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第2話 逃げ道の先で

 朔真に遠距離の彼女がいるらしいという噂は、大学の頃から何度も耳にしていた。  中学時代、一方的に距離を取り始めた凪に、それでも朔真はしつこく接触してきた。孤立しがちだった凪を気にかけ、登下校は凪の後ろをただ黙ってついてきた。ただ、凪がなぜ朔真から離れようとしているのか、その理由は一度も聞いてはこなかった。  当然のように同じ高校を進学先に選んだ朔真だが、その頃から凪のことを「久我」と苗字で呼ぶようになった。自分から距離を取っておきながら、最初にそう呼ばれた時のことを思い出すと今でも胸が痛む。  朔真はふたりでいる時は相変わらず「凪」と呼んでいた。その分、人前で「久我」と呼ばれるたびに、凪は、もう自分たちは特別な関係ではないのだという事実に、身勝手ながら寂しさを感じていた。 (……本当に、勝手だな。そうなることを望んだのは俺なのに)  あれからずっと、胸にはかすかな痛みがしこりとなって残っている。  同じ大学に進んでも関係は変わらず、けれど誰かから「水瀬にはずっと付き合っている彼女がいる」という話を聞いて、凪は自分だけが立ち止まったままであることを知った。  凪は大きく息を吐いた。  せめて、仕事はきちんとしなければ。そう自分に言い聞かせ、ミーティングルームを出る。  だが、数歩進んで足を止めた。 「久我」  まるで凪が来るのを待っていたかのように、朔真が立っていた。 「あ……水瀬君」  そう呼ぶと、朔真は気に入らないことでもあるのか、小さく舌打ちをした。 「……少し痩せたんじゃねえの」 「そう、かな。変わらないと思うけど」 「ちゃんと食ってんのか?」  凪は頷いた。本当は最近あまり食欲がない。  俯いた凪は、朔真の左手の薬指を見て、一瞬息を止めた。何度見ても、その瞬間、胸の奥が重く沈む。 「元気にやってんのかって、おばさん心配してたぞ」  ため息混じりに朔真が言う。 「……あ、ごめん、水瀬君に迷惑かけて」 「迷惑じゃねえよ」  そう言いながらも、朔真はやはり苛ついているようだった。 「……ごめん」  もう一度謝り、凪は朔真の前を通り過ぎた。 「おい、な……久我」 「仕事に戻るよ」  これ以上朔真といたら、変なことを口走ってしまいそうだった。  凪が朔真から距離を置いても、彼がずっと構い続けていた最大の理由。凪の両親から、色々と言われているからだろう。高校卒業後に早々と一人暮らしをした凪とは対照的に、朔真は今も実家に住んでいる。  義務感や、責任感、あとは昔からの腐れ縁か――それらも全て、朔真が新しい家族を持つまでの、期間限定のものに過ぎない。  朔真が彼女と結婚したら、自分と完全に縁が切れたら、そうしたら今より少しは楽に呼吸ができるのだろうか。そう思う一方で、その風景を想像することすら拒否している自分に気づき、凪は少し泣きたくなった。  ◇ ◇ ◇  クリスマスを間近に控え、街はより一層華やかさを増していた。  喧騒を早足で通り過ぎ帰宅した凪は、入浴のあと、スマホを手に深呼吸を繰り返していた。  数日前、このままではいけないと現在の心境をネットで相談してみた。回答はすぐに来て、その多くが『もっと気楽に考えれば』というアドバイスだった。  おすすめのゲイ向け出会い系アプリもいくつか教えてもらったものの、登録する勇気はなく、そのままいつもの生活に戻る――はずだった。 「水瀬君、いよいよプロポーズするらしいね」  終業間際、隣の席の同僚がそう耳打ちしてきた。  距離を取っているから当然だが、朔真についての話題は、いつも本人から何ひとつ知らされることなく、他人経由の噂だけが耳に入る。 「やっぱクリスマスかなぁ」  自分のことのように浮かれて話す同僚に、ちゃんと笑みを向けられたか自信はない。  ただ、それが凪を動かした。  