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4-5.

誉に声をかけてきたのは、三人の若い女性だった。   先ほど櫂のもとへ挨拶に来ていた令嬢たちよりも、少しだけ気安い雰囲気がある。 年も近く、恐らく友人同士なのだろう。淡い笑みを浮かべながら、無邪気に誉へと歩を詰めた。 「先ほど、山崎社長とお話しされていましたよね」 「あの山崎社長がお認めになるなんて! 卯月先生も、とても優秀でらっしゃるのですね」 矢継ぎ早に投げかけられる声に、誉は少しも動揺しなかった。 令嬢たちに向き直ると、まずは丁寧に一礼をし、 「はじめまして、お話できて光栄です。 優秀だなんて……僕はただの外科医ですから」 と、柔らかく笑って返す。  その謙遜さえ、令嬢たちには好ましく映ったらしい。 「まあ、ご謙遜なさって」 「卯月先生は、どちらのご縁で北丘へいらしたのですか?」 興味本位の質問が続く。 捉え方によっては失礼な内容に櫂は眉を寄せるが、誉は全く態度を崩さない。 「元は記念病院で勤務していました。 フェローから帰ったところ、親しい友人がこちらに移っておりましたので」 そして、さりげなく航の方へと視線を移す。 すると少し離れたところで別の対応をしていた航がそれに気づいた。 人懐っこく笑って軽く左手を挙げてみせる。 その様子を見た令嬢たちの目の色が、一気に変わったのを櫂は見逃さない。   その嫌な感じが、どうしても見過ごせなかった。 一歩前に出て、誉の横に並ぶ。 本当は袖を掴みたかった。 けれど、今は祝賀会の最中だ。 そんなことをしてはいけない。   だから代わりに、ポケットの中に隠し持っていたキーケースをぎゅっと握った。   令嬢たちは、それを特に気に留めた様子もなく、興味を隠しきれない顔で誉へ問いかける。   「もしかして、ご友人って……院長先生ですか?」 「ええ」 「まあ、院長先生と!」 令嬢たちの視線が、更に華やいだ。 そして、そのうちの一人がふと気づいたように、櫂へ目を向ける。 「では、もしかして櫂先生とも」 誉が答えるより早く、櫂が口を開いた。 「……誉とは、ずっと一緒です」 誉は一瞬だけ目を丸くした後、すぐに柔らかく笑った。 「ふふ、そうだね。ずっと一緒だね」 その言い方が、あまりにもいつもの誉だったから。 櫂は少しだけ安心して、ポケットの中のキーケースを握る力を緩め頷いた。   「まあ……素敵なご縁ですね」   令嬢の一人が、うっとりとしたようにそう言った。 如月の跡取りと学友で、その上次男とも親しい。 しかも堅物で有名な、山崎製薬の社長からも名指しで礼を述べられるほどの腕を持つ外科医。 さらにこの若さで、副部長だ。 親族外の人間で、如月の中枢にここまで切り込める人間はそういない。 家柄は多少ネックだが、逆に持たざる者であるならば、婿入への抵抗も低い。 ーーつまり、誉は令嬢によってはかなりの穴場物件になり得るのだ。 世間知らずの櫂には、目の前の令嬢たちが何を計算しているのかまでは分からない。 けれども、その奥にある嫌な熱を、本能的に感じ取っていた。   早く誉をこの場から助け出したい。 そう思って、誉の袖口に手が伸びかけたその時、一人の令嬢が更に一歩距離を詰めてきた。 そして、無邪気に核心を問う。 「先生は、ご結婚されてらっしゃるんですか?」 「あなた、何言ってるの。先生ほどの方ですもの。 周りの方が、放っておくはずがないでしょう?」 令嬢の一人が、白々しい様子で続ける。 その隣の二人もまた、同じように目を輝かせて誉を見ていた。 ここで誉は、初めて少しだけ困ったように笑った。 そして、少しの間を置いて、バツが悪そうに返す。 「いえ、独身ですよ」 その答えに、令嬢たちの表情が更に明るくなった。   「まあ」 「でしたら、今度ぜひお食事でも」 「私たち、卯月先生のことも、北丘のことも、もっと伺いたいですわ」 「ええと……」 誉はその勢いに圧倒されたのか、曖昧に笑ったまま、右手を上げた。 そしてそのまま、顎のあたりに軽く指先を添える。 その何気ない仕草で、薬指の指輪が初めて皆の前に晒された。 