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ひとが恋に落ちる瞬間とは、こう見えるものなのか。
アイゼンは穏やかに保った表情を動かさぬまま、けれど内心に覚えた興味深さには抗えず、正面に立つ聖女――山崎季紗 の表情をじっと見つめた。
これはきっと、「一目惚れ」だ。
お互いの顔を合わせた瞬間に、彼女の瞳は大きく揺らめき、まるで星を飲むかのように無防備に見開かれた。噂に違わぬ華やかな容貌を持つ少女の茶色い虹彩は、目映い光をたっぷりと孕んで――そこに映し出される人物といえば、ただひとり。
大聖堂が聖女召喚の儀を成功させた朝からは、十日が経つ。
つい三日ほど前には、聖女と王族の顔合わせである『お披露目の会』が執り行われていた。アイゼンが聖女の姿を見るのはその会以来だが、当日のたどたどしい挨拶を思えば、彼女は見違えるほどしっかりとした淑女の礼を身に付けている。……いまはどうやら、そんな毛並みの良い猫の皮もすっかり剥がれ落ちてしまっているようだが。
(そうか)
(……これほどに、わかりやすいものなのか)
不思議にむず痒い心地になるのは、きっと幼少期の自分もこんなふうだったんだろう、と想像出来てしまえるからだ。
アイゼンの目線は自然、季紗の傍らに立つルーンハルトへと向いた。
もう十四年も前となる、七つの頃。
初めて顔を合わせた日の衝撃を、いまも自分自身の胸の中に鮮やかに思い出す。
――天使でも現れたのか、と思ったのだ。
当時はまだ短く、少年らしい軽い毛先をしていた銀の髪。動くたびにさらさらと流れるそれは、そんなにも小さな動きで、けれど驚くほど大きく、こちらの心を揺さぶってみせる。
怯えたようにそうっと見上げてくる水色の瞳に、心臓を射られた。おずおずと発せられる声音の響きはあまりにも清涼で、とんでもなく可愛らしくて――強烈な愛おしさを、まだ幼かったアイゼンの胸に焼き付けたのだ。
彼は、静かな雰囲気は父親に、そして深い森の奥、密やかに咲く花のような顔立ちは母親に、よく似ている。そんな両親に連れられ、あっという間に立ち去って行く――その最後の瞬間まで、自分は食い入るように見つめた。
あの日、同じ場には五つ年の離れた姉もいたのだ。……当時の姉がやたらにこにこと微笑ましげな表情でこちらを見てきていた理由が、いまになってよくわかる。
「おい、アイゼン」
潜めた声音で名を呼ばれたかと思うと、同時に、真横から軽く肘鉄が入った。隣に立つ昔馴染みの悪友が、この美少女を早く紹介しろ、と催促しているのだ。アイゼンは呆れ顔にはならぬよう注意しながら、そちらを見遣る。――と。
てっきりいつものように目線が合うのだろうと思えた悪友は、その濃茶色の眼差しをまっすぐに季紗へと注いでいた。
(お、……っと)
こちらもか。
「ご紹介が遅れましたね」
平素の声と表情を保ったまま、アイゼンは再び季紗に向き直った。
「こちらは私の古くからの友人、アーベントロント伯爵家が三男・ダニエルと言います。彼は現在、私が長を務める騎士団の前衛部隊長でもあるのですよ」
「ダニエル……様……」
うっとりと名前を復唱する季紗の前へと、ダニエルが一歩踏み出す。彼は最上級の敬意を示す形で頭を垂れた。さすがの伯爵家子息は、所作のすべてが洗練されている。
「お目にかかれて光栄です、聖女様。もし差し支えなければ……、王太子殿下とのティータイムに、私も同席させていただけますか?」
「っ……もちろんです!」
勢い込んで季紗が頷くと、それを見つめたダニエルもまた、ひとつの呪縛が解かれたようにほっと肩の力を抜くのだ。「ありがとう」と柔らかく微笑む彼のその表情は、うわべの笑みではなく、心から零れる笑顔だった。
ダニエルは武人らしく鍛えた体躯だが、見目も悪くない。短く刈り込んだ濃茶色の髪は彼の気質にもよく似合っているし、幼い頃から自分の従者として王城に出入りしていたこともあり、こういった場での立ち居振る舞いも完璧だった。そのため社交界でもあらゆる女性から引く手あまただが、中身は至って真面目な男であり、信頼出来る。
聖女の手を取る相手として、これ以上ない人物だろうとアイゼンには思えた。
「アイゼン様、……私は、お茶の用意をして参ります」
静かに一礼をして、ルーンハルトが背を返す。その声音の余韻に、アイゼンはつと胸を突かれた。……どうしてか、ルーンハルトがひどく傷付いているように思えてならない。
そもそも、彼はなぜ、聖女を自分の執務室まで連れて来た?
ルーンハルトは先日、聖女・季紗の教育関係の世話係に任命されている。王城内に偏りなく顔が広いことと、大学の方にも人脈があること、そして十九歳である聖女・季紗とさほど年齢差がないこと。それらの条件を見込まれた――というのは、まあ表向きの理由だろう。
自分の補佐官である彼に対し、王城議会が何よりも「期待」するのは、自分と聖女との仲を取り持つことだ。
ルーンハルトであれば、その意を汲むことなどおそらく造作もない。だが、彼は唯々諾々と操られるような人間でもなかった。
(……『浄化』が、目的か)
聖女・季紗には、確かに浄化の力がある。魔物の瘴気すら跡形もなく癒してみせるそれは、いっそ神の力とさえ言えるのだ。
人は瘴気に触れると、皮膚が穢される。その痕は痣となって残った。治癒方法はなく、一生消えない。さらにひどく瘴気に当たれば、死すら免れなかった。
魔物はごくありふれた存在で、どこででも出会う。
そんな身近な脅威に怯えながら生きてきた自分たちにとって、聖女の癒しがもたらす光は、あまりにも大きい。
だからこそ、彼女の奇跡の力に頼れば――半分だけ変質してしまった自分の魔力すら、元に戻せるのかもしれなかった。
「お待たせいたしました」
静かな声音に顔を上げれば、紅茶とお菓子を載せたワゴンを押すルーンハルトの姿が、すでにソファの間近まで戻っていた。
彼は形式的にこちらと目を合わせ、茶葉の銘柄を伝えてくる。
淀みなく続く菓子の説明までを聞いてから、アイゼンはホストの役割を全うするため、季紗へと笑顔を向けた。
「聖女様の口に合えば良いのですが。紅茶はお好きですか?」
「あ、はい。と言うか、こっちに来てから好きになりました。わあ! 木いちごのケーキですね、これ、前もすっごく美味しかったんです!」
「季紗様は、甘いものを好まれるのですか」
季紗のはしゃいだ声に、ダニエルがすかさず反応する。……彼らはもう、二人で好きに会話させておくのがいちばんだろう。
ワゴンの元に立つルーンハルトは、三人へと出す紅茶の用意を手際よく調えている。茶器の立てる小さな音までもが、やたら寂しげに響いて聞こえた。
一見いつもどおりの振る舞いをしているように見えても、表情は硬く、なにより頑なにこちらを視界から排除している。……そんなふうに顔を上げられなくなるくらいなら、聖女との恋のお膳立てなどしなくていい、とアイゼンは歯がゆく思った。
ルーンハルトを傷付けてまで得たいものなど、この自分には一つもないのだから。
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