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4-6.

その時、歓談の波がにわかに途切れた。   櫂は名刺ケースをしまった胸ポケットに手を当てながら、嬉しそうにしている。 「よかった。小児てんかん、絶対役に立つ」 「お前な……」   航は呆れたように言いかけ、そこでふと誉の右手に目を留めた。 実は、さっきから気になっていたのだ。 右手の薬指に、わざとらしくはめられた銀の指輪。 航はじとりと目を細める。 「……誉」 「ん?」 誉は、何でもない顔で振り向いた。 「お前、それ何だよ」 「それ?」 「指輪だよ。普段してないだろ」 その言葉に、櫂がぴくりと反応した。 誉は自分の右手を見下ろし、ああ、と笑う。 「これ?あー、気づいちゃった?」 「は?」 「スマートリング。 最新型だよ、いいでしょ。つい買っちゃった」 「……」 「あれ?知らない? リアタイでバイタルが取れて⋯⋯」  「いや、そこは知ってるわ」 呆れ半分に、航は声を一段低くして言う。 「俺が聞いてるのは、何でそれを右手の薬指につけてるんだって話だ」 「あぁ」 誉は、指で顎を触りながら、わざとらしく考える素振りをした。 「中指のつもりで買ったんだけど。 どうやら、サイズをミスっちゃったみたいでさ」 「……絶対わざとだろ」 「まさか」 訝しげに眉を寄せる航とは対照的に、誉はにこにこと笑っている。 その横で、櫂はずっと誉の右手を見つめていた。 ――右手薬指の指輪は、恋人のしるし。 櫂が、誉の手元から目を離せぬまま、ぽつりと言う。 「……オレも、欲しい」 その言葉に、航と誉が同時に櫂を見た。 「お前、スマートリングが欲しいのか? まあ、確かにお前の場合、常時バイタルが取れるなら確かに便利だが――」 「なにそれ、ちがう。そんなのいらない」 櫂はすぐに首を振った。 それから誉の手を取って、指をさす。 「これが、欲しい」 「カイ」 誉の声が、少しだけ甘くなる。 櫂は一度だけ唇を結んで、それから小さく続けた。 「誉とおそろいの、オレも欲しい」 誉は、ほんの一瞬だけ驚いたような顔をした。 一方、航はそれを見て、心中で呟く。 ――そっちの方向で、刺さったか。 というか、指輪の場所と意味……知ってたんだな。 すると、誉がより一層優しく微笑んで、 「もちろん、いいよ」 とだけ返すと、櫂がパッと顔を明るくしながらその顔を見上げる。   「ほんと?」 「うん、でも……」 ゆっくりと頷き、櫂の小さな左手をそっと包むように取る。それから、薬指のあたりをツンツンとつつきながら、そっと囁いた。 「ここに、もっといいやつを、ね」 それを見て、櫂はぱちぱちと瞬きだけをする。   「おい、やめろ。ここをどこだと思ってるんだ」 慌てた航が、すかさず間に割って入ってきた。 その拍子に、櫂の視界へ航の左手が入る。 薬指には、控えめなプラチナの指輪がある。 ――結婚指輪。 そこでようやく誉の言葉の意味に気づいて、櫂の顔が一気に赤くなった。 「……ここ」 それから、兄の後ろでそう呟き、自分の左手を胸元へ引き寄せた。 誉は、そんな櫂ににこりと笑って返す。   「うん」 「……」 「おそろいの、作りに行こうね」 櫂は、もう何も言えなかった。 それは、結婚した人がつけるものだ。 誉と自分が、おそろいでそれをつける。 航が低く呻く。 「今、ここでその話は本当にやめろ」 「だって、結婚指輪がスマートリングってわけにはいかないじゃないか」 「違う、問題はそこじゃない」 「カイが欲しいって言ったんだよ」 「だから、場所を選べって言ってるんだ」 櫂は二人のやり取りを聞きながら、そっと自分の左手の薬指に触れた。   誉と同じもの。 誉と、結婚した印。 頭の中で何度も繰り返すと、胸の奥がじわじわと熱くなる。   嬉しい。 照れくさい。   でも、それ以上に。 誉とおそろいなのが、すごくいい。   「……誉」 「うん」 「オレ、頑張る」 唐突な決意表明に、誉は目を大きくし瞬きをした。   「うん?」 「ちゃんと断るから、見てて」 そして櫂は前を向いた。 その赤い瞳に、決意が宿る。 「ぜったい、欲しいもん」 「――動機が不純すぎるだろ」 「大事」 眉を寄せる航に対し、櫂は真顔で言った。 「すごく大事」   誉は堪えきれず、ふっと笑った。 「うん。すごく大事な動機だね」 それから、櫂の肩に軽く触れる。   「じゃあ、頑張ろうか」 「うん」   櫂は頷く。 その顔には、先ほどまでとは全く違う、やる気に満ちたものだった。   航はそれを見て、更にため息を深くする。 ――嫌な予感しかしない。   「お前な、頼むから変な方向に覚醒するなよ」 「大丈夫だよ、航」 誉はにこにこと笑う。 「カイが向いてる方向が、正しいんだから」 「その方向を決めてるのは、お前だろ」 「カイだよ」 「よく言う」   櫂は二人のやり取りを聞きながら、もう一度、そっと左手の薬指に触れた。 誉と同じリングをつける未来を思った瞬間、目の前が少しだけ明るくなった気がした。   