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3-17.
瀬戸は控室のソファーベッドに腰掛けたまま、静かにモニターを見ていた。
それは夕食後のこと。
櫂が突然、瀬戸にこう言った。
『じい、今日は帰っていいよ』
ーーそれは、決して強がりには見えなかった。
ここ数日ほとんど休めていない瀬戸を心から思いやって出た言葉だ。
親族や使用人たちは、櫂を気難しく我儘だと揶揄する。だが、それは正確ではない。
持病の症状ゆえにそう見えることはあっても、本来のその性格は思慮深く、優しい子だ。
『ああ……そうだな。それがいい』
次に口を挟んだのが、長男の航だ。
『お前、ここまで殆ど休んでないだろう。
まだ薬は残っているし、強い離脱症状が来るとしたら明日以降。今のうちに休んでおいた方がいい。
もしお前が倒れたら、今回はマジで詰む』
『兄さん、じいが心配だって正直に言いなよ……』
『は?知らねーし。
つーか、そもそも瀬戸がこんなに苦労してるのは、誰のせいだと思ってんだよ』
『兄さん』
『お ま え だ よ !』
瀬戸はその兄弟のやりとりに、思わず目を細めた。
……こんな風に。
如月家の次代を繋ぐこの兄弟が、使用人を思いやるような優しさを持ってくれたことを、瀬戸は誇らしく思う。
そして櫂は、本を開きながらやけに落ち着いた様子で、のんびりと続けた。
『今夜は、何だかいける気がするんだよね。
それに、もし何かあっても、今夜の担当は三上さんだって聞いてるし。うん、大丈夫』
――この世の中で、櫂の『大丈夫』よりも当てにならないものを、瀬戸は知らない。
櫂は、幼い頃からいつもそうだった。
やけにご機嫌で、大丈夫だと言った夜ほど酷い発作を起こしたり、理由もなく夜泣きをしたり……。
――今夜は、帰るわけにはいかない。
瀬戸は本能でそう悟るものの、この心遣いをを真っ向から否定し覆すことは、主の優しさを踏みにじることになる。
『かしこまりました。お心遣い、痛み入ります』
だから瀬戸はそう頷き、恭しく頭を下げた。
そして隣室に用意された瀬戸専用の待機室で形ばかりの休息を取り始め、早数時間。
モニターの中では、坊っちゃま――櫂がベッドの上で本を熱心に読んでいる。昼間、図書室から持ち帰ったという、難しそうな専門書だ。
しばらくすると、消灯時間を迎える。
モニターの中で、櫂が素直にパタンと本を閉じた。
それから大切にしているウサギのぬいぐるみを抱き込み、布団に潜り込む。
しばらくして、ベッドの上でくるりと寝返りを打った。
すぐにもう一度。
少し間をおいて、さらにもう一度。
落ち着きどころを探すように、布団の上で体を転がしている。瀬戸の目が、わずかに細められた。
瀬戸にとって、それは非常によく見慣れた兆候だった。
眠れない夜、櫂は必ずこうして布団の上で落ち着きがなくなる。
また櫂が寝返りを打つ。
瀬戸は一度立ち上がりかけ――そのまま動きを止めた。
モニターの中で、とうとう櫂の動きが止まった。
少しして、上体を起こすと、そのまま呆然と宙を見つめている。瀬戸は小さく息を吐き、呟いた。
「……来る」
――消灯時間を過ぎた室内は、静まり返っていた。
機械の小さな作動音と、空調の風の音だけが、規則正しく流れている。
そんな中、櫂はベッドの上で、天井を見つめていた。
……眠れない。
眠くないわけではないのだが、何故か意識だけが妙に冴えている。
背中越しに感じるマットレスの感触が気になって、櫂はゆっくり寝返りを打つ。
腕の中のウサギが、わずかに動いた。
それでも、やっぱり落ち着かない。眠れない。
仕方なく、もう一度寝返りを打つ。
布団の中で落ち着きどころを探すように、体を丸めるのだが、どうしても意識が沈まない。
櫂は小さく息を吐いた。
その時、ふと指先に違和感を感じた。
そこには、酸素の状態を測るための小さなセンサーが貼り付けられている。
装着前に満からきちんと説明を受けたし、了承もした。
それでも気になって、仕方がない。
――何なんだこれは。嫌だ。もう、外したい。
更に悪いことに、固定しているテープが、皮膚にぴったり張り付いているのだ。
指先の感覚に連鎖して、さっきまでは全然気にならなかったのだが、妙に意識に引っかかり始める。
櫂は辟易としながら、指を少しだけ動かした。
すると、貼り付けられたテープが皮膚を引っ張るので、眉をしかめた。
テープの端が、指先に触れている。
ほんのわずかな刺激なのに、それがやけに強く感じる。
櫂はもう一度指を動かした。
やっぱり、気になる――駄目だ、気になる。
これは過敏だ、と、櫂は一瞬で思い当たった。
よくある離脱症状の一つ。
感覚が、異常に過敏になる。
櫂は、また小さく息を吐いた。
――始まっちゃったかも。
そう思った瞬間、心臓が跳ねて鼓動が早まり始めた。
――だめだ。気にするな。
櫂は知っている。
ここで気にすると、余計に悪化する。
だから、目を閉じてゆっくり息を整えようとした。
……落ち着け。
落ち着け。
それでも指先の違和感はどんどん強くなっていくし、テープの感触は、相変わらず妙に気になり続ける。
否応なしに、意識がそこに引き寄せられてしまう。
櫂は、またもう一度寝返りを打った。
その拍子に、センサーのケーブルがわずかに突っ張った。刹那、刺すような痛みが指先に走り、
「……う」
と、思わず小さな声が漏れた。
