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第3話
8月26日 PM2:12
ピンポーン、と玄関から呑気な音がした。
「はーい」
とにいちゃんはインターフォンに向かって声をかける。にいちゃんが紺色のポロシャツの胸元をパタパタさせながら、今開ける〜!と、言うと玄関からめちゃくちゃデっカイ声が聞こえた。
「お邪魔しまーす!!」
にいちゃんが玄関の方へ行くと、すぐにドカドカと大きな足音と一緒に戻ってきた。そういえば今日はにいちゃんの親友のリョウが来ることになっていたのだ。
リョウはスカイブルーのTシャツと黄土色のハーフパンツ姿に、いびつな形をした黒いスポーツバッグを肩にかけてリビングに入ってきた。いかにも教科書とか問題集とかをテキトーに詰め込んできたって感じだ。リビングでは僕がソファで寝そべりながらDSやってる。さっきからずっと同じステージをやってて、ボスがなかなか攻略できない。
にいちゃんはリビングのすぐ横のダイニングテーブルにリョウを座らせると、カウンターの向こう側へ消えて「リョウ、ペプシでいい?」と聞いた。リョウがうん、とかああ、とかいう返事をしてすぐ、2人ぶんの氷の入ったペプシと僕のオレンジジュースを載せたおぼんを持って、にいちゃんが戻ってきた。僕もペプシで良かったのに。
「お!宗、おったんか!久しぶり!」
「‥‥どーも。」
コッチに気づいたリョウは八重歯を見せると僕の頭をワシャワシャ触ってきた。リョウは良い奴だけど、どうも僕をガキ扱いするのが癪にさわる。最初は嫌がってたんだけど、もう最近はそれすらメンドくさい。
僕はDSから少しだけ目線を外して、氷の入ったオレンジュースに口をつけた。何にも言わなくても、ちゃんとにいちゃんは僕の好きな飲み物をわかってて入れてくれる。僕だけオレンジジュースってのがちょっとひっかかるけど‥‥。リョウは特に僕と話すことなく、スポーツバッグから出した問題集を乱雑に積み上げて天を仰ぐ。
「キヨ〜、宿題全然終わらん。助けて。」
「あほか。誰かさんと一緒かよ」
にいちゃんは僕の方をちらりと見ると、意地悪そうに笑った。先日の女のにいちゃんを思い出して僕はちょっとヒヤッとする。そういうのやめてって言ってるのに。そのせいで僕はステージ序盤でありえない凡ミスをしてしまった!僕は興ざめして、DSを閉じると、ぼんやりダイニングテーブルの2人を眺めた。まだまだ外は暑い日が続いてるけど、今はキンと冷えたオレンジジュースが喉を冷やして気持ちいい。ダイニングテーブルに座っていたリョウは出されたペプシをゴクゴク飲むと、日焼けした男らしい喉仏が生き物みたいに動いた。
リョウは幼稚園も僕達と同じ、しかもにいちゃんと同じ柔道の道場に行ってた幼馴染で、にいちゃんの一番の友達だ。にいちゃんだって決して背が低いほうじゃないんだけど、リョウはにいちゃんよりさらに頭一つ分くらいデカイ。しかも、にいちゃんはどっちかっていうと細くてヒョロッとしてるので、2人で並んでると余計にデカイ。ゴリラみたいだ。関西弁のゴリラ。
「あ、これ俺とオカンから。おみやげや。」
リョウはスポーツバッグの底の方から関西限定のじゃがりことなんかちょっと高そうなお菓子の箱を発掘してにいちゃんに手渡す。
「ありがと!お盆、大阪のおばあちゃんち行ったのか?」
「うん。元気そうやった。キヨは?」
「うん、長野行ってさ。大阪はどうだった?」
