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3-20.
生まれつき体も心も弱い弟は、一人で生きられるような子ではなかった。
だから、長男である俺がちゃんと考えて導いてやらなければいけない。
この面倒な家の制約の中で、どう櫂を守るか。
どうやって、やりたいことをやらせるか。
この家の、どこに配置してやるのが最適か。
誉の言葉が、脳裏によみがえる。
――君は、端からやり方を間違えてるんだよ。
そうだな、確かにそうだ。
俺は、取り違えていた。
櫂を、どう生かすか。
――違う。
櫂が、どう生きるかだ。
航は、小さく息を吐く。
肩の奥に溜まっていた力が、ゆっくりとほどけていくのが分かった。
――また、こいつに気付かされた。
そして、顔を上げまっすぐに誉を見ると、一度だけ静かに頷いた。
誉は何も言わない。
ただほんのわずかだけ口元を緩め、頷き返した。
そのやり取りを見ていた満が、静かに息をついた。
「……まったく」
眼鏡を押し上げながら、小さく呟く。
「最初から協力する気満々のくせに。
あれこれと難癖をつけて……意地が悪いですね」
その言葉に、誉がくすりと笑う。
「ふふ」
そして、小さく軽く肩をすくめ悪びれもなく言うのだ。
「櫂を泣かせた仕返し」
「んなっ」
航の声が、思わず裏返る。
――そして。
「泣かせてねえし、勝手に泣いたんだし」
ボソリとそう言って、視線を反らす。
「ふーん」
誉は腕を組み直し、笑顔のままわずかに首を傾げ、
「じゃぁ、帰ろうかな」
すっと腰を浮かす。
その動きを視界の端で捉えた瞬間、
「……わかった。俺が悪かったってば」
間髪入れずに、航が言った。
「はや」
満が肩を竦め、誉がくすりと笑う。
「分かれば宜しい」
しかし、誉は座らない。
次に内扉の方をじっと見ると、一言。
「……とりあえず話しをする前に、カイの寝顔を拝んで来る」
「駄目です」
だが、ピシャリと満が切り捨てた。
「駄目だな」
航もすぐにそう重ねる。
「なんでだよ」
「カメラがついてるんですよ」
満は淡々と言いながら、応接セットのモニターの電源を入れてみせた。
「理事会直通の監視カメラです」
「……」
その瞬間、誉の顔からすっと表情が抜けた。
「おい。
なんかまためっちゃムカついてるぞ、こいつ」
航が小声で耳打ちをすると、満はじっと誉を観察する。
「……大丈夫です。
恐らく『俺の可愛い櫂のライブ映像配信が俺に来てないのが許せない』とかその程度だと思いますよ」
そして淡々と分析結果を述べた、そのすぐ後に誉がいじけた声で続ける。
「それずるい、俺も見たい」
「ほら」
「さすがだな、満」
誉は、何も言わずに画面を見つめ直した。
口元が緩むのを隠そうともせず、ただただ嬉しそうに、愛おしそうに画面の中の櫂を見つめている
婚姻届の一件。
あれはあくまで、櫂の状態を考慮した上での方便だったと、理事会には報告している。……だが。
――これは、本物だな。
これを愛と呼ばずして、何と呼ぶのか。
航には、他に当てはまる言葉が思い浮かばない。
「……で?」
不意に、誉が口を開く。
その視線はまだ、画面に向けられたままだ。
「話、するんでしょ」
「ああ」
「――その前に」
そこでようやく誉が視線を画面から外して、大真面目な顔で航を見る。
「甘いものくれない?」
がく、と思わず椅子から崩れ落ちそうになるのを堪え、航は呆れた声で返す。
「……さっきから勝手にずいぶん食べてるだろ」
「足りないよ〜。
だって手術終わって速攻呼び出されたからさ。
俺、夕飯もまだなんだよ」
満が、ため息を一つつきながら返す。
「いつもの糖分不足……ですか」
「そう。もうフラッフラ。頭回んない。
本日の手術三件分の、高級な糖分を要求させてもらう」
「三件!ずいぶん重なったな」
「そうだよ、もう大変なんだよ〜。
いきなり主戦力取られちゃってるからさ。
手術計画も直前まで上がってこないし……」
「……う、それはなんかもう、すまん……」
「ほんとだよ。
ともかく人手不足なんだよ。頼むよ」
航は何も言えずに、バツが悪そうに頭をかきながら、桐箱をひとつ押し出した。
「ほら」
「わ、無駄に金箔乗ってる」
「……いいから黙ってさっさと食えよ」
「では遠慮なく。いただきます」
誉は手を合わせてから、まるで宝石のように美しいチョコレートをひとつ摘んで口に入れる。
そして次の瞬間、わずかに眉を上げた。
「……なにこれ、美味しい」
隙を見て、満が皿と新しいコーヒーを置いてやったが意に返さず、箱から直接つまんでは口に放り込んでいく。
もうひとつ。
さらに、もうひとつ。
――もう止まらない。
あっという間に一箱を食べ終えると、そのまま自然に流れるような所作で航の皿にも手を伸ばす。
「おい、お行儀が悪いぞ」
「細かいこと言わない」
「細かくない」
「ちなみにそれ。
お前が大嫌いな理事会からの見舞いだからな」
その言葉に、誉の手が一瞬止まる。
「……」
そのままゆっくりチョコを見下ろした。
――が、少しの間の後、
「ま、甘いものに罪はないから」
あっけらかんとそう言って、最後の一つを口に放り込んだ。
そして誉は、最指先に残ったわずかな欠片を親指で拭い、そのまま舐め取った。
それからコーヒーを一口だけ飲んで、目を伏せる。
「……」
一瞬の沈黙を挟み、椅子に深く座り直す。
背もたれに体を預け、足を組むと視線を上げる。
まっすぐ航と満の瞳を捉えた刹那、空気が変わる。
「――でさ。
櫂に縁談を自分で断らせる、だっけ?
