47 / 54
3-16.
「あ"?」
ぐしゃり、と紙が潰れる音がした。
その聞いたこともないような低い声と乱暴な物言いに、航とカイは揃って肩を上げ竦み上がる。
満のその手の中では、つい今しがた作り終えたばかりの書類が、無残にも握り潰されていた。
件の祝賀会に向けて組み直した、櫂の投薬計画だ。
航が、恐る恐るその肩越しに覗き込む。
そこには、離脱症状の段階的な想定から緊急時対応までびっしり書き込まれた、綿密なスケジュールが並んでいた。満はそれを睨みつけたまま、もう一度噛みしめるように反芻する。
「は?断薬?」
そして、紙を机に叩きつける。
「減薬ならまだしも断薬?
……いや無理。無理無理、絶対無理」
その横で、航が櫂に小声で言う。
「おい。なんか、すげー怒ってるぞ」
櫂は静かに頷いた。
「……うん、怒ってるね」
航が腕を組む。
「これは、二個目のコーヒー農園を買った時より怒ってるな」
「さっき言ってたやつ、三個目なんだ」
「……いや、四個目」
即座に首を横に振る兄に、カイは呆れたように返した。
「そんなに買ってどうすんの?」
「まあ、農園なんて、ナンボあってもいいからな」
航は腕を組み、誇らしげに言った。
すると満の動きがピタリと止まり、ゆっくりとこちらを振り向く。
「……今」
それは、静かな声だった。
「四個目って言いましたか?」
「あ、いや……」
「うん、そうだよ」
「バッカ、言いつけんなよ」
その言葉に、満の視線がゆらりと航へ移る。
「若さま」
「……ひぇ」
「私が聞いているのは」
そして強く机を指で叩きながら言い放った。
「二個目までです」
航は、視線を泳がせながら沈黙した。
満は苛立ちを隠そうともせずに続ける。
「三個目以降は聞いてないんですけど」
「だ、大丈夫だ。
ちゃんと小遣いの範囲でやってる」
「そういう問題ではないです」
満は眼鏡を押し上げ、ため息をついた。
「農園の件は、またあとで詳しく伺います」
「……舞子にだけは黙っておいてくれ」
「必ず報告します」
「……いいか、カイ」
「なあに?」
航はガックリと肩を落としながら言う。
「結婚するとな、好きに農園も買えなくなるんだ。
縁談はホントよく考えたほうがいい……」
「普通の人は、アホみたいに何個も買いません」
「誉なら、大丈夫!」
「さすがの誉も、いきなり農園を買ったら怒ると思いますけどね」
満は眼鏡を押し上げると、机の上の書類を静かに整えた。先ほどまでの怒気は既に引き、いつもの冷静さを取り戻している。
「……まず、本来の治療計画を説明します」
カイと航が、揃って頷く。
「入院から、本日で四日目です。
ここまでの経過を見る限り、症状のピークは越えたと判断しています。投薬の効果も大きいですが……」
満は一度言葉を切り、櫂をまっすぐ見た。
そして、
「……今…あなたがこうして冷静に会話できていることが、一番の根拠です。
ですから、本来ならここからは様子を見ながら徐々に減薬していくのが、自然な流れです」
と、淡々とした様子ではあったが、時折カイの様子を伺い、緩急をつけながら話を進めていく。
「ここからは、退院を視野に入れて調整します。
目安としては、一ヶ月。一方で、退院後もしばらくは投薬の継続は必要です。
外来で経過を見ながら量を調整し、問題がなければ半年ほどで完全断薬。
……それが元々の治療計画です」
そして、最後に書類に視線を落としたままぽつりと付け加える。
「もっとも……。
初日の様子、そして心理評価のテスト結果を踏まえると、かなり劇的な回復ですが」
そこで眼鏡を押し上げながら、ちらりと櫂を見た。
「……通常なら、ね」
その瞬間、カイの肩がぴくりと動いた。
それを横目で見ながら、航がじとりとその方を見る。カイはさっと視線を逸らし、素知らぬ顔を決め込んだ。
満はそれ以上は何も追及しようとせず、すっかりよれた治療計画の紙を畳みながら、一段声を高くして言う。
「……さて、ここで櫂"先生"に問題です」
航が眉をひそめ、「おい」と声をかけたが、満は構わず続ける。
「この状態から急な断薬を行った場合、予想され得る症状は?」
