。 「時計台の修繕。かなり古いからな。内部の歯車も摩耗してるし……そろそろ止めて、点検する時期なんだとよ」 短針の声はいつもの落ち着いた調子だった。けれど、その端にほんのわずかな揺れが混じっていた。 「……止めて?」 思わず反芻してしまう。 「時計が、止まるってことだよな?」 「ああ…全部いったん止める。場合によっては、取り壊しもあるらしい」 風が吹いたわけじゃないのに、寒気がした。下の人間たちはそんなことを知っているのに、僕らには何も知らせてくれなかった。 「やだ……」 初めて、そんな言葉が漏れた。 「止まったら……僕、回れない。回れないってことは……短針に、もう会えなくなる?」 「……」 短針は答えなかった。答えないことで、答えがわかってしまった。 20分の会話も、毎時間の抱きしめられる一瞬も、全部なくなる。 声も、触れられる温度も、重なるたびに胸が熱くなる感覚も。 全部…なくなる。 「いやだ……やだよ……」 自分でも驚くほど、声が震えた。 短針が、静かに言った。 「長針。落ち着け。まだ取り壊しと決まったわけじゃない」 「でも止まるんだろ!?止まったら……僕、何もできない。動けもしない。短針と……話せなくなる……!」 重なる直前のわずかな角度の中で、短針がそっと僕に近づいた。 「……怖いよな」 その一言で、胸の奥がついに崩れた。 「こ、怖い……動けなくなるのも……話せなくなるのも……触れられなくなるのも……全部、怖い……!」 涙は流れない。でも、心は泣いていた。 短針は僕に触れてはいない。けれどその声だけで、わずかに震えているのがわかった。 「……俺もだよ」 その告白は、短針にとってきっと限界のぎりぎりだった。 「ただ……何があっても、最後の瞬間までお前のそばにいる」 その声は静かで、いつも通り落ち着いているようで、それでもほんの少しだけ細かった。 このあと時間が重なれば、また声は途切れる。それでも今だけは、離れたくなかった。 ただ短針の気配を感じていたかった。たとえ次の瞬間、世界が静かになってしまったとしても。 ◇ 深夜1時前。 工事の話を短針から聞かされてから、胸の奥がずっとざわついていた。 動けなくなるのが怖い。時計が止まるのも怖い。でも何より、短針と話せなくなるのが、一番怖かった。 重なる時間まで、あと10分。 声が届く範囲に入った瞬間、短針の静かな声が落ちてきた。 「……長針。まだ不安か?」 「……うん」 自分でも驚くほど、小さな声だった。いつものように軽口なんて、とても返せなかった。 短針はしばらく黙った。 静まりきった時計台の内部には、古い歯車がゆっくり噛み合って軋む微かな音だけが満ちている。 その沈黙をほどくように、短針がふっと低く息を吐いた。 「そうだよな……。俺だって、不安だ」 「え……」 工事の話を淡々としていた短針が、不安を言葉にするなんて思わなかった。 「取り壊しかもしれねぇし、止まったら……俺には何もできねぇからな」 僕を傷つけないように、言葉を慎重に選んでいるのが分かった。 「でも…」 短針は、そっと僕の角度に合わせ針先を寄せてくる。 「工事がどうなろうが……今、お前に触れられる。それだけで、俺は嬉しい」 胸の芯がじわりとほどけた。 「お前を抱きしめられる今がある。それが……俺には大事なんだ」 重なる直前、短針が僕を静かに抱き寄せた。 強すぎない。でも離さない。 そんな腕だった。 「長針。……こっち向け」 言われるまま針先を合わせると、短針の唇が僕の額に触れた。 次に頬。そして…そっと唇に。 さっきよりゆっくり。 確かめるような、落ち着いた深いキス。 角度を変えて、また触れる。今度は長く。息が混ざって、心臓の鼓動がひとつひとつ大きくなっていく。 「……こうしてるとさ、工事とか……全部どうでもよくなるだろ」 「……短針……」 「お前が……ここにいるのが分かる。それだけで十分だ」 短針の声は静かで、でもどこか震えていた。 「……長針」 「なに……?」 「好きだよ」 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。 「……僕も……好き」 自分で言っておきながら、声が震える。 でも、止められなかった。 怖さは消えていない。未来がどうなるかもわからない。 それでも今、短針の腕の強さも、熱も、キスも、すべてが確かに存在している。 その確かだけが、真っ暗な未来に灯る光だった。 世界が止まったような一瞬だ。…いや、本当に止まってほしいと思った。 「大丈夫だ。……何があっても、最後までお前と一緒にいる」 その声に、僕はそっと目を閉じた。 怖いのに、温かい。 不安なのに、嬉しい。 そして、次の重なる20分が、今まで以上に待ち遠しいと思えた。

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