24 / 25

3章 第5話

 ヒートに入る前に、どうしてもやりたいことがあった。だからこそ、ジェフに無理を言って、ギルはその日出勤していた。 「なぁおい、大丈夫なのか。フラフラだぞお前」  ジェフの心配そうな声を、ガンガンと痛む頭は上手く拾ってくれない。この症状に対する経験則でギルは何とか体を動かしていた。 「大丈夫、ではありませんが……被検体になります」 「はあ?」 「ですから……通常の発情を迎えた、オメガの……異常発情をしていない、けれど、同時期に発情している、被検体……に、……なれば、少しは……」 「……お前なあ。仕事馬鹿もいい加減しないと体壊すぞ」 「いら、ないんで、すか……」  睨みつければジェフはため息を吐く。怖くねえよ、と苦笑した熊は、のそりと立ち上がるとギルの体を担ぎあげた。いきなり腹部を圧迫される形で肩に乗らされ、吐き気が込み上げる。 「ぉえッ!」 「おまッ、吐くなよ!?そこで吐いたら給料天引きするぞ!!」 「横暴ッゔ!ゆ、揺らさな、ッ吐く、ほんとに吐く……!」 「おわ!馬鹿野郎!気合いで止めろ!飲み込め!!」  ジェフが騒ぐせいで、執務室からひょこりと医務官たちが顔をのぞかせた。担ぎあげられた体調の悪そうなギルを見、呆れ顔になる。 「また主任がハーランドで遊んでる」  遠くから聞こえた医務官の声に、腹いせとしてジェフの肩を叩いたのだった。 ◆◆  その日は前々から予定されていた、イリスとのデートの日だった。  普段であれば、年甲斐もなく浮き足立つほどに楽しみな予定なはずだ。  ──イリスの危うげな雰囲気を、見てさえいなければ。  待ち合わせ場所に近づく度、足がどこか重たくなる。腹の奥が疼くような感覚がある。気の所為だと思いたい。  待ち合わせ時間には少し早い。もう、体調不良と言って帰ってしまおうか。なんて、ギルが顔を上げたその時だ。 「──ギルさん」 「っ!」  真後ろから声がした。慌てて振り向くと、イリスが微笑みを浮かべ、立っている。待ち合わせ場所には少し遠い場所だぞ。どうしてここにいるんだ。ギルの困惑を理解したはずなのに、彼は答えずギルの手を取る。 「行きましょうか。デート、楽しみにしてましたよ」  握られた手のひらがいやに熱い。愛情を伝えるはずの、絡められた五指さえ今は逃がさないという意思表明のような気がして戸惑いに息を呑んだのだ。  あれほど晴れていた空は、昼を前に曇りだした。 「ギルさん、次はどこへ行きましょうか」 「そうだな……」  イリスは終始ギルのそばにべったりとくっついており、うっとおしいとさえ思える距離だ。  しかし、恋人が甘えるように時々腕に触れたり身を寄せてくるのに、それを突っぱねられるほどギルの経験値は存在しない。  むしろ、甘えたがりになってる様子のイリスに、年下らしく可愛いなと思ってしまっていたのだ。 「ああ、医学書がみたいんだが、本屋に寄ってもいいか?」  イリスを見上げれば、彼は嬉しそうに笑ってギルの肩に身を当てる。  ふわりと香る、甘い香水の匂いは思考を鈍らせるようで。  何か、違和感を感じていたはずだ。  それが何だったのか、思い出すことができない。  本屋にたどり着いて、医学書を物色していると隣にいるイリスの尾がするりと脚を撫でた。驚いて肩が跳ねる。隣を見れば彼は、欲の宿った強い視線をこちらへ向けていて息が震えた。手に取っていた数冊を取り上げられる。 「イリス……?」 「これ、購入しますか?」 「あ、ああ……」 「そうですか。では、買ってくるので……ギルさん、次の場所へ行きませんか?」  ひそめられた言葉はまるで悪いことを提案するような声色だった。  戸惑う。彼の尾がずっと脚に絡みついている。  壮絶な色香を滲ませた狼が、狩りをする直前のように瞳を細めている。  ぼうっと、何も考えられなくなっていく。甘く、けれどかすかに鉄錆の混じる香りががギルにまとわりつくようだった。

ともだちにシェアしよう!