カイは、少しだけ視線を落とし、考える。
そして、静かに口を開いた。
「まず自律神経症状」
満は腕を組みながら小さく頷いて、続きを促す。
「動悸、震え、発汗。
――不眠、焦燥、感覚過敏」
カイの言葉が止まったところで、満が短く煽る。
「……それから?」
「情動の不安定化」
カイは少しだけ眉を寄せる。
「パニック発作の可能性……」
満はさらに追い打ちをかけるように質問を続ける。
「あなたの既往歴を踏まえ、重症化した場合、特に起こりやすいのは?」
カイはわずかに間を置き、答えた。
「……呼吸状態の悪化」
最後に、満は静かに言った。
「想定し得る最悪のリスクは?」
短い沈黙があった。
カイは俯いて、すぐには答えられなかった。
その脳裏に、祝賀会の光景がふと浮かぶ。
――祖父、理事会。縁談。
向けられる、視線。
膝の上のウサギの耳を無意識に握りしめた。
――想像しただけで、胸の奥が震える。
しかし、それでも顔を上げて、口を開いた。
「……祝賀会最中の急変」
それを言葉にした瞬間、ぎゅっと喉が締まった。
室内が、しんと静まり返る。
満はカイを見つめたまま、暫く何も返してはくれなかった。その視線と沈黙が余計に重く感じられて、カイは指先でウサギをぎゅっと握る。
やがて、ようやく満が静かに頷いた。
「……よくできました」
――打ってかわり、穏やかな声だった。
だが、その表情はすぐに元の冷静なものへ戻る。
満は眼鏡を押し上げ、腕を組んだ。
「いいですか。
今あなたが自分で言った通り、断薬は、大きなリスクがあります。――それでも、やりますか?」
カイはまた、すぐには答えられなかった。
さっき自分で口にした症状とリスクが、脳内でグルグルと回り始める。
それを振り払うように目を閉じて頭を左右に揺らした後、膝の上のウサギの耳を、ぎゅっと握った。
それから下唇を噛んで、まっすぐに満を見据えながら返した。
「……やる」
それは短く、はっきりとした声色だった。
次にカイは、ふっと身体の力を抜いて、小さく微笑む。そしてうさぎを抱き直しながら、柔らかな声で続けた。
「リスクばっか考えるの、もうやめたんだ」
満はわずかに目を大きくし、カイを見つめていたが、やがて小さく息を吐いて口元を緩ませる。
そして、
「……かしこまりました」
と小さく返し、机の上の書類を整えた。
「では、治療計画を変更します。――ただし」
次にそう言うと、カイに視線を戻した。
カイがごくりと喉を鳴らす。
「条件が、あります」
満は、いつもの通り淡々とした口調で続けた。
「まず、観察体制を強化します。
これまではあなたの希望を尊重し、瀬戸さんを中心に私たち3人で体制を組んできましたが、今後は精神科病棟のナースを増員します。
また、夜間も含め、状態のモニタリングは継続」
カイは、神妙な面持ちで黙って頷く。
満はさらに言った。
「離脱症状が強く出た場合は、即座に介入します。
必要と判断すれば薬も入れます」
「……わかった」
「――よろしい。それから、もう一つ。
この判断において、全ての責任は、主治医である私にあります。……この意味が、わかりますか?」
目を大きく瞬くカイに、満はふっと笑う。
「思う通りに、やりなさい」
その横で、航が苦笑いをしながら肩を竦めた。
「ま、なんかあってお前の首が飛んだら、俺が拾ってやるよ」
満がちらりと視線を向ける。
航は構わず続けた。
「……あ、まあでも一回辞めてるからもう飛んでるようなもんか」
そんな航の余計な軽口を受けて、満はこれ以上ないくらいに深く息を吐いた。
それから、櫂に向かって言う。
「では、このお話はこれでおしまい。
櫂、あなたは部屋に戻って休みなさい」
するとカイは、少しだけ首を傾げながら返す。
「……もう少し、ここにいちゃだめ?」
「まだ何か?」
カイは少し考えてから言った。
「兄さんのコーヒー飲みながら、借りてきた本を読みたい」
そこで航が嬉しげに、すかさず口を挟む。
「ほらあ、満。やっぱ農園必要だって」
「ちょっと黙っててもらえますか。
