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第2話

 現在の王太子、カーティス・ベルンシュタインは元々は第二王子で、王位継承順位も第二位という立場だった。  しかし今から七年前、王太子であったカーティスの兄が流行病で亡くなり、その地位を継ぐことになった。それだけならばなんの問題もなかったのだが、王太子に一人、ステファンという生まれたばかりの王子がいた。王太子妃は隣国の王の娘で、二人の間に生まれたステファンこそが王太子になるべきという隣国からの圧力は小さくなかった。ベルンシュタイン王も、亡き息子の忘れ形見であるステファンを不憫に思い、溺愛していた。かといって、まだ赤ん坊であるステファンを王太子に据えてしまえば、隣国の介入が強くなる可能性がある。  そのため国王は、王太子にはカーティスを、けれどカーティスが王として即位した際は、ステファンが王太子になることを決定した。つまりカーティスに課せられたのは、ステファンが成人を迎えるまでの、中継ぎの王太子としての役割だった。元々第二王子で、王太子の地位を得ることはないはずだったカーティスだ。身に余る光栄だと受け入れたが、その際にカーティスは王から男の婚約者を据えることを約束させられた。今はカーティスもステファンを次期国王にと認めてはいるが、もし自分の子が生まれればそちらを王太子に、と考えてしまうのが親の性だ。王位継承問題を避けるためにも、カーティスは女との結婚は許されなかった。  そして婚約者として白羽の矢が立てられたのが、エミールだった。  建国当初から王家に仕える名門ベルフォード家の出で、父は財務大臣。年齢も二つ下で、昔馴染みである程度気心も知れているのもちょうどよかった。保守的だった国が初めて男性の妃、伴侶を迎え入れるということでイメージの向上を狙うという効果もあったのだろう。  ちょうど二人が同じ王立学院に在籍している頃、トントン拍子に二人の婚約は決まり、瞬く間に周知のものとなった。  温厚篤実、優美な顔立ちの王太子と、女神のように(勿論、自称ではなく他称だ)美しく聡明な侯爵家の令息の婚約は、学院内に留まらず国全体が歓迎し、受け入れた。  エミールとカーティスの関係は傍目にも、そして実際にもとても上手くいっていた。  形式としては政略結婚ではあるけれど、自分たちは互いをよく知っているし、仲良くしよう、幸せになろうと二人の婚約が決まった際に言った言葉の通り、カーティスはエミールを尊重し、大切にしてくれた。  一人の青年が、カーティスの前に現れるまでは。  自分の周辺が、ざわざわと騒がしくなるのを感じる。  これまで周囲にいた人々が潮が引くように離れていき、ちょうど空いたその空間を一人の人物がカツカツと靴音を立ててこちらに向かってくる。  いや、一人ではなく二人だった。  エミールの方へ真っ直ぐ向かってくるカーティスの右手には、しっかりと後ろを歩いてくる人物の手が握られていた。パーティー会場への王太子の遅れての登場、しかも婚約者以外の別の人物を引き連れて。当然のように、周りにいる人々の視線は皆こちらへ向けられている。 「こんばんは、カーティス殿下」  ベルンシュタイン王家に引き継がれる伝統的な黒髪が、シャンデリアの灯りの下、光沢を帯びている。  整ってはいるが優しげな顔立ちといい、いかにも王子様な外見だ。誠実そうな青い瞳が、エミールをじっと見つめる。だからエミールも、動揺を隠した笑顔を(いや実際は大して動揺していないのだが)カーティスへ向けた。  微笑むことで、この緊迫した空気を少しでも変えたかったのだが、残念ながら相手にその意図は伝わっていないようだ。 「エミール……今日は君をエスコートできなくてすまなかった」 「お気になさらないでください。リヒトさんのことを、案内したかったんでしょう?」  のんびりとした口調で、カーティスの後ろにいる小柄な青年、理人(りひと)に話しかければ、申し訳なさそうに頭を下げられた。  際立った美形ではないものの親しみやすい、可愛らしい顔立ちをしている。