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第4話 戻る資格
湯殿を出たあとも、熱は皮膚の奥に居座り続けていた。
水気を含んだ髪が首筋に触れ、その冷たさが、凛士に現実であることを告げている。
拘束されているわけでも、術をかけられたわけでもないが、凛士はただ付き従うように歩を進めていた。
両脇を固める従者は無言で、視線も合わさない。彼らはただ一貫して己の役目のみを遂行していて、凛士に対する思いやりも気遣いもなかった。
尤も、そんなことをされていたら、凛士は怒りでどうにかなっていたかもしれないが。
――次に、もしも。
黙々と歩きながら、不意にその言葉が浮かび上がり、凛士はそれ以上考えるのをやめた。
この思考の扉は開いてはいけない。厳重に鍵をかけて石膏で塗り固めて、さらに岩でもなんでも積み上げて、とにかく見なかったことにしなくては。
角を曲がる。
従者の一人が何かに躓く。ほんの一瞬、列が乱れた。
その瞬間、凛士は考えるより先に足を動かしていた。石床を蹴り、駆け出す。後ろで短い驚愕の声が上がったが、構わず走り続けた。息が乱れ、胸の奥が焼けるように痛んでも、足は止めなかった。
追われているのかどうかはわからない。ただ、走り続けなければ、逃げ続けなければいけない、そんな思いに駆り立てられていた。
もし、足を止めたら、捕まったら――。
懸命に足を動かし、やがて扉のない開口部を抜けた瞬間、空気が変わった。
風の音と、水の流れる、かすかな響き。
凛士はそこでようやく足を止めた。浅い呼吸を繰り返しながら背後を見る。従者が四つ足に転じていたらとうに追いつかれていただろうが、どうやらその心配はないようだった。
目の前には、小さな屋敷があった。
真っ白な薔薇が咲き誇る庭は美しく、だがまるでここに誘うために誂えられたかのような、奇妙なアンバランスさも同居している。
その庭に、佇んでいる者がいた。
淡い色の長髪が、光を含んで揺れている。頭に獣の耳がないのを見て、凛士は自分と同じ世界の人間もいるのかと驚いた。
その肌は驚くほど白く、血の気が薄い。人形じみた顔も細い体も中性的で、前が大きく開いた服を着ていなければ、性別はわからなかっただろう。
男が振り向いて凛士を見た。はだけた胸元に下げられた首飾りの柘榴石が、光を受けてわずかにきらめく。
「そんなに急がなくても……追っ手はないようですよ」
凛士が来た方へと視線を遣り、彼は笑みを浮かべた。
「……それに、あの方は誰も追わない」
彼は恍惚とした表情を浮かべ、凛士へ数歩近寄った。
鼻を寄せ、空気を嗅ぐと、「ああ」と身震いをして己を抱きしめる。
「あの方の残り香……なんてかぐわしい!」
男の突然の豹変に、凛士は思わず数歩後ろに下がった。
「あの方があなたをどう抱いたか、僕にじっくり教えてくれませんか」
「……あんた、頭大丈夫か?」
「僕は至って正気です。あなたも、あの方の熱の余韻にたまらなくなって、ついここまで走ってしまったのでしょう?」
「いや俺は逃げたくて――」
凛士の言葉を遮るように、男が詰め寄ってきた。
「逃げる? なぜ!? ……ああでも気持ちはわかります。あの至高のひとときが、たった一度きりなんて! それを突きつけられるたびに、気が狂いそうになる」
男はそう言ってから、凛士を手招いた。
「あなたもここで暮らしましょう。『二度目がない』者同士、うまくやれると思うんです」
――二度目がない。
(こいつ、元ツガイ候補か?)
耳がないのを見てから、うっすらとそんな気はしていた。
アルヴァルドは、今まで何人も器の候補はいたと言っていた。
こんなに美しい男でもツガイにはなれないのか。そして男の口ぶりは、凛士もすぐに候補から外れると決めつけているようだった。
本当にそうならいい。だが、もしも――。
凛士はまた頭に浮かんだ感情を追い払う。
「俺は本当に逃げたいんだ。元の世界に戻りたい。あんた戻る方法を知らないか?」
男が信じられないようなものを見る目を凛士に向ける。すっかり獣王に心酔しているこの男にとって、凛士の言動は意味不明なのだろう。
「……方法は、ありますよ。いえ、あなた……それをまだ知らない?」
最後の言葉は小さすぎて、凛士には届かなかった。
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