――簡単に言ってくれるけどね」
指先が、言葉に合わせて組んだ上の膝を軽く叩く。
「ただ断ればいいってわけじゃない……。
相手の立場、関係性、今後の利害。全部を踏まえ、一瞬で角を立てずに処理する必要がある」
そして一拍を置き、声を一段低くして言う。
「しかも、一人や二人じゃない」
誉は、眉を寄せて目を細める。
「連続で来るんだよね。
……今のあの子に、それをやらせる?」
航が頷くのを確認すると、誉はほんのわずかだけその口の端を歪ませた。
「――はっきり言って、無謀だね」
航は、その強い視線から逃れるように目を伏せた。
そして肩を竦めながら言う。
「……いきなり本題に入ってきたな」
満もまた、小さく息をついた。
「まったく。相変わらずマイペースというか、自分勝手というか」
「糖分が補給されたからね。頭が動き始めたのさ」
誉は人差し指を立ててそう言い、不敵に笑んだ。
それから、すっとその指を下げると同時に、表情からわずかに色が抜ける。
「……でもさ」
続けて、ぽつりと零す。
その黒い瞳が、わずかに左側へと逸れる。
そして、右手が顎へと伸びた。親指の先で、右唇下の小さな黒子を軽くなぞるように触れる。
「そんな勝算の低い作戦……らしくない」
その視線が、航に戻った。
「わざわざこんな無謀なこと、選ぶ?」
「だから、櫂が自分でやりたいって……」
「違う、浅はかな君はさて置きとして」
「お前、今ナチュラルにディスったろ」
航が即座に不貞腐れるが、誉は意に返さず続ける。
「カイがそんな簡単に、“やりたい”なんて言う?」
そこまで言って一拍、誉は考える。
首を少しだけ傾げる一方で、その口は止まらない 。
「……いや、ないな。
あの子は、誰よりも自分の特性を理解してる」
「……出た、誉の独り言サマリー芸」
「それ、黙ってやってほしいですよね」
そんな二人を置いてけぼりにして、誉は目を閉じた。眉間の真ん中を指先で軽くなぞりながら、思考を巡らせていく。
「カイは基本、逃げ思考。――だからこそ。
仮に強引な兄にそそのかされたとしても、わざわざこんな負け戦を選ぶなんて、普通は考えられな――」
「お前、言い方」
「――あ」
誉は、その結論に思い当たったようだった。
顎に触れていた指先で唇を覆い、思わずテーブルに手をつき上身を乗り出す。
みるみるうちに緩んでいく口元。赤らむ頬。
「そっか……」
誉は、小さく呟いた。
「そっかぁ……。
カイ……本気で、俺のために……」
そして勢いのまま立ち上がり、迷いなく内扉に向かいかけたので、
「おい、待て、ちょっと待て、おい」
「誉、駄目ですよー、座ってください」
と、航が慌てて呼び止め、満が引っ張り止める。
「いや無理……もう無理。
カイを抱きしめないともう無理」
「何気に要求が大きくなりましたね」
「わかった、わかったよ。
終わったら許すから、ともかく落ち着け」
「……言ったね?」
「言った、言った。だから早く座れ」
「抱きしめるよ、俺は」
「……起こすなよ」
「……」
「おい、横向くな」
誉はわざとらしくため息をついた後、満に促されるままソファーに腰を下ろし直す。
そして絶妙なタイミングで満により追加で皿に出されたクッキーをつまんだ。
「よし。じゃあ、さっさと話を終わらせよう」
「軽いな……」
「まあ、そんなに難しい話じゃないからね」
まるで何事もなかったかのように皿から手を離し、顎を撫で始める。
「……さっきと言ってることが180度違うぞ。
無謀だと言ってただろうが
つーかマジで食うの早いな、お前は」
「うん、無謀だよね。だって君、結局のところ、根性論で何とかしようとしてるじゃない」
「んなっ」
「そうでしょ。じゃなきゃ、仕込みたいって言葉は出てこないんだよ。犬じゃないんだからさ。
大体、そんなつけ焼き刃の一発芸でうまくいくわけないでしょ。――でも」
そして誉は、顎から手を離した。
「ちゃんとカイを見て考えれば、無理な話じゃない」
そこまで言って、にんまりと不敵に微笑む。
「むしろ、簡単だよ」
航が眉をひそめる。
「……は?どういうことだよ」
「君はね、カイを見くびり過ぎてるんだよ。
あの子はちゃんと大人で、何だってできるんだ。」
誉は肩を竦めながら返す。
「ただ……ものすごく臆病なだけ」
「自己肯定感が異常に低いのは認めるが……」
そこで、満が静かに口を挟んだ。
「――だからこそ。
肯定されれば、信じられないくらい跳ねる、ということですね」
互いの視線が交わると、誉は目を細めて返す。
それからタンとテーブルを叩くと、その身を乗り出し、航に向かって指を3本立てて見せつけた。
「カイに頑張ってもらう手順は、三つ」
そして神妙な顔で見上げてくる航の顔を見下ろしながら、にこっと微笑んだ。
「――知りたい?」
航はその指先を見つめながら、静かに頷く。
誉もまた小さく頷き返し、何事もなかったかのように航の皿からクッキーをつまみ取った。
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