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2-8.
「……いいにおい」
お風呂上がりのケアを受けながら、カイがポツリと言った。温かいお湯に浸かったことで緊張が解け、一日の疲れが一気に出たのだろう。
さっきから、少しぼんやり気味だ。
……無理もない。
カイにとって、今日はハード過ぎる一日だった。
「そう、よかった。
ラベンダーだよ、落ち着くよね。……俺も好き」
身体には入念にオイルを。
お顔には、さっぱりめの化粧水と乳液、それからクリーム。
目の周りが少し腫れぼったい。頬もカサカサ。
きっと、涙をたくさん流したのだろう。
そして、それよりも気になるのはおでこだ。
傷にこそなっていないが、その真ん中が、赤い。
――追い詰められると、自傷に向く傾向が……。
昼間、満がそう言っていたことを誉は思い出す。
――今日、"あの家"でカイがどれだけ傷ついたか……、想像に難くなかった。
しかし誉は何も言わず、最後におでこを親指でそっと撫でて「よし」と頷き、カイからそっと離れた。
「何か、あったかいの飲もうか。
ふわふわのホットミルクはどう?」
「……」
カイは黙って俯いてしまう。
一方、誉は「待っててね」と囁いて立ち上がった。
するとその時、カイが誉のシャツの裾を掴んだ。
振り返り見たその様子が気になり、即座に向き直り膝をつく。
「なぁに?」と、そう口を開く前にカイはするりとパジャマを肩から落とした。
無垢な白い体躯が露わになる。
そして俯いたまま、消え入りそうな声で呟くように言う。
「――ほまれが、ほしい」
裾をつかむその手が、震えている。
「……きもちいの、したい」
誉は目をそらすことなく、即座に返した。
「しないよ」
カイは俯いてしまう。
が、その手は誉を離さない。
「――オレのこと、嫌いになった?」
そして、少しの間を置いてから震える声でそう問うた。誉はそんなカイの頬を撫で、上着を直してやりながら、
「ううん。大好きだよ」
と、優しく返す。
「大好きだから、しない」
そしてそう続けると、ぎゅっとカイを抱きしめる。
すぐにその背を撫でて、
「冷えちゃったかな。あったかいの、飲も」
と言い残して、そのままキッチンの方へと向かってしまった。
コンロが点く音が響く。
カイはその音を聞きながら、ぎゅっと唇を噛んだ。
誉の元に行きたい気持ちと、また拒絶されることの怖さとを天秤にかけて、結局カイはその場から動けない。
立ち尽くしている間にどれくらい経ったか、やがて誉がお盆を一つ持って戻ってきた。
そのままカイの横を素通りして、いつもの定位置、ソファーとカフェテーブルの間に収まると、カイの方を向いて声をかけた。
「おいで」
カイは、無言でそれに従う。
少しだけよそよそしく誉の足を跨いで中に入って、ゆっくりと腰を下ろした。
けれども、いつもみたいに誉に背中を預けてくれない。
だから、誉からカイのお腹に手を回して、抱きしめた。何も言わずに、その身体を温めるように、ただ包み込むように抱きしめる。
言葉を交わすこともなくしばらくそうしていると、少しずつカイの身体が解けてきた。
そして、ふうっと息を吐く音が聞こえたと同時に、その背がやっと誉に託される。
誉は、ほんのりピンク色になった項に軽く口づけ、左手でカイを抱いたまま、盆からカップを取ってそれぞれの前に並べた。
カイが大好きな、ふわふわのホットミルク。
それからビスケットに、いちごのジャム。
どちらも誉のお手製だと、カイは見てすぐに分かった。少し身体を伸ばして、誉はソファーの方に手を伸ばす。手探りでウサギを拾い上げ、カイの膝に置いてやり、
「うさちゃんも、どうぞ」
と言って、ミルクが入ったおちょこをカイの前に置いた。
それから醤油皿にも、わざわざ作ったのだろう――小さなビスケットでジャムをすくってのせてくれた。
カイがなかなかミルクに手を伸ばさないので、誉が先に口をつけた。それから、ビスケットをつまんで食べる音を聞かせる。
すると、ようやくカイがカップに手を伸ばした。
両手で包み込むようにして、口元に運んでいく。
ほんの少しだけ傾けて、少しだけ口に入れてみる。
丁寧に泡立てられたホットミルクは口当たりが柔らかく、ほんのり甘くて、おいしい。
カイは思わずホッと息をつく。
それを横目で見ながら誉は小さく笑んだ。
コクコクとミルクを飲み始めたカイに、隙を見て小さく割ったビスケットを口元に差し出してやる。
カイはそれを誉の手からパクンと食べて、またミルクに戻る。
二度繰り返すと、袖口をきゅっと引かれた。
「ジャム欲しい」の合図だ。
誉はクスリと笑って、ビスケットでジャムをすくってカイの口元へ。
同じようにカイは食んで、モグモグしながら味わった後、ようやく「ふふっ」と笑みがこぼれた。
ポカポカしてきたカイの体温と重さに心地よさを感じながら、誉が口を開く。
「しあわせだなあ……」
カイは自分の耳を疑った。
しあわせ………?
