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2章 第4話
──イリスに「誘惑」をされはじめてから一週間ほど。
たった一週間という短期間で、もう既に騎士団内ではギルがイリスを口説いているという噂が広がっていた。
青空の下、鈍い音を立ててぶつかり合うレプリカの剣をギルはぼうっと見つめていた。
今日は模擬戦を行っている第一師団と第二師団の治療員として、朝から屋外に待機をしているのだ。
視界では筋骨隆々の男たちが尾を揺らしては剣をぶつけ合っている。怪我をした騎士を治したのは、もう数えるのをやめた程だ。
今は治療の波が収まり、書類仕事もする気にならずただ模擬戦を眺めている……のだが。そんなギルの耳に聞き慣れてしまった低い声が届いた。
「ギルさん」
びくり、肩を揺らす。振り向けば、案の定そこにいたのはイリスだった。土埃にまみれた騎士の制服姿で、彼はギルに視線を向けている。
「な、なんだ」
「すみません。少し、私の古傷を見てもらえませんか。どうも体をおかしな方に動かしたのか痛んでしまって」
思っていたより普通の話をふられ、安堵に息をつく。治療の道具を一式取り出し、椅子にかけるように指示をした。
「そこにかけてくれ。どこがどう痛む?見せてみろ」
素直に肩を晒したイリスの肌には、確かに傷跡がくっきりと残っていた。これではひきつれを起こしてしまって動かす度に違和感があるだろう。
こんなずさんな処置をしたのはどこの誰だ、なんて苛立ちながらも薬草を練った薬を塗り込んでいく。
「……」
「動かした時にひきつれるような感覚はあるだろう、それ以外には?」
「少し、……傷の奥が痛むような気がします」
「……骨か。そうなってしまうとここではどうにも出来ないな。申し訳ないが、もし酷いようなら大学病院とかに行ってくれないか。ここでは許可されていない治療法があるはずだ。君のこれも、どうにかなる確率は上がるだろうから」
「ふふ、ギルさん」
真面目な話をしていたつもりだが、イリスの笑い声で我に返る。もしかして少し、処置に夢中になりすぎていただろうか。悪い、と返す前にイリスが牙をのぞかせて笑う。振り返った彼の顔は恐ろしげに見えた。
「私の体への触り方に、ずいぶんと色気がありますね?」
「……何を馬鹿なことを」
「そうでもなければ、ずっと私の腕を掴まないでしょう?」
ちら、と視線をやった先には確かに、イリスの腕を掴む自分の手があった。なぜ?困惑したまま固まっていると、イリスの手がゆっくりとギルの手の甲を撫ぜる。
いやらしい触り方だ。鳥肌が立つほどの。
「ッ!!そ、外には君の部下たちがいるんだぞ……!」
「ええ、わかっていますよ」
それほど遠くない距離には、イリスの部下や別の師団長と言った騎士がいる。耳ざといものであれば簡単に全てを聞ける距離だ。ガン、という刃を潰した金属がぶつかる音が沈黙に溶けていく。
「さて。それで……、あなたは一体何を期待してくれたんですか?ギルさん」
「期待、なんて……」
「私はね、あなたに触れたあの夜を、もう一度……と、そう期待してしまいましたよ?」
ちらりとのぞいた牙から、目が離せない。ぶわりとイリスの体から甘い匂いが湧き上がった、ような気がした。
それがオメガを誘うアルファのフェロモンだと気づく前に、ギルはすべてを吸い込んでしまった。
ぐらりと視界が揺れる。顔が熱い。呼吸が浅くなっている。
「っは……はぁっ……は、ぁっ……」
「……苦しいですか、ギルさん」
思わずその場に膝を着く。胸を掻きむしり、見上げた先にいる狼は、ギラギラとした瞳を隠そうともせずギルを見つめていた。これじゃあまるで、捕食者の前で食われるのを待つ獲物だ。
「私は、あなたの事が好きです。あなたを手に入れるために、ここまで来たんです」
「な、に……言って……っは、ぐ……」
「私の地位も、名誉も、栄光も……そのすべては、あなたを得るためだけのものです。あなたが手に入るのならと狙ってきました。そうして今、私の目の前にはあなたがいる。ギル・ハーランド。あなたが」
脳が沸騰しそうなほど体が熱い。視界が滲む。下半身が融けたようにぐずぐずで、動き出せる気配がない。
ただ、彼を見上げ、今すぐにでも乞えば求めているものを与えられる、と。あの夜に感じた熱をもう一度、と。浅ましい体はそう考えた。
イリスへ手を伸ばす。簡単にその手はイリスの膝元の布を掴んだ。倒れ伏したギルを、イリスがじっと見つめている。
「お、まえ……ッ……な、に……」
「今ここで、私が欲しいというのであれば。あなたには私の番になっていただきたい」
つがい。つがい?つがい、って、なんだっけ。ああ、でも、これが手に入るのなら、なんだって。
イリスの甘い笑みが視界に映る。この人に全てを委ねれば、きっと心地よい。
ギルが理性を手放すその寸前。
カラン、と金属音が鳴り響いた。
「ッ!!」
慌てたように顔を上げる。ギルはその場から飛びずさると、聞こえた音の方を見た。
メスが落ちていたのだ。先程までテーブルの上にあったそれは、きっと何かの拍子で動いてしまったらしい。
「とっと、と、とにかく!」
「はい?」
「僕はまだ番などという制度に手を出すのは早いと思っている!あと君がなぜ僕を好きなのかも分からなくて気味が悪い!以上だ!!」
「おや。いいところでしたのに」
人の食えない笑みを浮かべたイリスに、はやる心臓を押さえ込んでギルは睨みつける。この野郎。なんてことを。
「童貞をからかうな……」
「ふふっ?いえ、からかったつもりは。本気ですよ」
「……なあ、イリス」
立ち上がったイリスは、副隊長のコートを肩に引っ掛けていた。服を正す彼の姿に問いかける。
「どうして……どうして、──君は僕のことが好きなんだ?」
ぱちり。金色の瞳がまたたいた。
風が吹き込み、イリスの黒髪を揺らす。綺麗な漆黒だ。闇に熔けるような、濡れたような黒。三角の耳はぺたりと下へ垂れる。
「……ふふ」
小さな、さざめきのような笑い声がした。
ギルが彼を見上げると、イリスは少し悲しそうな……懐かしいものを見たような、そんな不思議な顔で垂らした耳をゆっくりと震わせる。
「……まだ、教えてあげません」
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