その話は、約束通りこれから詳しく伺います」
「ひぇっ」
すると櫂は、きゅっと下唇を噛んで満を見上げる。
「……一人だと、さみしいんだもん」
「瀬戸さんがいるでしょう」
するとカイは何も言わず、ついと航のシャツの裾を掴んだ。航が、思わず目を瞬く。
満はその様子を見て、眼鏡の奥で目を細めた。
「……三十分だけです。
疲れていることに、違いはないので」
その言葉に、カイの表情がぱっと明るくなる。
「やった」
両手を挙げて喜ぶ様子を見ながら、満は航に向かって言う。
「若さま、櫂にコーヒーを」
「えっ、俺?!」
「……コーヒーを」
「……はい……」
ギロリと睨まれた航は、殊勝な様子で素直に立ち上がる。そして踵を返すと、
「エチオピアのいい豆があるんだよな〜。
よし、手挽きしちゃおうかな〜」
と、その割には楽しげに呟きながら、捌けて行く。
その背を見送りながら、満がぼそりと言った。
「あの人は、思う通りにやりすぎですよね」
「……あはは……」
すぐに航が、香ばしいコーヒーの香りと共に戻ってくる。
その頃にはカイはすっかり落ち着いた様子で、
ソファの端に座り直し、ご満悦で本を開いていた。
何気なくそれを見た満が眉をひそめる。
「随分難しいのを持ってきましたね。
専門家向けのものですよ」
「うん」
カイは、細かい文字列を指で追いながら頷く。
「だからね、これになら書いてあると思うんだ」
「何がですか?」
「愛の方程式」
「…………………………え?今、なんて?」
思い切り困惑した顔をする満の肩を叩き、航が苦笑いをしながら、
「……気が済むまで、好きにさせてやってくれ」
と、首を横に振った。
「……はあ。なんていうか……」
「天才と馬鹿は紙一重。世の常だな」
「……ですね」
そのままカイはページをめくりながら、黙々と本を読み進めていた。自分で所望しておきながら、横に置かれたコーヒーに手を付けようとする様子は一切ない。
――かと思うと、突然、ぱっと顔を上げた。
そして、今度は大きな声を出す。
「兄さん!」
「なんだ」
航がコーヒーカップを置きながら振り向くと、カイは本を掲げて言った。
「すごい」
にわかに嫌な予感がした航が、その眉をひそめる。
一方カイは、その赤い目を輝かせながら、指で本の一節を示し興奮気味に返す。
「この本の通りの感情推移だ!」
満もまた、航が購入した農園の書類から顔を上げている。
「……何の話ですか」
カイは本を指差したまま、満に答えた。
「ほら、この本に、最初は高揚感が出るって書いてある!」
「……なんか、随分楽しそうだな」
満は額に手を当て、静かに言う。
「……薬が抜け始めたのでしょう。
所謂、躁状態ですね」
その言葉に、カイの動きがぴたりと止まった。
「……え?」
ゆっくり満を見て、それから本を見る。
そして、もう一度満を見た。
「……てことは」
カイはまた小さく瞬きをして、数ページ先の文字列を指さしながら、今にも泣き出しそうな声を出す。
「オレ、次こうなるの?」
満が止めるよりも早く、航が命じた。
「やめろ、先は読むな」
カイは、言われた通りに慌てて本を閉じたが、一度目に入ってしまったものは、なかなか記憶から消せない。
しばらく黙りこんでいたが、その眉が少しずつ下がっていく。
「……兄さん」
とうとう堪えられなくなって、カイは小さな声で兄を呼んだ。
「やだ」
少しだけ、その声が震え始める。
「こわい……」
「おや、今度はうつ状態」
「うーん、安定しないな。こんなもんなのか?」
「こんなもんですね」
そしてカイは、またそっと航の袖を掴んで弱々しくおねだりをした。
「……ぎゅってして」
航は一瞬だけ固まったが、すぐに困ったように笑って頭を掻く。
「お前なあ……」
そう言いながらも、まんざらではない様子で腕を伸ばして、その肩を引き寄せる。
カイは素直に寄り、そのまま兄に身を任せた。
それを受けて、航がぽつりと言う。
「……クソ、可愛いな」
満はそんな兄弟を観察しながら、顎に手を当てて呟いた。
「ほんと、見てて飽きない、面白い兄弟だこと」
ともだちにシェアしよう!

