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――その瞬間、誰の名を呼ぼうとしたのかなんて、考えるまでもない。
(ルーンハルト)
アイゼンは声を放つ代わり、奥歯をきつく噛み締めた。さらには息すら継がず、一息に剣を抜く。
それと同時、どうっと赤紫色の魔力が放たれ、火炎のごとき勢いを持って、魔獣へと向かっていった。巻き込まれた森の木々が、乾いた音を立てて薙ぎ倒される。
「殿下……!」
「下がれ。俺の剣であれば、多少は持ちこたえる」
雪深い針葉樹の森に、満足な陽は差し込まない。それでも、闇色の毛並みを持つ魔獣の輪郭を捉えられるのだ。……あまりにも、距離が近い。
これでは、防護結界を張ることなど不可能だった。
「俺がやつの攻撃を凌いでいる間に、おまえたちは退却しろ」
アイゼンは魔獣の赤く光る眼――先んじてこちらを捉えている凶暴な視線を正面に据えたまま、部下達へと命令を下す。いかに剣技に長けた騎士と言えど、その強さを決めるのは、最終的には魔力の量と質だ。
王族の血は伊達ではない。
だからこそ、王の血を持たねば、魔獣の歯牙にたった一度でも掛かることは死と同じなのだ。
「防護結界を森の外に張れ。総員、そこで待機を命じる」
「ですが……っそれでは、殿下が!」
「俺の心配をするのは、自分たちの身の安全を確保してからだ。――来るぞ」
「!」
ざらりと不快な感触で、夜の帳が引き下ろされる。そんな錯覚を覚えた。ただ一瞬の間に、小山ほどもある魔獣がこちらへ飛びかかって来ている。
落雷のごとく重い爪を剣で受け止めたアイゼンは、吐く息に短い詠唱を加える。銀色にきらめく魔法陣とともに、魔法のシールドが現れた。それは魔獣の鼻先を強く弾いて、ぎゃうっと悲鳴を上げさせ、わずかながら後退せしめた――が。
(まあ)
(焼け石に水だよな)
シールドはシールドだ。相手に傷を負わせるほどの威力はなく、むしろ半端に叩いた分、かえってあちらの闘争心は煽られたことだろう。
魔獣の眼はらんらんと光り、いまはアイゼン一人をその獲物と定め、慎重に間合いを探るような仕種をする。……それならそれで、こちらにも都合は良かった。
(俺だけなら、戦える)
魔獣の攻撃を受けた際、互いの魔力同士がぶつかって発生する衝撃波に煽られ、騎士達は森の木々よろしく吹っ飛ばされている。多少の怪我を負った可能性はあれど、魔獣の興味からは外れ、充分な距離も取れたはずだ。
王城騎士団がつくる防護結界は、王国一の強度を誇る。それさえ張っていてくれれば、部下たちに心配はなかった。
だが、この先は消耗戦だ。
こちらは魔獣の攻撃を凌ぐことは出来る。けれど、それだけだった。負け戦なのは確定している。なにせ、三年前とまったく状況が変わらない。
三年前――士官学校の最終学年。
当時の王城騎士団とともに、学生の身としては最初で最後の実戦に出た。対象は、ごく小規模な魔物の群れ。魔物たちは、「魔物の吹きだまり」と呼ばれる地点から自然発生し、始めは意思も体もない影のような形でたゆたう。それらが次第に寄り集まり、動物に似た姿を成して移動し出すと、人々の生活を脅かすようになるのだ。
とはいえ、発生したばかりの状態であれば、さほど危険なものでもない。
そういった「生まれたて」を始末する、というだけの――あの日は、卒業資格を得るための最終試験日だった。
学生らで組む隊の傍らには、「吹きだまり」の処置など何百とこなしてきた王城騎士団が付き添っている。万が一にも、リスクなどありはしなかったのだ。
けれど、――数十年ぶりに姿を現した魔獣と、遭遇してしまった。
(ルーンハルト)
(おまえが)
もう二度と、血の海を見ることがないように。
アイゼンは薄く吐き出す呼気にシールドの呪文を混ぜながら、より一層しっかりと剣の柄を握り締める。
三年前の自分は、別隊から駆け付けて来るルーンハルトの到着を待てなかった。
あの日、いまと同じようにほかの者たちを逃がし、一人魔獣に立ち向かった自分は、わずかな間でも決定的に怯ませられれば――その隙に逃げ出せれば、と思い、魔獣の眼に剣をくれてやった。
決死の攻撃は見事通ったが、それ以上の効果はない。
魔獣は煩わしげに首を振るった後、こちらの腹を難なく食いちぎった。肉を味わうためですらない。殺すためだ。単なる獲物として地面へと放り落とされた時、ルーンハルトの気配をもう近くにまで感じていた。
だが魔獣はまだ、そこにいる。
だから「来るな」と叫ぼうとして、……声など微かにも、出なかった。気付けば視界もない。指先一つすら、自分の意思では動かせずに――ただひどく静かな諦観だけが、宙 の果てをここに連れて来る。
自分は、そこで息絶えたのだ。
三年前のあの日、死の闇に包まれている間に、アイゼン、と泣き叫ぶルーンハルトの声を聞いた記憶がある。彼をまた、あんなふうに泣かせたくはなかった。
自分が剣を取る理由なんて、それだけでいい。
(ルー)
――もう二度と、おまえを待たずに死にはしない。俺は。
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