49 / 54
3-18.
発作がくると悟った瞬間。
急激に呼吸が乱れ始めた。
吸えない。
吐けない。
――昔から、何も変わらない。
本当にこの身体が嫌になる。
「……っ」
無理やりにでも浅い呼吸を繰り返し、何とか発作に繋がる前にやり過ごそうとする。
落ち着け、落ち着け――まだ間に合う。
だが、その集中を欠かせるものがある。
指先に貼り付けられたままの小さなセンサー。
そして、それを固定しているテープ。
その感覚に、すべての意識が集まっていく。
――だめだ、気にするな。
櫂はそう自身に言い聞かせながら息を詰めた。
これ以上気にしても、悪くなるだけだと分かっているのに、どうしても離れない。
「……っ」
不意に指を動かしてしまった、その瞬間。
テープが皮膚を引いた。
指先から、ぴり、とした痛みが走る。
ほんの些細な刺激のはずなのに、まるで神経を直接なぞられたみたいに、体全体に鋭く響く。
「……い、っ」
――痛い。いやだ、痛い。我慢できない。
それから逃れたい一心で、もう一度指を動かした。
また、テープが引っ張られる。
――痛い、無理だ。こんなの、耐えられない
そう思った次の瞬間、櫂は反射的に指先のセンサーを掴んだ。
そしてそのまま、勢いよくそれを引き剥がす。
センサーと共に、テープが引きずられていく。
さっきよりもぴり、とした強い痛みが走った。
「い……っ」
あまりの痛みに櫂はそう声をもらす。
ともかく早くこれを取らなければ。
じゃないと、このまま腕が引きちぎられてしまう。
そんな妄想に囚われながら、勢いのままにケーブルごと振り払った。
機器がベッド脇にぶつかり、軽い音を立てる。
その瞬間、にわかに櫂は正気を取り戻した。
――やった。やってしまった。
急に、認知がはっきりする。
三上が、来る。
迷惑が、かかる。
「……っ」
そう思い当たった刹那、鼓動が早まった。
思う通りに息が吸えず、強い焦燥にかられる。
なんて言おう。
どうやってやり過ごせばいい。どうしたら――。
するとその時、恐れていた通り、カーテンの向こうから足音がした。
「……櫂先生?」
そして静かな声とともにカーテンが開き、三上が入ってくる。彼女はベッド脇で歩を止めて、まずは距離を保ったまま様子を見回す。
すぐにベッドの端っこで固まっている櫂を見つけて、静かに尋ねてきた。
「……どうされましたか」
櫂は息を乱しながら、やっとの思いで答える。
「……なんでもない」
三上は、そんな櫂の言葉を否定しなかった。
ただその視線をゆっくりと落として、即座に状況を把握する。
外れたセンサー。
ケーブル。
そして、空になった櫂の指先。
「……外れてしまいましたね」
それは、穏やかな声だった。
「大丈夫ですよ」
そう言いながら、少しずつ距離を詰めてくる。
「すぐに付け直しますね」
櫂に向かい、その手が伸びてきた。
その瞬間、櫂はそれが非常に恐ろしいもののように見えた。
――触れられる。
そう思った瞬間、さっきの痛みが脳裏に蘇った。即座に体が強張る。
「やだ……」
思わずそう、声が漏れた。
それに反応して、三上の手がぴたりと止まる。
「……失礼しました」
そして、その手が一瞬だけ引かれた。
しかし櫂がほっと息をついたのも束の間、またゆっくりと近づいてくる。
「少しだけ、触れますね」
その手が、櫂の指先に触れかけたその瞬間。
「やだ!」
とうとう櫂は、大声を出して拒絶それをした。
「落ち着いてください、大丈夫ですよ」
しかし三上は慣れた様子でそう言って、櫂のすぐ横に落ちていたセンサーをまず拾った。
テープを切る音が響く。
三上がセンサーを装着する準備をする姿を見つめながら、櫂はもう一度声をあげた。
「やだって言ってる……!」
「ええ、聞こえてます、大丈夫です。
すぐに着けますからね。怖くないですよ」
しかし三上は一切動じることなく、櫂の横に跪いてその手を取る。
そして手際よくテープを巻き始めるのだ。
「なんで……聞いてよ……」
