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2章 第6話

「どうしてここへ……」  弱々しい声だった。普段の彼からは想像もつかないような、衰弱しきったそれ。眉を寄せ、ギルは律儀に返す。 「……仕事だからな。君を助けに来た」 「ッ、近寄らないでください……、今の私は──」 「それだけ理性があるなら大丈夫だろ」  イリスの制止なんて無視をして、そのまま彼のそばに寄る。一歩近づくたびにフェロモンの濃いきつい匂いが強くなっていて、顔をしかめた。 「ほら、抑制剤だ。水は飲めそうなのか?」 「こちらへ……来ないで……」  弱々しいイリスの声に、このアルファはラットの時にこんなふうになるんだな、とかえって感心してしまう。傍若無人ともいえる男が、ラットごときでここまで弱るなんて珍しい。  医務官として治せるという自信があるからか、普段は弱みなんて見せそうにないアルファへの嗜虐心が顔を覗かせる。発情しているアルファへの恐怖など、好奇心の前では無意味なものだった。 「どうした、そんなに怯えて。医者が怖いのか?坊や」 「ふざけている……場合では……」  こちらを睨む金色は、潤んでいるせいでひどく頼りない。イリスの眼前に立ち、彼を見下ろす。 「大丈夫だ。僕は抑制剤を飲んでいる。君も薬を飲めばすぐに楽に──」 「っこのドラッグは……表では流通していないものです。そのうえ、出てきたのも最近、出所は隣の大陸。危険なんです……何が起こるのか未知数ですから」  吐息を震わせながら、なんとか警告らしきものをしてくるイリスに、ギルはそれを鼻で笑った。 「だから、尻尾を巻いて逃げろ、って?」  あえて彼らの嫌う表現で煽れば、案の定、イリスの気配がにわかに鋭くなる。彼から送られる視線の熱は火傷しそうに熱い。気を抜けば食い散らかされそうだ。  イリスはギルの一挙手一投足に敏感になっているようで。ギルが少し息をするだけで、彼の呼吸は張り詰めていく。そんな状態の手負いの獣に、少しだけ憐憫の情がわいた。 「……ふざけて悪かったな」 「な、にを……っ」 「水と、薬だ。興奮を抑える効果がある。数度抜けばラットは治まるはずだ。……飲めるか?僕は出ていくから、イリス。そんなに警戒しなくていい」  イリスの方へ近づく。ラット状態のアルファに、オメガが近寄ることの危険性は理解していた。そのうえで、ギルは彼に近づいたのだ。  イリスの引き絞られた耳を見下ろし、黒髪をゆっくりと撫でる。  ──君は、決して僕を手酷く扱わない。  その確信があった。 「……っ、ギル、さん」 「……なんだ?」  何かを抑え込むような弱々しい声に、ギルは応える。彼と視線を合わせれば、アンバーの瞳は揺らいで歪んだ。 「わたし、が」 「うん」  イリスは、少し逡巡して。  震える唇を動かした。 「私が……あなたを、好きなのは──ギルさん、あなたが、私を見つけてくれたから……なん、です」  ──どういうことだ。言おうとした言葉は、けれど形になる前に空気となって消えていった。 「んぐ……っ!?」  イリスの手がニュッと伸びてきて、ギルの肩を掴む。そのまま強引な力でベッドに引きずり込まれ、気がついた時にはイリスが苦しそうな顔をしてギルを見下ろしていた。  震える腕は自制している証だ。ギルの首筋に鼻っ面を埋めて、深く呼吸を繰り返している。黒髪が肌を撫でていて少しくすぐったい。  イリスの厚い体を撫でていると、唸るような声が聞こえた。  同時にぶわりと立ち上がる、イリスの鉄錆と花の甘い香りが混じったフェロモンの芳香。それは抑制剤により強固にされた理性の壁をじわりと透かして乗り越えてくる。  撫でる手が震えた。気がついてもいないイリスは、ポツリと言葉をこぼす。 「……昔」 「ん?」  イリスは、ギルの襟をくつろがせると素肌に唇を落とす。背が震えた。怖くは無かった。 「昔……私がまだ、見習い騎士だった頃のことです」  聞かなければいけない気がして、ギルはイリスを撫でながら黙り込む。