帰宅後、教えてもらったアプリのうち、初心者向けと書かれていたものを選んでダウンロードをし、開いた。  プロフィール写真はテンプレートの風景写真。紹介文は『ネコです。初心者です』とこれもテンプレートをそのまま採用した。ただ、『寂しさを埋めてくれる人』その一文だけを付け加えた。 「気楽に、気楽に……」  もらったアドバイスを反復する。頭の片隅に『自暴自棄はダメだよ』という言葉もよぎったが、凪は頭を振ることでそれを追い払い、ボタンを押した。  しばらくして、スマホが通知音を鳴らした。  まるでそれが合図のように通知音は止まらず、凪は困惑した。  再度アプリを開くと、いいね欄に20以上の数字が記されていた。コメントには体の関係だけを示唆するものから、テンプレートをなぞったものまで、色々な言葉が書かれていた。  凪はその中から、『まずはお話だけでもしませんか』とコメントをしてきた相手を選んだ。自分より5歳年上の自営業。プロフィール写真の横顔が、なんとなく朔真に雰囲気が似ているのも決め手のひとつだった。  何度かコメントを交わし、クリスマスイブはどこも混んでいるだろうからと、その前日の仕事終わりに会うことを約束した。相手は終始紳士的で、『初対面だからお酒だけ軽く飲みましょう』と提案し、男同士でも気兼ねなく入れるバーを指定してきた。  コメントでの会話を終え、スマホを閉じ、凪は大きく息を吐いた。  長年殻に閉じこもっていたのに、ほんの少しの行動であっけないくらい簡単に進んでしまった。  少しの高揚感は、だがほどなくして急速にしぼんでしまう。その度に自分を鼓舞するが、心と体がまるで違うようで、落ち着かなかった。  ◇ ◇ ◇  数日後、凪は一度帰宅してから、アプリに書かれていたエチケットに倣い簡単にシャワーを浴び、スーツから普段着に着替えた。『服装は気負わず友人と遊ぶ格好でOK』と書かれているのを見て、凪は、今までまともに友人と遊んだこともなかったな、と今さら思った。  色々と考えると全部なかったことにして殻の中に戻ってしまいそうで、凪は敢えて淡々と身支度を整え、家を出た。  そうして電車を乗り継ぎ、来たことのない街に降り立った。地図を頼りに裏通りにある小洒落たバーのドアを開くと、店内にいた数人が、凪へと視線を向けた。  約束した通りカウンターの右端に座り、男を待つ。すぐに、肩を叩かれた。 「ナギくん?」  名前を呼ばれ、顔をあげる。下の名前を呼ばれるのは久々で、ほんの少し落ち着かなかった。 「はい。ユウさん、ですか?」  男は頷くと、顔を綻ばせた。実際に会うと朔真とは全く違う。  ユウは左耳のピアスを指先で弄りながら、目を細めて凪を見た。 「へえ。写真なかったからちょいブスかと思ってたけど、かわいーじゃん」  交わしていたコメントにあった誠実さの欠片もない、軽薄な口調だった。 「はじめてってマジ? めちゃ興奮すんだけど」 「あの……」 「オレうまいからさ、マジ期待してて」 「え、あの、今日はお話だけって」  男は目を丸くし、小馬鹿にするように口端を歪めた。 「かっわいーの。あれ信じたんだ。ガチ初心者じゃん」 「あ、あの」 「変なのに捕まったらダメだよー。ま、オレは優しいほうだけどさ」  そう言った男が、カウンターに五千円札を置いて凪の腕を引っ張る。バーのマスターはそれを止めることなく、無言で背を向けた。 「ちょ、ちょっと待ってください。俺は――」 「いーからいーから」  強引に店の外へ連れ出される。そのまま手を引かれ、暗がりへと引きずられそうになり、凪は慌てた。 「い、いやだ、待てって――!」  凪が男の手を振り払ったのとほぼ同時に、逆側の腕を強く掴まれた。ぐいと後ろに引かれ、一瞬、鋭い痛みが走る。  痛みはすぐに去ったが、その直後に背後から伸びてきた腕が、凪の胸元に回された。 「え……?」  顔を向け、そこに朔真の姿を見て、凪は硬直した。

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