今、こんなにも大変なことになりつつあるのに。
誉なんか、完全にもらい事故で……。
オレのせいで悪いことが起きるかもしれないのに。
それなのに、幸せって……。
何を言ってるんだ、この人は。
そんな気持ちとは裏腹に、誉はカイの頭に顎を置いて、ふんわりとした口調で言う。
「カイがいて、ぴったりくっついて、あったかくて。一緒に、同じあまいものを食べてさ。
……これ以上、幸せなこと、他に、ないよ」
次に、誉は、カイを更に強く抱きしめ引き寄せた。
そして、そのままの声色で続ける。
「"きもちいいの"は、そういう幸せの上で成り立つものだと、俺は思うんだ。
さっきも……今もだけど、カイはそうじゃないよね。
きっと心の中がザワザワして、モヤモヤして、不安でいっぱいだよね」
カイの体が俄に強張った。
誉はそれをほぐすようにお腹を撫でながら、再びその頭に顎を乗せる。
頭上からふうっと息を吐く音が聞こえた。
「もしかしたら、誉に迷惑かけちゃうかな。
誉が、面倒だとか、嫌だとかっね思わないかな、って疑っちゃったりしてさ」
より深く俯いてしまったカイの頭が、一段下がってしまう。 誉はカイを抱く手に力を込めた。
「そんな気持ちのまま、"セックス"をするとね。
そういう良くない気持ちや不安は、"気持ちいい"の魔法で、"幸せ"だって錯覚できちゃう。
でも、その魔法って、すぐ解けちゃうんだ。
そして、魔法が解けたあとは、その前よりも、ずっとずっと苦しくなる。
俺はね、カイにそんな思いはさせられない。
だって、君のことが大好きだから。
……愛してるから」
誉は、カイのお腹から胸の方へと手を滑らせていく。そして、左胸に大きな手をそっと当てた。
「"気持ちいいの"は、カイのザワザワや不安が落ち着いて……しあわせだなぁって思えたら、しようね。
きっと、今、それよりも俺たちに必要なのは……こうやって、ぎゅってして、美味しいの食べて、安心してさ。幸せだねって笑って、一緒に"ねんね"することなんじゃないかな」
――ようやく、カイが頷いた。
ポロポロと零れた涙が、誉の腕に落ちる。
何も言わず、言えず、カイは声を肩を震わせて静かに泣く。
誉もまた、そんなカイをただ抱きしめて待つ。
後はきっと、カイ自身がその気持ちに整理をつけるだろう。
そう信じているから、黙って待つことを選んだ。
半刻ほどが経ち、すっかりホットミルクも冷めてしまった頃、カイが身体ごと誉に向き直った。
そして誉に手を伸ばして、ぎゅっと抱きしめる。
誉もまた抱きしめ返して応える。
カイは濡れたままの頬を誉に擦り付けて、
「オレ、ほまれと、しあわせになりたい」
と、ハッキリ言った。
しかしその後、
「……迷惑かけ……」
と、自信なさげに続けるので、誉は思わずその腕の力を強めた。
「そんなことは、絶対ない。――絶対、ない。
君のことで、そんな風に思うことは今までも、これまでもずっとない。
大丈夫、絶対、何とかする。
だから絶対、二人で、一緒に、幸せになれる」
それは、普段の誉からは想像つかないくらいの力強さだった。
「――二人なら、大丈夫。
どんなことも、乗り越えられるよ」
誉のその言葉で、カイはようやく胸のつかえが取れた気がした。
如月家としてのふるまい。
課せられた役割。在るべき姿。
それら全部と、きっと自分は違う道を選ぼうとしている。もう、家には戻れないかもしれない。
――兄にも、会えなくなるかもしれない。
それでも。
「うん」
カイは頷いて、顔を上げた。
その赤い瞳に、しっかりと誉を映し言う。
「――ほまれとなら、大丈夫」
その声にはもう、一切の迷いも、不安も滲んでいなかった。
「うん。カイとなら大丈夫」
誉もまたそう言って微笑んだ。
そして二人は、もう一度抱き合う。
それから、ようやく二人でふふっと笑い合った。
お互い以外は、何もいらない。
心から、そう思った。
閉じられた世界で、それでも二人は、幸せだった。
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