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3章 第2話
ギルの執務室のドアが叩かれたのは、終業時間の鐘がなった数刻後のことだった。
「失礼致します。ギル・ハーランド医務官はいらっしゃいますか?」
聞こえてきた声に心臓が跳ね上がる。イリスだ。ギルの返事を待たずして補佐官がドアを開けた。
「ベイカー副隊長ですか。いいところに来てくださいましたね。ハーランド医務官が仕事を終えてくださらないのです。おかげで私は帰れません……どうか、あの仕事の悪魔を連れ帰ってくださいませんか」
「おい、聞こえてるんだが」
「聞こえていないと困りますからね。さあどうぞ、ベイカーさま。悪魔をお持ち帰りください」
「ふふっ、縁起でもありませんね。でもこれほどまでに愛らしい悪魔であれば、誑かされるのも一興、でしょうか?」
ギルの机の前にやってきたイリスは、狼耳をぷるりと震わせると牙を隠すように手を当てて笑む。
「ギルさん。お話があるので、よければ一緒に食事でも」
「……もう狩りについては言及しないからな」
「おや、残念」
くつくつと笑うイリス。けれどその様子がいつもより、どこか緊張しているような気がしてギルは小さく息をつく。
きっとあの夜のことを掘り返される。事情聴取では何も言わなかった狼が、今更なにを掘り起こそうというのだろう。
「さっさとこの大悪魔を連れ帰ってください。救世主ベイカーさま」
「んふっ……、大悪魔……っくく……」
補佐官の言葉に吹き出したイリスは、ギルのそばに立つと頭や背中をじろじろと見やる。
「無い角や羽を探すな」
イリスの肩が震えている。
「人に化けるのが上手なんです、その悪魔」
「……おい、後で覚えてろよ」
「ふふふっ……ふ、んふ……っ」
補佐官の言葉に耐えきれず、イリスは背を丸めて笑いだした。呆れた目を補佐官とイリスに向けるが、どちらもその程度で堪えてくれる相手ではなかったとだけ言っておこう。
『人魚のうろこ』は有名な人魚がシェフ(料理長)を務めるレストランだ。
「男同士でこんな小洒落たところ……」
「雰囲気作りは重要でしょう?」
席に通され、ギルは向かいあうイリスに愚痴をこぼす。
「ここに来るとわかっていたら、こんなダルダルの服は選ばなかった」
「どんな服を着ていてもあなたは素敵ですよ」
「お世辞をどうも」
「『大悪魔』のギルさんの前ではありったけの褒め言葉さえ世辞に変わってしまうのですね……これは困りました。どれほど言葉を尽くせば満足いただけるのでしょう?」
まだそれを引っ張るのか。ジトっと睨めつければ彼はころころと笑う。
「はぁ……それで?……うわ、値段書いてない」
「本題に入るのは料理が来てからにしましょう。ちなみに値段は気にしないでください。奢ります」
「年下に払わせるなんて情けない男にさせてくれるなよ。これでもそれなりに稼いでるんだ」
「アタックしている相手に払わせるなんて男の沽券にかかわりますよ。私はそれ以上に稼いでいるんですからね。お金の話はナシということで。料理の味がわからなくなってしまいます」
「……それもそうだな」
運ばれてきた前菜を見て、ギルは頷いた。とにかく何でもいいから、食べ始めて彼の話を聞いてやろう。
◆
「それで、何の話をするつもりなんだ?」
「何ってそりゃあもちろん、私たちのこれからのことですよ。ギルさん」
適度に酒も入って場が和んだ頃。話を切り出したギルに、イリスは珍しく緊張をあらわにして硬い笑みを見せた。
「これからっていうと、僕は君の恋人になれるのか」
「なんですか、その反応。私の恋人、ではなく「恋人になれる」という点に反応してないでしょうね?」
面倒なことを言いだした。デザートをつつきながら、でも君、僕に好きだと言ってなかっただろ、なんて心の中で責め立てる。
「……ギルさんの恋人は、私ですからね」
「わかってる」
「……もう合コンとか行ったらいけませんよ」
「わかってるよ」
「……、ギルさんは私と付き合えるんですか?」
「付き合えなかったら最初からこうなってないだろう」
本当に面倒くさくなってないか?心配になる。こいつこんなだったか?恋人にはタガが外れるタイプなのだろうか。
「っていうか、イリス」
「はい?」
かすかに血色がよくなっている彼の顔を睨みつける。微笑みが返された。ムッとして、机の下で脚を蹴ってやった。
「笑うな……、君、僕に好きだとも、愛してるとも言ってないのは理解してるか?」
ギルがそう鋭く言うと、あからさまにイリスの動きが静止した。そして、考え込むように視線を下げる。そんな動きでさえ様になると思ってしまうのは、惚れた弱みとでも言うべきか。
「……、ギルさんは」
「ああ」
「……好きな人と以外は性行為をしたくない、と。そう言ってましたよね」
迷子の子供みたいな顔をしたイリスは、傷ついたように笑った。
「私は、あなたに好かれている自信がない。でも、私はギルさんのことが、……好きなんです」
「……それは」
