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第5話

 組織で働くために周りとの協調性は必要で、出世を望むならさらに上司の機嫌を取ることも必須となる。そして自身はそのどちらも欠けていた。正しいことをしたいのなら、偉くならなければならないことも知っている。ただ、だからといってそのために自身のポリシーを曲げるようなことはしたくなかった。  表面的な会話や、上司への無駄なおべっかに時間を使うくらいなら、目の前の仕事を一つでも早く片づけたい。  窓から外を見れば、国会議事堂の灯りがまだ遠くにぼんやりと浮かんでいる。  自分のやっている仕事は、決して無意味ではない。きれいごとだと言われようが、国民の負託に応える。そのために亮はこの仕事を選んだのだ。  通常国会もあと数日で閉幕ということもあったのだろう。その晩、霞ヶ関の庁舎に灯る明かりはいつもより少なかった。  終電まで、あと一時間。  このまま庁舎に泊まるか、近くのビジネスホテルを探すか、それともほんの僅かな時間でもタクシーで自宅に戻るべきか。悩みながら書類の傍らに置かれた缶コーヒーに手を伸ばす。けれど中身は既に空だった。仕方がない、と立ち上がり、静まりかえった廊下へと出る。運が悪いことに、いつも買っているお気に入りの銘柄は売り切れていた。  眠気を払うために、少し歩くことにする。経費削減の一環なのだろう、照明は落とされ、廊下にはほんのりとした薄明かりしか残されていない。その中を、ゆっくりと歩を進め、階下へと向かう。連日の残業で、眠りが足りていないのだろう。この時間になると、さすがに意識は霞がかってきて、思考がぼやけてくる。  もう少しだ。明日一日を乗り越えれば、土日は好きなだけ眠れる。  そんな希望を思い描きながら階段を下りようとした、その時だった。  えっ……?  唐突に背中に触れた、異質な感触。  続いて訪れたのは、足元の重力が消えるような、浮遊感。  自分の身体が空中に浮いたかと思った、その刹那――床との衝突が、容赦なく訪れた。 受け身をとる余裕もなかった。  頭に走る強い衝撃。そしてそれに続いて、鈍く広がる痛み。  足を踏み外したわけじゃない。あれは明らかに、誰かに背中を押されていた。自分が、そこまでの恨みを誰かに抱かれていたなどとは、夢にも思わなかった。驚きと混乱とともに、頭から流れ出す血の感触が皮膚を伝っていく。強い痛みとは裏腹に、意識がゆっくりと遠のいていく。  そこで、亮の意識は完全に途切れた。  目を覚ませば、ぼんやりとした視界に、真っ白な天井が広がっていた。殺風景な、学生時代から暮らすマンションの一室ではない。一瞬病院かとも思ったが、部屋の様相が全く異なっていた。そもそも、天井の高さからして違う。視線を動かすと、壁に掛けられた絵画やアンティーク調の棚が目に入る。よく見れば、自分が寝ているのも天蓋付きのベッドだ。例えるなら、ヨーロッパ、英国あたりの貴族のカントリーハウス。いや、それ以上にこの雰囲気はどこか見覚えがあった。  一体、どこで……。  そんなふうに思いながら、ゆっくりと上半身を起こす。 「お目覚めになったんですね?」  嬉しそうな、驚いたような女性の声が聞こえ、弾かれたように声のした方へと視線を向ける。 「サラ……?」  女性の顔を見て、ぽつりと自分の口から出た言葉に驚いたのは、亮自身だった。 「はい、サラでございますよ。よかった、熱も下がったし近いうちにお目覚めになるとは聞いていたんですが、本当に心配いたしました。念のため、もう一度お医者様をお呼びしますね」 「あ、待って」 「なんでしょう?」  部屋を出ようとしたサラが、振り返る。 「ごめん、変なこと聞くようだけど……僕の名前って、なんだっけ?」  自分でも、おかしなことを言っている自覚はあった。