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2章 第5話

『──まだ、教えてあげません』  あの日のイリスの声がいやに脳内で繰り返し再生されている。  周囲の喧騒など気にならないほど、何度も、何度も、鮮明に。  騒がしいパーティ会場の中、給仕に差し出されたシルバーのトレーがキラリと光る。グラスを受け取ると冷たさが肌を刺した。イリスの声をかき消すように、ギルはそれに口をつけると会場へ視線を戻す。 「──あれっ。ハーランド医務官じゃないですか!どうしたんです?こんなところで」  何ともなしに踊る人々を見つめていると、不意にギルの背後から名前を呼ぶ声がした。 「……エリック」 「今日配属されてる担当医務官って貴方だったんですねえ。……あれっ?そのわりにはいいんですか?酒なんて飲んじゃって」  軽薄な空気をまとい、やってきたのは騎士団礼服に身を包んだ男──第二師団の副隊長エリック──だった。  ギルの手元にあるワイングラスを見るや否や、にやにやと厭らしい顔をして笑っている。どうせさぼり仲間を見つけたとでも思ったか、その相手が生真面目ギルだったことに興味を引かれたか。そのどちらもだろう。 「これは酒じゃない」 「またまたァ、そんな嘘つかなくても報告しませんって。俺にも一口くださいよ」 「やめといたほうが──って、あ」  エリックがワイングラスを奪い取り、それに豪快に口を付けて呑み込んだ。その途端だ。 「ェほッ!?げほッ、ぅ、おえッ!?」 「ああ……だから言っただろう、やめといたほうがいい、と」  いきなり咽せたせいで周囲にいた招待客たちが何事かとこちらを見ていた。それらにギルが頭を下げると、すぐに紳士淑女の皆様は歓談に戻られる。 「な、なんっつ~もん飲んでんだあんた……」 「ホットチョコレートだ。スパイス入りの」 「そういうことを聞いてんじゃねえって。なんでこんな毒を普通に飲んでんの?人間ってやっぱおかしくない?」  げほげほとむせているエリックの頭の上にはきつねの大きな耳が付いている。ふさふさのそれは毛並みがきれいで、この男がモテる要因の一つなのだろうか、なんて取り留めもなく思った。 「それにしても、今回のパーティーは目が痛くなるな」 「あ、ハーランドさんもそう思う?そうだよねぇ、やっぱりこの眩しさはひどい。ドレスも礼服もギラギラギラギラ。そのうえシャンデリアや、ソレを反射する床にグラスに宝石に。もう目がつぶれそうだよ」 「まあ……王女主催のものだからな。仕方ないだろう。女性はこういう場が好きだから」  エリックが隣に並んだのを横目に、ホール全体へ視線を流す。見た限りでは体調不良になっていそうな客人はいない。怪しい動きについては騎士に任せるとして、何が起きてもすぐその場で対処ができるように準備をしておかなければ。 「はあ……さぼってたい」 「……いいから仕事をしてこい。持ち場に戻れ」 「ええ~?ハーランド医務官の頑固。いってきますよぉ……」  ひらりと手を振って、彼を呼んでいる騎士たちのもとへ戻っていくその背を途中まで見送った。  ギラギラしている上流階級の遊びをぼんやりと眺めつつ、ホットチョコレートに口を付ける。ワイングラスにチョコレートが入っているのは王女様がふざけたから、らしい。誰も止めなかったようで、これは珍しいとかなんとか貴族たちがほめたたえていた。 「……」  中央では踊る人々。ところどころには礼服姿の騎士たち。そして着飾った獣人や人間たち。料理も美しすぎて目が痛くなりそうだ。  ごった返す人々の中で、視線をつい動かして、あの黒髪と金の瞳を探してしまう。ここにいるのかさえ知らない、見つけたとしても声なんてかけられないのに。  ああ、こんなことになるはずじゃなかったのに。  一人になって思い出すのがイリスのことだなんて。すべては合コンに行ったあの夜に変わってしまったような気がした。 「……甘い」  騎士たちを見ながら、スイーツに手を伸ばす。フルーツのふんだんにあしらわれたケーキだ。思っていたより甘ったるい。これ、イリスが食べたらどうなるんだろう。案外、美味しいとバクバク食べてしまうのだろうか。それとも食べられなくて困ったように眉を下げるのだろうか。  と、そこまで考えて正気に戻る。またあいつのことを考えていた。  ──ここ最近、何があってもなくてもイリスのことだけを考えてしまっている。  おかしいのだ。こんな状態になってるなんておかしくなってしまったに違いない。  あいつがあんなことを言うからだ。好きな理由について尋ねただけなのに、教えてあげない、とはいったいどんな了見だ。何を出し惜しみしている。性行為に準ずることは簡単にしたくせに。やっぱり遊ばれてるのか?童貞処女のオメガが一晩過ごしただけでどこまでちょろくなるのか実験中か?  こんな、こんな愚かな思考を仕事中にしてしまっているだなんて。医務官として立つには相応しくなさすぎる。 