「あ、いえ、その。私はあなたを好いていますが……あなたは、医療行為だからと私に身を差し出した。……そんな、あなたを無理やりに奪った私が、あなたへ愛を囁くのは……、嫌、ではありませんか?」
耳をぺたりと下げて、尻尾も床に垂れている。心なしか金の瞳は泣きそうな色を宿していた。そんなイリスを見て、コイツもそういえば年下だったな、とギルは思い出す。
く、と喉奥で笑い、その柔らかな黒髪に手を伸ばす。頭にぽん、と手を置くと、驚いたイリスは目を丸くした。笑いかけ、そのままワシャワシャと撫で回す。
「わ、ちょっと……!」
「なんだ、案外可愛いんだな、君ってやつは」
「な、なんですか……!?」
「ははっ、いや、なんだ。その、イリス」
照れ隠しに、彼の頭から耳をするりと撫でる。
「──僕は君が好きだよ」
まん丸だった瞳が、さらに開かれ綺麗な黄金が光に反射する。可愛いマヌケづら。くすくすと笑っているとイリスはギルの手首を掴む。熱っぽい瞳に撃ち抜かれた。
「……私も、私もあなたが好きです。ギルさん。あ、いえ……好き、では足りないほど、好きです」
「愛してはくれないのか?」
「っ、からかわないでください……!重たいでしょう?」
「いや、別に……」
デザートの最後のひと口を飲み込む。甘い味はとろりと溶けて喉を潤していく。感情に、甘味の砂糖をコーティングして、うんと甘くなった言葉で笑う。
「むしろ安心する。僕のイリスが、僕だけに首ったけなんだって」
息を呑んだのが見て取れた。顔を覆い、ぴるる、と嬉しそうに耳を震わせイリスが俯く。
「……それは、ずるいですよ。……私、これでも狼の獣人なんです」
「?ああ。知ってるが」
「狼はたったひとりのつがいを生涯愛し抜く。そして、つがいが死んだら後を追う者もいるほど愛情深い。……まあ、粘着質の執着タイプなんです」
それがなんだ、と眉を寄せるとイリスは嬉しそうに牙を晒して無邪気に微笑んだ。
「だから、その、たぶんギルさんが思ってる以上に面倒ですよ。狼の愛情は」
「そうなんだろうな」
嬉しそうに微笑む彼は、年下らしい愛らしさがある。ふ、と笑ってイリスの手を撫でる。酔ってるんだ。
イリスは、珍しく黙り込んでしまった。普段あれだけグイグイ来るくせ、今ばかりは視線を落として所在なさげに机をつま先で引っ掻いている。
何だかその姿がこう、あまりにも。
「君、そんな男だったか?」
「……初めての本気の恋愛なんです」
「さてはかなり酔ってるだろう」
「酔ってません」
くだを巻き始めたイリスは、どうも年相応以上に子供っぽい。
普段は完璧で冷静沈着という風を崩さないから、物珍しくてついまじまじと見つめていると蕩けた金色の瞳がギルを見上げた。
「……愛するギルさん。私の恋人になってくださいますか」
「それ、僕が嫌だと言うと思ってるのか?」
「思ってます。絶対なんてあり得ませんから」
「変なところで臆病だな……」
こいつも年下なんだよな、なんて思っていたらついイタズラをしたくなった。
「ぎ、ギルさん……?」
「何だ」
「あの……これは?」
イリスの手をひっくり返し、指の腹でフェザータッチで撫でていく。官能を引き出すような、誘うような動きに彼の瞳は引き絞られる。
どうも困惑しきってはいる。が、嫌じゃないらしい。振り払うこともしていなければ、彼の狼耳は嬉しそうにひょこひょこと動いているのが証拠だ。
なんだ、かわいいな。
ギルもまた、それなりにアルコールが回っていた。
「かわいい恋人を可愛がってるだけだ」
「ええ……?私ってどちらかというと綺麗系、って言われますよ」
「なんだ、見る目が無いな。こんなに可愛らしいのに」
ふにゃふにゃと笑っているイリスは、ギルにとっての初めての恋人だ。
そう思うとなんだかかわいく見えてきて、こいつの笑顔を誰にも見せたくない、という気持ちと全世界に恋人が素晴らしく可愛らしいと叫びたい気持ちがこみ上げてくる。
自分はこんなに浮かれ馬鹿野郎だっただろうか?
ギルは困惑した。年下の恋人をもっと喜ばせたくて、ギルはイリスの袖の下へ指先を進ませる。肌に触れ、その熱を感じた。
「だ、ダメだ……」
「ギルさん?」
「店を出るぞ。これ以上は僕がおかしくなる」
「何の話ですか?」
イリスの手を取って立ち上がる。大きくて皮膚の硬い、厚い手のひらだ。剣だこが出来ている。戦う人の手をしている。ギルとは大違いの、恋人の手。
「……恋人ってすごいな」
「ギルさん?何ですか?私にもわかるように説明……」
「君が可愛くて愛おしい。ここじゃこれ以上いちゃつけないから外へ出るぞ、以上」
「えっ」
頬が赤く染まった。耳も尻尾も嬉しそうにくるくるひょこひょこ動いている。ギルは顔を覆って天を仰いだ。なんだこれ、世界が変わったような気がする。
「……恋人って、すごいな」
何の話か理解していないイリスは、突如として奇行をはじめたギルのために水でも買おうかと考えていたのだった。
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