ただ、状況からして長い間床に伏せっていたからだろう、まだ意識が朦朧としていると思ったのかもしれない。サラは柔らかく微笑みその小さな口を開いた。 「エミール様、ですよ。エミール・ベルフォード様。美しいエミール様にぴったりな、素敵なお名前です」  それだけ言うと、今度こそサラは部屋からいそいそと退出していった。  サラの口からエミールという言葉が出た瞬間、頭の中にこれまでエミールとして生きてきた記憶が瞬く間に浮かんできた。  そうだ、自分はエミール・ベルフォード。財務大臣、ベルフォード侯爵の子息で、今年十二になる。そして。  いや、これってつまり、『異世界王宮で、リヒトが作る恋帳簿』の世界ってことだよな。どういう仕組みになっているのかわからない。けれど、今自分が生きている世界は夢の中で亮が見ていた深夜アニメの世界だった。どうりで見覚えがあるはずだと、キョロキョロと部屋の様子を窺う。 『異世界王宮で、リヒトが作る恋帳簿』、略して≪いせリヒ≫は今期一、二を争っていた覇権アニメだ。  原作は大手出版社の創作SNSサイトで人気を博した小説で、書籍化とコミカライズを同時に行い、そこでも大ヒット。ついにはアニメ化が決定した。  最近流行の異世界転生ものだが、性描写はないまでもBLアニメだということで当初は忌避する視聴者も多かった。  けれど作画の美しさと人気声優の熱演、さらに主人公である理人の純粋なキャラクターと帳簿を通して悪を裁く、という一話完結型の物語が人気を博し、瞬く間に話題になった。回を重ねるたびに人気が上がり、サブスクでのランキング入りは勿論、SNSでは毎回トレンド入りしていた。漫画やアニメは好きでもBLには興味がなかった亮も視聴してみると意外とハマり、配信を楽しみにしていたし、終電で帰れた日はリアルタイムで視聴していた。  だけど……あくまであれはアニメの話だろ!? なんで俺が、そのアニメの世界の登場人物になってんだよ!  それこそライトノベルのような展開で、頭が痛くなった。  だいたい、自分は現代での生活に不満なんてなかった。最高学府を卒業し、希望した省庁へ入省し、国を動かす重要な仕事に就いていたんだ。異世界転生する人間なんてなんらかの問題を抱えてることがほとんどだろう。自分はそんなことはなかった。  どうしてそんな優秀な自分が、こんなことに……って、今のはなし。  頭に過った考えを、すぐに訂正する。驕りはよくないし、謙虚さを忘れてはならない。  物語に出てくるような、絵に描いたような嫌な役人にはならないと、そう心がけるようにしていた。  ただ、どんなに志を高く持っていても周りから嫌われてしまったらどうしようもない。  誰だよ……背中を押したやつ。殺人だぞ、犯人捕まえてくれただろうな。  腹は立つが、好かれていないことは自覚している。つまり、思い当たる節が多すぎる。気分はあれだ、本能寺(ほんのうじ)の信長(のぶなが)だ。 『旗印は水色桔梗!』と蘭丸(らんまる)に言われた信長は全てを悟り、「是非に及ばず」という言葉を残したという。残念ながら信長のように潔くはなれなかったし、そもそも歴史に名を残すことはできなかった、いや元々そのつもりはなかったし、さすがに歴史上の偉人と比べるのはおこがましい。  そうはいっても、ここで泣きわめいて訴えたところで、元の世界に戻ることなどできないのも確かだ。つーか死んでるし。  というか、エミールって……!  立ち上がり、ベッドのすぐ傍にあった姿見に自分の姿を映しに行く。  白い肌に暗めの赤髪に、形の良い大きめの赤紫色の瞳。誰もが振り向く美貌を持つ、と称されていたが、自分の容姿だからだろうか、きれいな顔をしているとは思うが、いまいち実感が湧かない。

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