焦げ茶の髪にブラウンの瞳という、この国ではやや珍しい色合いだが、エミールからすると落ち着いた。それに、理人が悪くないことはわかっている。この場にもカーティスが強引に連れてきたのだろう。ただそれでも、いかにも『自分は何もわかってないです』という振る舞いは少し鼻についた。  お前も少しはこのバカ王太子の暴走を止めろよと。 「ああ。その、エミール。急で悪いが、君に話があって……」  待った、いくらなんでも急すぎるだろう。そもそもこの流れでどうしてそうなる。  内心の苛立ちを隠しながらも、不安げな表情をカーティスに向ける。  そうすると僅かにカーティスの表情が強ばった。 「わかりました。それではパーティーが終わった後で、お話を聞かせてください」  やんわりと伝えると、カーティスが小さく首を振った。 「いや……、やはり、今君に聞いて欲しい」  さっきの申し訳なさそうな表情はどこにいった。  周囲の様子を素早く見つめる。先ほどよりもさらに視線が増えている。会場中の視線が集まっているといっても過言ではない。しかも皆、固唾を呑んでこちらを見守っている。  だから話は後で聞くって言っただろうが、と言い返したい気持ちを抑えながら、困惑したような笑みを浮かべる。 「殿下、お話なら後で……」 「いや、どうしてもこの場で伝えたいんだ! エミール、俺は真実の愛を見つけた。リヒトを、俺の伴侶として迎えたい。だからどうか、俺との婚約を破棄してほしい」  カーティスの言葉に、静まりかえっていたその場が瞬く間にざわつき始める。  けれどそれは決して好意的なものではない。ひそひそと聞こえてくるのは、カーティスと、そして理人への批判と中傷。  ――聞きました? 王太子殿下の言葉。エミール様ではなく、あんな得体の知れない者を選ぶなんて。  ――信じられない、エミール様はあんなにお優しくて美しいのに……。  ――しかもこんな公の場で婚約破棄するだなんて、とんでもない侮辱だ。王太子とはいえ、こんなことが許されるのか?  おそらくカーティスの隣にいる理人にも聞こえてきたのだろう。不安そうな顔で俯いた。そんな理人に気づいたカーティスが、安心させるように、その肩を抱いた。  いや、わかるよ。好きな子が公の場で批判されて守ってあげたい気持ちは。  だけどその状況を作り出したのは自分だって自覚してる?  こうなることがわかってたから、助け船を何度も出してたのに……。  王太子は、パーティー会場で婚約破棄しなきゃ死ぬ病気にでもかかってるのか?  内心頭を抱えながらも、この状況をどう収拾つけようかと頭をフル回転させる。王太子からの婚約破棄は、エミールだって予想していたし、了承するつもりだった。  けれどこの場ですぐに了承するというのは、さすがに薄情だと思われないだろうか。  え? 涙とか流した方がいい? なんか惨めったらしくて嫌だけど、でもそんなことは言ってられないよな。  傷ついたような表情で立ち尽くしているエミールに気づいたのだろう。カーティスが、目に見えて申し訳なさそうな顔をしている。おそらく先ほどまでは興奮状態にあたったため、自分と理人のことしか見えていなかったのだろう。  ここにきて大それたことをしてしまったことに、ようやく気づいたようだ。  知っている、カーティスが温和で優しい性格をしていることは。  そんな顔するならここで婚約破棄するなよ、と言ってやりたかったが、今はそんなことを言っても仕方がない。  どうしようかと考えていると、周囲の人だかりから見知った顔が現れた。 「カーティス……! お前、一体どういうことだ?」 「エミールとの婚約を破棄するって、まさか本気じゃないでしょう……?」  少し離れた場所で来賓と挨拶を交わしていた国王夫妻が、騒ぎを聞いて駆けつけてきたのだろう。二人の目に宿るものは、ただの驚きではない。まるで、忌まわしきものを目にした時のような、凍てつく嫌悪と怒気。特に国王のこめかみには、薄く張り詰めた青筋まで浮かんでいた。静かな怒りではあるが、まさに「怒髪天を衝く」という状況だった。

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