2人は楽しそうに、ペプシを飲みながら話してる。でもほとんど話してるのはリョウだけで、にいちゃんはうん、うん、とか、たまにへぇー!とか言って聞いてるだけ。リョウはこの夏中、柔道の教室と市民プールに通いっぱなしで塾の模試以外はほとんど勉強らしい勉強もすることなく夏休みを終えそうらしい。2人は一通り話し尽くしてペプシがなくなる頃、のろのろと問題集に取り掛かった。にいちゃんはとっくの昔に夏休みの宿題は終わらせていたから、多分塾の勉強だろう。しばらくはページをめくる音とか、ペンが転がる音とか、ジージーと蝉の声とかだけが聞こえた。ずいぶん蝉の声が遠くなったから、もうすぐトンボが飛ぶだろう。楽しみだな、なんてぼんやりと考えながら、僕はソファで読書感想文の課題図書を読んでるフリをしながら2人の会話やら様子を盗み見ていた。すると、リョウがチラチラとにいちゃんの方を見て言った。
「なぁ、キヨ、ここの計算がわからへん」
「ん?ここ?ここはほら‥‥」
2人の距離がぐっと近くなる。リョウは、じっとにいちゃんを見てる。こらこら!教科書を見ろよ、にいちゃんが説明してるだろうが!と言いたかったけど、本を読んでるフリをしてる手前何もできない。リョウは丁寧な解説も右から左って感じでただ、にいちゃんの伏した長い睫毛が動くのを見つめてた。
“じっ”と、なんてもんじゃない。“じぃぃーーーっ”とだ!リョウは良いやつだけど、にいちゃんに対して下心があるんじゃないかと最近僕は勘ぐっている。女になっちゃうのを知ってる僕だからそう思うだけかもしれないけど‥‥‥。そんなに見つめたら、にいちゃんに穴が空くんじゃないかと心配になるくらい見てるのに、当の本人は全く気づいてない。
「‥‥ってわけ。わかったか?」
「おー。サンキュな!わかったわかった」
「じゃあこれ解け。おんなじやり方だから」
「‥‥‥‥」
ざまぁ!と心の中で叫びつつ僕はまたDSを開いた。 カラン、とオレンジジュースを入れたグラスが涼しげな音を立てた。
*****
「なぁ、キヨ」
「ん?」
「キヨってA中学、受けるんか?」
「んー‥‥、一応そのつもり‥‥でもまだ決めてはいないかな」
「おれ、K大付属ならスポーツ推薦取れるかもしれんって言われとるんよ。なぁ、一緒にK大付属行こうや。」
「‥‥‥‥。でも、K大付属ってちょっと遠いよな」
「寮あるやん。K大なら俺の兄貴もおるし」
「そりゃ、そうだけど‥‥」
ジュースのなくなったグラスの氷を溶かしながら、僕は2人の会話を聞いていた。珍しくちょっと困った顔のにいちゃんはいつもは涼しげな眉尻が下がってる。こんなこと絶対口にしないけど、にいちゃん、かわいい。
‥‥‥‥月に一回、女になっちゃうから寮生活は無理だ‥‥‥なんて言えるわけないもんね。ちなみにA中もK大付属もかなりの高偏差値の私立中学だ。にいちゃんは市内の頭の良い子が行くA中に入るんだって僕は思ってた。ここから最寄駅で一本だし、K大付属もそこそこ偏差値は高いけど、A中ほどじゃない。どっちかっていうとスポーツが有名な感じだ。グイグイくるリョウに、にいちゃんはやや引いてる感じだ。でもここで引くわけにもいかないだろう。僕はにいちゃんがA中の過去問を何度も解いてるのを知ってるし、模試の第1志望もA中にするとママに話してるのを聞いていたから。
「でも俺はやっぱA中‥‥かな」
「‥‥そっか‥‥」
「いいじゃん、どうせまたいつでも道場で会えるだろ。受験なんか終わらせて、早く柔道やりてーな」
「‥‥まぁな、」
リョウはちょっと(いや、かなり?)ガッカリした様子だったけど、すぐに2人はDSを取り出すとゲームを始めた。ママがパートから帰ってくるのは4時だからもう30分くらいしかない。ママが帰ってきたら、すぐゲームはしてませんってフリしておかなくちゃならない。僕もDSに集中することにした。
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