カイの視線が揺れ、声が震えた。
「やめてよ……いたいの、やだ。やめて」
「わかりました。少し緩めますね」
それでも三上は処置をやめる素振りはなくそう言って、センサーを指先に挟んだ。
その瞬間走った、さっきと同じ鋭い痛み。
「やめろ、さわんな!!」
櫂はそう強く言い放ち、乱暴に手を振り払った。乾いた音がして、三上が弾かれる。
再び呼吸が乱れ始め、視界が揺れた。
「やだ……やだ……」
櫂はそう繰り返しながら頭を抱え、首を振る。
「いらない」
続いてぽつりとそうこぼすと、そのまま、はっきりと言い切った。
「もうやだ。おまえも、いらない」
その言葉に、三上の動きが一瞬止まった。
しかし、櫂にはもうその姿すら見えていない。
必死に何かを探すように視線を彷徨わせながら、
「……じい……」
と、震えた声で呟いた。
「じい……じいがいい」
次第にその声が大きくなっていく。
「じい、どこ。……じい!!!」
――その瞬間、内扉が勢いよく開いた。
「何の騒ぎだ?」
航がそう言いながら、焦った様子で入ってくる。
外れたセンサー。
床に落ちた機器。
取り乱している櫂。
真っ先に目に飛び込んできたそれらから、一瞬で状況を把握した航は、
「……すまない」
と、まずは短く三上に頭を下げた。
「ありがとう。怪我はないか?」
「はい。……院長、申し訳ありません」
「なら、良かった。
君が謝ることじゃない。後は、私が」
「……お願いします」
航は三上からセンサーを受け取ると、そのままベッドへ近づいた。
そして、
「ほら、手を出せ。つけてやる」
と、いつもの軽い調子で言う。
しかし櫂は震えながら、何か恐ろしいものを見るような顔でそれを見つめ、か細い声で返した。
「……やだ」
航はため息をつきながら、それを無視して櫂の手を勝手に掴み取った。
右の掌を上に向けさせて、慣れた手つきでセンサーを装着していく。
「兄さん……やめて……」
櫂がそう言いながら、首を振る。
「やだ、いやなの……」
「そうか、わかった。
終わったら、落ち着くまでぎゅっとしてやろうな」
「ちがう、それいやなの。
兄さん、カイのおはなし、きいて」
「ああ、聞いてるよ。大丈夫だ」
櫂は赤い目を大きく見開いたまま、ひくりと喉を鳴らした。そうしている間にも、航によって手際よくテープが巻かれていく。
全く有無を言わせぬ兄に絶望し、櫂は俯いた。
「じい」
そして、ポロポロと涙を零しながら呟く。
「じい、どこ……」
航の手が、一瞬止まった。わずかに顔を上げる。
「じい、たすけて」
「どうした、大丈夫だ。ほら、兄さんがいるだろ」
そう言って航がその頬に手を伸ばすが、櫂は首を振りながら強い拒絶を見せる。
「やだ!兄さん、やだ……!」
そしてぎゅっと布団を握りしめて、
「じい……じい……!」
と、再び瀬戸を呼びながら泣き出した。
しかし、いくら呼んでも瀬戸は現れない。
「じい、なんで」
次第にその声に、怒り込められていく。
「じい、なんでこないの。
カイが、よんでるのに……!」
そして、とうとうその感情が爆発し、叫んだ。
「じい!!」
――航は小さく息を吐いた。
それから一拍を置き、言葉を選びながら努めて淡々と告げる。
「瀬戸は、来ない」
その言葉に、櫂の動きがぴたりと止まった。
航は構わずに続ける。
「……もう帰しただろ」
――櫂の視線が揺れた。
「……じい……」
それは今にも消え入りそうな、か細い声だった。
「じい、なんで。
なんでカイをおいてかえったの……」
航は眉をひそめ、
「お前がそう命じたんだろ」
そう当然のことのように言った。
「じいも……」
櫂の表情が、みるみるうちに歪んでいく。
「カイのこと、嫌いになっちゃったの……?」
「……違う。なんでそうなるんだ」
――思考が飛躍し始めた、まずいな。
それが症状とわかりつつも、航は敢えてそう毅然と返した。櫂はそれには答えずに首を振りながら、
「じゃあ、なんでこないの」
と、声を震わせながら呟く。
「じい……なんで……」
