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第2話 獣王アルヴァルド

 ゆっくりと、意識が浮上した。  最初に感じたのは、柔らかさだった。  使い慣れたベッドとはまるで違う感触。沈み込みが深く、布地は指に吸い付くようになめらかだ。  次に、匂い。  甘い――だが、鼻腔を刺すような不快感はない。花と樹脂を混ぜたような、どこか粘度を感じさせる匂いが、息を吸うたびに肺の奥まで入り込んでくる。 「……っ」  凛士は息を吐き、ゆっくりと瞬きをした。  視界に入ったのは、高い天井と、薄布で覆われた天蓋。揺れる燭台の光が、白と金を基調とした室内を淡く照らしている。  ――どこだ、ここは。  意識が覚醒するにつれ、直前にされたことを思い出す。反射的に身を起こそうとして、凛士は動きを止めた。  体が、妙に軽い。  それでいて、熱がこもっているような感覚がある。  思わず自分の体を見回した。  露出している肌はきれいに洗われ、うっすらと光っていた。指先で触れると、しっとりとした感触が返ってくる。油――香油の類だろう。さっき嗅いだ匂いは、どうやらこれらしい。 「……勝手に……」  呟こうとして、声が思ったより掠れていることに気づく。  服装にも違和感があった。  身に着けているのは、布地自体は上質だが、構造が妙に簡素な衣だ。結び目が少なく、引けばすぐにほどけそうで、布は体の線に沿って落ちている。  まるで――脱がせる前提で纏わせたかのように。  そう理解した瞬間、凛士の背筋に冷たいものが走った。  そして何よりも腰の奥――今まで何の侵入も許さなかったそこに、微かな異物感があった。痛みはない。ただ、何かをされたという事実だけが、嫌な確信として残っている。 「……くそ、あいつら」  準備は整えられた、ということか。  凛士は歯を食いしばり、寝台から降りようと足に力を込めた。  状況は最悪だが、拘束はされていない。まだ、動ける。  その時。  遠くで、扉の開く音がした。  規則正しい、足音。  石床を踏みしめる重い音が、一定の間隔で近づいてくる。  凛士の呼吸が止まった。  香油の甘さとは別の匂いが、空気に混じる。  もっと生々しくて、熱を孕んだ匂いだ。  夜の街で、何度も嗅いできた。  自分自身も、纏ってきた。  ――雄の匂い。しかもこれは。  凛士の全身が強張った。  本能的な何かが、凛士に警告している。  ――格が、違う。  足音が、天蓋の向こうで止まった。  ◇ ◇ ◇  天蓋越しに影が落ちた。  揺れる薄布の向こうに、背の高い人影が立っている。燭台の光を受け、その輪郭だけがくっきりと浮かび上がった。  人の姿と、動物の耳――。  凛士がそれを認識したと同時に、薄布が誰かに払われる。  現れた男を見て、凛士は無意識に体を反らせていた。  悠然と立つその男は、疑いようもなく、王の立ち姿をしていた。  背は高く、190センチ以上はあるその体躯の、やや褐色めいた肌と無駄のない筋肉が衣の下に整然と収まっている。冷たい光を宿した白銀の髪は灯りを受けてわずかに煌めき、おそろしいほど美しい顔をさらに引き立てていた。  儚げさを微塵も感じさせない鋭さと、気品が同居した彫りの深い相貌。そこにある金色のふたつの目には暗い輝きが影となって落ち、頭部に生えた狼を思わせる耳までもが、この男の一部として完成しているように見えた。  凛士は、眼前に立つ彼から――その圧倒的な雄の存在感から、目が離せずにいた。  完全に見惚れていたことに気づいたのは、男と視線が合った時だった。  男は、その視線を凛士の頭から足先まで一度だけなぞるように走らせると、ふいと興味なさそうに視線を逸らした。 「……は?」  凛士の口から、思わず声が漏れる。  こっちは見惚れていたのに――咄嗟にそう思い、同時に言いようのない苛立ちが湧き上がった。  見惚れていた。確かに見惚れていた。  同じ男として、雄として、無条件降伏をしそうになっていた。  だが「お前には何の興味もない」と言わんばかりの反応をされ、揚げかけていた白旗をぶん投げる。  勝手に召喚して、気絶させて、脱がせて、匂いまで染み込ませておいて。  お前が、俺を選んだんじゃないのか。 「おい」  声を張る。凛士の口調は、自分でも驚くほど強かった。  ツガイだの、器だの、そんな言葉は、この時点ではもうどうでもよかった。  ただ、雄として見られていないことが、我慢ならない。  男――アルヴァルドは、ゆっくりと凛士に視線を戻した。  今度は、先ほどよりもわずかに深く。  凛士の存在を、改めて『認識する』ような眼差しだった。 「ようやく『こっちを見た』な?」  凛士が挑発するように言うと、アルヴァルドはほんの少しだけ考えるような仕草を見せた。  アルヴァルドの眼差しに、怒りや威圧感はない。代わりに、何かを試そうとするような、不思議な気配をかすかに感じた。 「……面白い」  低く、感情の起伏を削ぎ落とした声だった。 「これまで、我に差し出された者はみな、同じ顔をした」 「……は?」 「恐れ、期待、歓喜。あるいは、そのすべてだ。みな我に従属し、精の器となった」  淡々と告げられる言葉に、凛士は眉をひそめる。 「だが――」  アルヴァルドの視線が、再び凛士に向けられる。 「噛みついてきた者は、初めてだ」  凛士は一瞬だけ目を見開き、すぐに口の端を吊り上げた。 「……俺が『初めて』ね。へえ、つまりツガイの俺は、あんたにとって特別ってことか」 「特別かどうかは、まだ測っていない」  即座に切り捨てられる。 「お前の魂も、他と同じく『候補』に過ぎん」  その一言で、凛士は理解した。  ――選ばれたのは、自分だけじゃない。  一瞬、胸に何か感情が湧き上がりそうになったが、凛士はそれから目を逸らした。 「……ふうん」  鼻で笑い、男を見上げる。 「つまり今まで何人も抱いたけど、ダメだったってことだろ。……それってさ」  わざと一拍置いた。  息を吸う。意識して、嘲笑う目線を向けた。 「単にお前が下手なんじゃねえの?」  室内の空気が、わずかに軋んだ。  次の瞬間。  凛士の視界が反転した。  寝台に背中が叩きつけられ、凛士は息を詰まらせた。  覆いかぶさる影。間近から見つめる金色の瞳が、わずかに輝いた。まるで、肉食獣が獲物を刈る寸前のような、獰猛さが滲んでいる。 「――では、試してみよう」  アルヴァルドの声には、愉悦の色があった。 「お前のその体が、我の器となり――抱き続けるに足るものであるかを」  その言葉で、凛士は失敗を悟った。  挑発し嘲笑うつもりが、自分から、喉元を差し出したのだ、と。

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