するとすぐにカーテンの向こうで、布が擦れる音がした。そしてすぐに、そっとカーテンが開く。
「……櫂先生?」
それは控えていたナース、三上の静かな声だった。
――そうだ。じい、いない。
櫂は絶望感に苛まれながら、ぎゅっと目を閉じた。
三上に、すがる訳にはいかない。
――迷惑をかけてはいけない。
だから何とか呼吸を整え、身を固くして静止する。
数秒間、しかし櫂にとっては長過ぎる緊張と、沈黙。
「……失礼しました」
やがて、三上はそう告げて、カーテンを静かに閉じた。再び訪れた静けさの中、櫂は深く息を吐きながらそっと目を開く。
――指先の違和感は、酷くなるばかり。
胸の奥に、じわりと苛立ちが浮かんだ。
――だめだ、落ち着け。
櫂はすぐにそう自分に言い聞かせた。
苛立ち、焦燥、怒り。
これらが自律神経を刺激し発作の引き金となり、症状を悪化させてしまうことを、櫂は嫌というほど知っている。だからもう一度目を閉じ、ゆっくり深呼吸をした。
――落ち着け、落ち着け、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせながら、必死に呼吸を整える。胸を広げ、息をゆっくり吸って、吐く。
だが、一向に指先の違和感は消えない。
むしろ、意識すればするほど強くなる始末だ。
テープの端が皮膚に触れている。
たったそれだけの刺激なのに、どうしても気になって止まらない。櫂は小さく舌打ちをした。
――だめだ、気になる。耐えられない。
いっそ外してしまおうか。
でもそんなことをしたら、きっと三上がすぐき気がつく……迷惑がかかる。
そうだ、意識を別のところに向ければいい。
でも、どうしたら……?
櫂は布団の中で体を丸めながら、必死に考えた。
そして、ようやくとある一節を思い当たる。
――こういうときは、気を紛らわせると良い。
そうだ。
昼間読んだ本に、書いてあったじゃないか。
不安が強いときは、他のこと――例えば、楽しいことを考える。
そうだ、そうしよう。
櫂は、目を閉じたまま、懸命に記憶を辿った。
楽しいこと。何かあるだろうか――思い当たらない。
そうだ、本にちゃんと事例も書いてあった。
櫂は、必死に思い出そうとする。
旅行。
――行ったことがないな。
長時間の移動や慣れない場所は、体調を崩す可能性が高く、その場合対処しきれない可能性があるからと、許可されなかった。
スポーツ。
――やったことがない。
喘息の発作を誘発するので、一切許可されていない。
一人で庭の散歩をすることさえ禁じられている。
家族との食事。
――論外。
義務であり苦痛でしかない。
兄との食事はまだマシだが、それでも兄が満足する食事量が摂れるかどうか心配で、緊張してしまう。
楽しむだなんて、とても無理だ。
友達とのおしゃべり。
――櫂は、しばらく考えた。
……結弦くん?
真っ先に浮かんだ名前に、少し首を傾げる。
外科医の、佐々木 結弦。
研修医時代、各科を回るグループが同じだったことをきっかけに話をするようになった。その頃からずっと付き合いがある。今は同じ医局なこともあり、何かと顔を合わせることが多い。
――でも、結弦くんが、自分を友達だと思っているかはわからない。
互いがそうだと認識している状態でないと、友達関係としては成立していない気がする――だから。
――ともだち、いない……。
櫂は腕の中のウサギを抱き直した。
――うさちゃんじゃ、だめだよね。
そう思いながら頬を寄せ、ふと気づく。
ウサギが着ている白いワイシャツは、入院前夜に誉が着ていたシャツを切って作ってくれたものだ。
櫂は、それを指先でそっとなぞった。
柔らかい布の感触。誉に柔らかく抱かれるあの大好きな感覚を思い出す。そこにほんのわずかだけ誉の匂いが残っている気がして、自然と口元が緩んだ。
――誉。
櫂はそっと目を閉じてウサギを抱きしめた。
それだけで、胸の奥のざわざわが少しだけ静かになる。
――誉、会いたいな。
誉といるのは、楽しいとはちょっと違うけど、すごくホッとする。
自分が、自分らしくいられる気がする。
だから、ずっと一緒にいたいと思った。
だから、結婚したいって……。
その言葉が浮かんだ瞬間。
櫂の思考が、勝手に負の連想ゲームを始めてしまう。
――結婚。
……縁談、祝賀会。
祖父の命令、理事会。
向けられる、好奇の視線。値踏み。
また、かつて向けられた言葉の刃が、蘇る。
――如月家の次男は、おかしい。マトモじゃない。
――どうしてあんなのが次男なんだ。
――弟があんな役立たずで、若さまがお気の毒。
胸の奥が、急にざわついた。
呼吸が浅くなっていくのを自覚して、櫂は慌てて首を振った。
……だめ。
考えるな。
考えるな。
考えるな。
――だが、思考は止まらない。
もし失敗したら。
もし発作を起こしたら。
祝賀会の皆の前で、うまくやれなかったら。
また、失望される。
軽蔑される。
――要らないって、言われる。
「……っ」
胸がきゅっと縮む。
息が、うまく吸えない。
櫂は思わず布団の中で体を丸めた。
鼓動が早い。
呼吸がうまく続かなくなってきた。
頭の中で、思考だけが繰り返し、ぐるぐる回る。
「……っ」
とうとう喉の奥が詰まって、櫂は思わず頭を抱えた。そして、絶望する。
ーーああ、これ、だめだ。
発作が、くる。
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