低い声が、ゆったりと、浮かされた熱さで続けられる。 「私は……体が小さく、力も他の同期に比べて弱かった。いつも訓練試合では負けてばかりでした」 「……」  ふふ、と笑う声はどこか、楽しげに聞こえた。 「そんな私に……いつも、怪我薬の差し入れと……湿布を、置いていってくれる人が……っ、はぁ……いたんです」  熱が回って苦しそうに呼吸する音が聞こえる。イリスの背を撫でていると、ギルを抱く彼の腕に力が込められた。 「『騎士になるにはもっと食事の量を増やせ。成長期なんだから別人になるぐらい強くなれるぞ』って……そう伝えてくれた……っ、恩人に……っ、は、ぁ……あなた、に……私は、ずっと礼を言いたかった」  抱きしめる腕は、逃がさないと言わんばかりだ。 「……そうか」 「ええ……覚えていないでしょうけど。……でも、……っ、あなた、の……置いていってくれる、差し入れが……ひどく甘ったるい匂いがしていて」  イリスは、そこで切ると深く息を吸い込んだ。何かを嗅ぎとるように、深く、深く。 「ねえ……ギルさん」  声が、激情を耐えるように揺れて。ギルの瞳を、下から狼が見つめた。射抜かれたように彼から目が離せなくなる。 「その時、知ったんですよ……」  動けない。そんなギルに、彼は壮絶な色香でもって、花が綻ぶように笑いかけたのだ。 「──ああ、この人が私の運命なんだ、って」  動けなくなったギルの頬を、彼の指先が撫でる。 「……さて、聞きたいことは聞けましたか?」  困ったように、脂汗の滲む顔で彼は弱々しく微笑む。先程までの懇願する真摯な男の顔は消え去っていた。  ギルの体から腕を離し、イリスは上体を起こす。もう相当辛いはずだ。ギルはラットにあてられ、フェロモンを出していたから。 「……っはは。私も、そろそろ理性が飛びそうなんですよ……ねえ、ギルさん……逃げたほう、が……いいですよ……──アルファに喰われたくなければ」  この男は一体どこまで不器用なのだろうか。  ギルは彼の首に腕を絡めた。ここまで来たら、もう、世間体とか体裁とか理性とか仕事とか、そういった全てのものが煩わしく思えてしまって。  だから、ギルは本能のままに動いたのだ。  この、おあずけを喰らわされてもただ耳を下げて動こうとしないヘタレ狼に、「喰っていい」と、そう伝えるため。 「ん……っ!」  首を引き寄せ、勢いのままに口付ける。イリスの薄い唇を食み、そのまま舌で舐める。  彼の頑なな口唇を割り、ギルは初めて他人に自分から深く口付けたのだ。  ちゅく、ちゅぷ、と濡れた音を立て舌をぎこちなく動かす。イリスの口腔内は燃えるように熱かった。  奥の方で縮こまる舌をつつき、絡め、擦ればようやく彼も応えてくる。キスをしながらイリスの服を脱がせようとシャツのボタンに手をかける。もたついてしまった。 「んッ……ふ、っんん」 「ッは……ギル、さん」 「……なんだ」 「……聞こえ、なかったんですか。私は──」  うるさいな。  もう一度唇に噛みつき、イリスの言葉を食べてしまう。そこでようやくシャツのボタンが外せた。面倒だな、礼服は。 「んッ、ちょ……んん……っ、ぎる、さ……っんぅ」 「いいから……っ、いい加減、腹くくれ。イリス」  唇を離し、吐息の触れる距離でギルは囁いた。 「……──助けてやる。今度は僕が、君の熱を発散させてやる」 「しかしっ……」 「いいから。……言い訳が欲しいのか?そうだな……なら、これは『医療行為』だ。僕は、医務官として……仕事として、君に触れる」  懐にもしもの時のため入れていた避妊薬を取り出す。水なしで飲めるそれを口内へ放り込み、ギルはイリスの晒されている背骨を撫でた。 「……ほら。おいで、イリス」  ──主導権を握っているふりをしているくせ、ギルは全身でこのアルファに陶酔しきってしまう。  医務官としての矜持という建前など、融けそうな愉悦の前には無意味なことだった。

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