そして、次の瞬間。
「うあ……っ」
とうとう泣き崩れ、蹲る。
まるで子どもの地団駄だ。
マットレスを叩きながら泣き叫んで、もう手が付けられない。
「じい……じい……!」
それを目の当たりにした航は、もはやどうしたらよいかわからない。
頭を掻いて、小さくため息をついたその時、にわかに背後から気配を感じた。満だった。
彼は静かに一歩前に出て、手にしていた小ぶりの医療ポーチを静かに開く。
「限界です。ここで切りましょう」
するとその瞬間。
コン、と控えめなノックの音が響く。
間を置かず、扉がスッと開かれた。
「失礼いたします」
そして響いた、低く落ち着いた声。
刹那、あたりの空気が確かに変わった。
瀬戸は室内を一瞥し、櫂のもとへ一直線に迷いなく歩み寄る。
そしてベッドの脇で足を止めると、そのまま静かに跪いた。
「坊っちゃま。爺は、こちらに」
それはすっと耳に馴染む、低く安定した声だった。
櫂が、勢いよく顔を上げる。
涙で滲んだ視界の向こうに、見慣れたその姿を捉えた途端、
「……じい」
と、かすれた声が漏れた。
しかしすぐに、
「じい!なんで、いなかったの!!」
と、張り裂けるような声で叫ぶ。
そして震える手で瀬戸の袖を掴んで、
「おれ、よんだのに。いっぱい、よんだのに!」
と、怒りと恐怖がまぜこぜになったまま、必死に訴えた。
「なんで、そばにいてくれなかったの……!」
――瀬戸は、その手を振りほどくことはしなかった。
主の理不尽な怒りをただ静かに受け止めながら、袖を掴む櫂の手をそっと包み込む。
「申し訳ございません」
それを聞いた櫂は、すぐにまた声を張り上げた。
「じいは、オレのこときらいになったんだろ……!」
そして瀬戸の手を振りほどこうと、暴れ始める。
しかしいくらそうしても、瀬戸は決してその手を離すことをしなかった。
「じいも、オレのこと、いらないって思ったんだろ!」
対し瀬戸は、一切の間を置くことなく、それを明確に否定した。
「いいえ。爺は、いつでも坊っちゃまのことをお慕いしておりますよ」
その言葉を受けて、櫂の動きがぴたりと止まる。
「……じゃあ……なんで……」
次に零れたのは、今にも消え入りそうな弱々しい声だった。そして、まるで糸が切れた人形のように、そのまま瀬戸へと縋りつく。
「じい……こわい……」
櫂はそう言って泣きながら、瀬戸の胸元に顔を押しつけた。
「やだ……いやだ……」
瀬戸はそんな櫂を引き寄せ、そっと抱きしめ、
「――ええ」
と、穏やかに応じる。
「お一人で、大変怖うございましたね」
――その一言で。
櫂の中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。
「……う、ぁ……」
すぐさま、嗚咽が漏れ始める。
「ひとりで、だいじょぶって、思ったんだ」
そうして、しゃくりあげながら必死に言葉を繋ぐ。
「……ほんとに、思ったんだよ」
「ええ」
「だって、じい、オレのせいで大変だし、つかれてるし。じいになんかあったら、オレ」
「ええ」
瀬戸はただ、櫂の背を撫でながら静かに頷いていた。
みるみるうちに落ち着いていく櫂の様子に、航は思わず満の方を見た。彼もまた、ポーチに手をかけたまま瀬戸の手腕に見入っている。
――これは、瀬戸じゃなければ、無理だ。
到底、そう思わずにはいられなかった。
「よく頑張られましたね」
櫂の指先が、ぎゅっと瀬戸の服を掴んだ。
瀬戸はそれに応えるように、丸まった櫂の背をもう一度撫でながら続ける。
「坊っちゃまのお心遣いのおかげで、爺はよく休めました。……どうかご安心ください。爺は、これからもずっと坊っちゃまのお側におります」
ついに、櫂の身体から完全に力が抜けた。
「うあぁ……っ」
体重を預けるようにして瀬戸に寄りかかり、大きな声を上げて泣く。
瀬戸はそのまま静かに櫂を抱き留めた。
そして、いつもと変わらぬ穏やかな声で締め括る。
「坊っちゃまは、爺の誇りでございます」
ともだちにシェアしよう!