「……趣味の悪い」  呟いたのは、自分へか。それとも黒い狼へなのか。疑問を浮かべる前にギルの耳へ低いしゃがれ声が届く。 「何の話だ?」  となりに目を向ければ、そこにはジェフ主任。巨体を縮こまらせ、スーツに身を包んでいる。 「いえ。なんでも」 「なんだ、おもしろそうな顔してやがったから何かあったんじゃないかと心配で心配で」 「あなたのそれは玩具を見つけたから遊びたくなった、が正解でしょう……」 「ハハハ、それはそれとして」  ジェフはギルの耳元に口を寄せた。わざわざ巨躯を丸めて。 「何です……」 「──アルファのラットを無理やり引き出す劣悪なドラッグが流行っているのは知っているな?」 「……、……ええ、はい。もちろん。それが何か」 「今夜、もしかしたら使われる可能性がある。皆が気を付けてこそいるが、盛られた薬を対処するのはお前だ。気を付けろ、いいな?」 「……そんな心配はご無用ですよ。僕だってオメガである前に、医務官としての矜持がある」  ジェフを横目に睨みつける。彼は小さく笑って、それならいい、と呟いた。 「それにしても」  体を起こしたジェフは給仕からワインをもらっている。ギルの手元のグラスもそろそろなくなりそうだった。 「ここでは相手探しをしなくていいのか?それとももう、あの狼に決めたのか?」 「……それ以上おかしなことをほざくようでしたら、来月の掃除担当にあなたを推薦しておきますね」 「冗談だって!怖ぇこと言うなよな!?」  なかなか離れていかないジェフに、面倒な人の相手をさせられているなと自信を憐れみつつ。ギルが視線をホールに巡らせる。すると向こうからひそやかに駆けてくるウサギの騎士がいた。何か起きたようだ。  グラスを置いて白衣のすそをただす。巻き付けてある応急処置用のセット一式を手で確認し、ギルは彼に向けて敬礼をした。 「──ハーランド医務官、ご歓談中失礼いたします」 「──ああ、ご苦労。何かありましたか」 「……ここでは。すこし来てもらえませんか」 「もちろん。主任、では、僕はこれで」  簡単に挨拶をし、ギルはすぐさまウサギ騎士を追いかける。彼が向かったのは休憩用に開放されているエリアではなく、階上に向かうための階段がある立ち入り禁止区域だった。 「──それで、いったい何が」 「ハーランド医務官はオメガとお聞きしました。抑制剤は普段から飲んでいらっしゃいますか?」  いきなり第二性別の話とは。オメガの抑制剤について聞いてくるということは、相手はアルファだろうか。おおかた誰かがラットになったか、それの対処を任せられることになるか。これは面倒なことになったぞ。ギルはため息をついて階段を駆け上がる。  この先にいるのが誰だろうと、おそらく高位貴族か誰かだろう。ギルにとっても雲の上にいる相手で、緊張してしまう人ということだ。  オメガの抑制剤はきちんと毎日飲んでいる。それに加えてピルもきちんと持っている。汎用のものと、自分専用のものだ。これだけあれば、大丈夫だろう。二次性別に関して大丈夫ということはないが、万全は期している。  重厚な意匠のドアの前で、ギルは一度足を止める。連れてきてくれた騎士に「この周囲にオメガはいないか」ということを聞いて、その結果から少し時間が必要だと知った。  オメガを逃がす時間で、手持ちの薬や医療具をチェックする。持ち忘れはない。抑制剤も飲んでおこう。携帯している水のパックを開け、薬を流し込む。飲み干したところでウサギの騎士がやってきた。周囲のオメガはいなくなった、と聞かされてギルは唾を飲み込む。 「……処置を始める。君はここで待機。僕の合図があったら入ってきてくれ」 「はっ!」  ドアノブに手をかける。かすかな躊躇いを見せる手を、患者がいるという意識だけで押し殺した。  重たいそれをゆっくりと押し開く。この先にいるアルファのフェロモンは、ドア越しでもかすかに香っていたことから、おそらくラットの状態はひどいものだろう。  ドアが開いていく。隙間が大きく広がっていく。そのたび、甘ったるく鉄さびのような匂いが鼻腔から肺に流れ込んでくる。くらくらしてしまいそうな重たい匂いだ。引きずられそうになるのを理性と意識で押し留め、足を一歩踏み出した。 「ッ、助けにきました!医務官、ギル・ハーランドです!お側失礼いたします。お体に触れること、どうかご容赦ください」  ギルがベッドのそばに寄ろうとすると、唸るような声が響いた。 「ッ来るな!!」 「……ッ、その、声は」  声を認識した途端。このフェロモンが誰から出ているのかを理解してしまった途端。ギルは欲の熱が首をもたげたことを感じた。眠っていたはずの、アルファへ対する欲求が大きく膨らんでいく。 「──イリス……?」 「ッ、ギルさん!?どうして……」  ベッドの中、隠れるように毛布の中で目を光らせていた獣は──イリス・ベイカーだった。

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