すぐに気づいた一人が、はっとした顔で言う。 「あら……、指輪をなさってるわ」 「もう、良い方がいらっしゃるのかしら」 そんな令嬢たちの言葉につられて、櫂も思わず誉の手元を見た。 確かに、右手の薬指に指輪をしている。 銀色で太めのそれは、佐々木がいつも着用していたものに似ている。 以前、彼はそれを「彼女とのペアリング。右手薬指につけるのは、恋人の証だ」と、言っていた。 だが、これまで櫂は、誉が指輪をつけているところなんて、見たことない。 もちろん、誉と自分の間にも、ペアリングなんて存在したこともない。 その胸の奥が、少しずつざわつき始める。 どうして。 何のために。  けれど誉は、そんな櫂の動揺には気づかないふりをして、令嬢たちへ柔らかく笑った。 「ええ」 誉は、あっさりと頷いた。 「ですから、正しくは、今はまだ独身、ですね」 令嬢たちが小さく息を呑む。 「まあ、そうでしたの」 「それは……失礼いたしました」 それでも、すぐには退かない者もいた。 「でも、お食事くらい、良いではないですか」 令嬢の一人が、悪びれもせずそう言った。  「卯月先生のお話、もっと伺ってみたいですわ」 さすがの誉も、少しだけ困ったような顔で苦笑いを浮かべながら、迷いなく返す。 「お気持ちはありがたく存じます。 ですが僕は、他の方には興味がないんですよ」 穏やかではあったが、ハッキリとしたその拒絶に、令嬢たちが一瞬、言葉を失った。 櫂もまた、思わず誉を見上げる。 するとその時、近くを通り抜けようとした給仕の肩が、別の来賓とぶつかりかける。 手元の盆がわずかに傾き、グラスの中身が揺れた。 誉は令嬢たちから視線を外さないまま、即座にすっと手を伸ばした。 そして、当然のように櫂の肩を抱き、自分の方へ引き寄せる。 その次の瞬間には、櫂の身体が誉の胸元へふわりと収まった。 「……っ」 こぼれた水滴は、櫂の立っていた場所のすぐ脇に落ちる。給仕が慌てて頭を下げた。 「失礼いたしました」 「いいえ。お気をつけて」 誉はそれにも穏やかに返すが、その間も櫂の肩にその手は置いたままだ。 言葉を失う令嬢たちを尻目に、誉は櫂を見下ろしていつものように微笑む。 「大丈夫だった?」 「……うん」 櫂は何とか頷いたが、正直、それどころではない。胸が、張り裂けそうなほど高鳴っている。  その指輪をした右手が、間近で見えた。 櫂は思わず視線を反らし、痛むほど鼓動する左胸を押さえた。 一方、誉は何事もなかったように櫂を立たせ直すと、改めて令嬢たちへ向き直った。 そして、優しく諭すように言う。 「あまり無理強いをするものではありませんよ。 ……立場上、断りにくい方もいますからね」 その言葉は、まっすぐ彼女らに届いたようだった。 彼女らは顔を見合わせると、丁寧に頭を下げる。 「……失礼いたしました」 「私たち、少し行き過ぎてしまった様ですわ」 「いえ、こちらこそ。 皆さんとお話できて、光栄でしたよ」 そして誉は最後にそう言って、綺麗に一礼した。 ――令嬢たちが、素直に離れていく。 その背を見送る誉の傍ら、櫂は浮かない顔で考え込んでいた。   やっぱり、指輪が気になって仕方がない。 誉のことだ。絶対に何か意味がある。 ――でも。 考えるより先に、胸が熱くなる。 その答えを知りたいような、怖いような複雑な気持ちで、櫂は誉を見上げた。 誉はそんな櫂の様子に目を細めると、指輪をした指先で、櫂の頬に軽く触れた。 そしてそのまま、人差し指を自分の口元へ当てた。 それを見た瞬間、佐々木が以前語っていたペアリングの話が、櫂の脳裏をよぎった。 もしかして。 これは、そういう意味なのだろうか。 そう思った途端、櫂の顔が一気に熱くなった。 するとそのタイミングで、また声をかけられる。 「櫂先生」 振り返ると、父親に連れられた、青のドレスを纏った女性が俯きがちに立っていた。 これまでの令嬢とは異なり、その表情はどこか暗い。 ただ、父親だけが、にこやかに娘の背を押した。 「こちら、娘の怜奈でございます。昨年まで海外の小児専門病院で研修をしておりましてな。 小児てんかんの研究にも少し携わっていたのです」 その言葉に、櫂の目がわずかに動いた。 「小児てんかん」 櫂は、思わず復唱をする。 令嬢――怜奈は、少し驚いたように櫂を見た。 それから、小さく頷いて言葉を繋げる。 「はい。主に薬剤抵抗性の症例についてです。 ……といっても、まだまだ勉強中ですが」 「薬剤抵抗性……外科適応の評価も?」 「少しだけ。現地では多職種カンファに参加させていただいていました」 その瞬間、櫂の表情が明らかに変わった。 医師としての純粋な興味がその心に沸き立つ。   「いいな……」   小さく漏れた声に、航が横でわずかに眉を上げた。 誉は半歩後ろで、面白そうに目を細めた。   「私は、小児はまだ経験が薄くて……。 差し支えのない範囲で、是非ご知見をご教示いただきたいです」 「でしたら、少し資料をお渡しできます。 ……私が見てきた範囲でよければ」 「本当ですか!」 櫂は身を乗り出しかけ、すぐにはっとして姿勢を戻した。 「……失礼しました、つい」 「いいえ」 そこで怜奈が、初めて少し笑った。 そして、ようやくその肩の力を抜き、にこやかに会話を続ける。   「私も、櫂先生とはこういったお話がしたかったです。正直、少し困っていたので……嬉しいです」 その言葉に、櫂は一瞬だけ目を丸くする。 それから、少しだけ口元を緩めた。 「私もです」 二人の様子を伺っていた怜奈の父親が、嬉しそうに身を乗り出す。   「いやあ、これはよいご縁ですな。 櫂先生、もしよろしければ、今度ゆっくり食事でもしながら――」 「食事」 そのひと言に、櫂は思わず眉を寄せた。 そして、父親を半ば睨むようにして言う。 「論文の読み合わせと食事を一緒に? 正気ですか?」 「……は」 「そもそも、読み合わせや議論は、集中できる環境で行うべきです。 食事と一緒に気を散らして行うなど、研究者である怜奈さまへの冒涜です」 そして珍しいほど早口で、更にあまりにも真顔で言い切るので、周囲が一瞬静まった。 怜奈が、堪えきれずに小さく吹き出す。  「確かに、その通りですね」 「はい」 櫂は大真面目に頷くと、内ポケットから名刺ケースを取り出す。そして、 「もしご迷惑でなければ、お名刺を交換させていただけませんか。小児てんかんについて、ぜひ一度ゆっくり議論したいです」 そう言いながら怜奈に向かって丁寧に自身の名刺を差し出す。 怜奈はもう、完全に肩の力が抜けていた。 父親の思惑をすっかり置き去りにして、鞄から名刺入れを取り出す。 「こちらこそ。 私も、櫂先生のご知見を賜りたく存じます」 「ありがとうございます」 櫂は両手で名刺を大切に受け取ると、本当に嬉しそうに微笑んだ。   「兄の専門が小児科なので、きっと喜びます!」   隣で航が、やれやれと言った様子で額を抑えてため息をつく。   「では、後日メールいたします!」 「はい。楽しみにしています」 「お互い、医師として頑張りましょう」 すると櫂は、ごく自然に右手を差し出した。 怜奈は一瞬驚いたような顔をした後、丁寧に応じ、 「はい」 と、少しだけ頬を赤らめながら頷いた。 櫂も嬉しそうに力強く頷き、その手を握る。 「頑張ります」   怜奈とその父親が離れていく。 父親の方はまだ少し名残惜しそうにしていたが、怜奈本人は最初とは打ってかわり、晴れやかな顔をしていた。 櫂は受け取った名刺を見下ろし、ぱっと航を見上げる。そして、今日一番と言っていいほどの笑顔で言うのだ。 「よいご縁が結べました! 小児てんかんの知見は、絶対役に立ちます!」 「……それは助かる、だがな……」 航は短く返しながら、深いため息をついた。 ――いや、悪くはない。 決して悪くはないが、そうじゃない。 「学会の親睦会じゃねーんだからさ……」 「いいんじゃない?カイらしくて」 誉は頭を抱える航にそう言うと、櫂に向き直る。 そして少しだけ屈むとニコッと笑う。 「良かったね、カイ」 「うん!」 櫂は誉にキラキラの瞳を向けながら元気よく頷くと、名刺ケースを大切にしまいこんだ。  

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