そしてその時、また別の声がかかった。 「櫂さま」 櫂は、一度だけ目を伏せた。 それから、すっと顔を上げる。 「はい」 その声は静かだったが、先ほどのものとは少し違う。決意をにじませた、強い声だ。 声をかけてきたのは、母親に付き添われた令嬢だった。櫂は丁寧に挨拶を返し、穏やかに微笑むと、準備していた言葉をスラスラと紡ぎ出した。 「……急に仕上がったな」 航はそれを聞きながら、低く呟いた。 隣の誉が、楽しそうに笑う。 「だね」 「お前さ……。 こうなるの分かってて、指輪を仕込んできたな」 「まさか」 「嘘つけ」 一方で、誉の視線は櫂から全くぶれない。 見つめるその目があまりにも甘くて、航はそれ以上追及する気を失った。 櫂は、まるで一本芯が通ったように背筋を伸ばし、その後の対応も卒なくこなしていった。 相手の名前を呼び、話を聞き、相手の持つものをきちんと褒める。 その上で、如月に縛られるよりもその人自身の場所で力を発揮するべきだと、柔らかく背中を押す。 断られているはずなのに、令嬢たちは皆一様に納得した様子で、どこか満足げに離れていった。   その様子を、少し離れた場所から見ている者がいた。 如月家当主である。 当主はしばらく無言のまま、櫂の立ち振る舞いを眺めていた。やがて、その隣に控えていた本院院長――兄弟の父親が何かを言おうと口を開く。 だが、当主はそれを聞くことなく静かに歩き出す。 最初に気がついたのは、誉だった。 即座にすっと一歩退き、姿勢を正して頭を下げる。 次に航が気づき、わずかに目を伏せた。 一番遅れて、櫂もまた振り返り、二人に倣う。 「お祖父さま」 航が呼ぶと、当主は小さく頷いた。 それから、意外にも真っ先に誉へと視線を向ける。 「……お前か」 その一言に、誉は穏やかに頭を下げた。 「お会いできて光栄です。 北丘総合病院、脳神経外科副部長の卯月誉です」 当主は、誉をしばらく見つめた。 穏やかな青年に見える。 物腰は柔らかく、場慣れもしているようだ。 そして、優しげなその顔つきと声は、どこか瀬戸に通じるものがある――櫂が懐くのも、頷ける。 やがて、当主はゆっくりと口を開いた。 「此度は、櫂が世話をかけたな」 その言葉に、櫂の肩がわずかに揺れる。 ――婚姻届の件だ。 さすがの櫂でも、すぐにそう察した。 それは誉も同様だったが、少しも動じる様子はない。即座に、はっきりとした口調で返す。   「いいえ。 櫂くんの気持ちは、素直に嬉しかったですよ」 そう穏やかに返すと、柔らかな笑みを浮かべる。 「ほう」 当主の目が、わずかに細まった。 誉はそれを気に留める様子もなく、そのまま穏やかに続ける。 「もちろん、些か驚きはしましたが。 ……正しく受け止めています」 その言葉に、航が一瞬だけ誉を見た。   正しさという曖昧な答えの意味は、受け取る立場によって変わる。 例えば、櫂から見れば求婚の承諾。 当主の立場から見れば、櫂の症状を理解しているという意味になる。 ――うまい返しだ。 思わず舌を巻く航の一方で、当主はふっと笑い、返す。 「……どうやら、櫂の扱いに長けているようだ」 「ええ、ご当主さまのご采配で、長く見させていただいておりますので。 ――もちろん、これからも支え続けますよ。 それが、僕の役割ですから」 誉は臆することなくそう強く言い切ってから、またにこりと笑った。 当主はしばらく誉を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。 ただ短く息を吐き、櫂へと視線を移す。 「櫂」 「……はい」 櫂は、半ば怯えながら小さく返事をした。   「卯月は、如月の人間ではない。 距離感を間違えてはいけない。 ――瀬戸とは立場が違うのだ」 その場の空気が、わずかに冷えた。 「お前の振る舞い一つで、卯月の立場は良くも悪くも変わる。どれほど純粋な信頼であろうと、見せ方を誤れば、周囲は好き勝手に意味をつける。 今回の件は、その最たるものだ」 櫂は何も言えなかった。 ただ当主の言葉を受け止めながら、じっとその顔を見つめている。 「お前は、お前が持つ影響力をもっと理解するべきだ」 当主は続ける。 「今日の祝賀会での、皆の反応を見ても分かるだろう。お前の振る舞い一つで、人の評価などいくらでも変わる。 お前のそばに置いた卯月の評価も同じだ。 ーーそれを忘れるな」 櫂は、まず気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと息を吸った。兄に習ったやり方だ。 そして、自分がどう見られるかではない。 誉がどう見られるか。 それを考えなければならないのだと、遅れてようやく理解する。 誉は何も言わない。 ただ、半歩後ろで静かに控えている。 まるで使用人の一人のような態度とその沈黙が、櫂には少しだけ苦しかった。   それでも櫂は何かを言い返そうと口を開いたが、当主はその言葉を待たなかった。 「本日いただいた縁談の中から、何件か話を進めよう。他からも、おそらく話は来る。 お前にふさわしい伴侶を、こちらで選んでやる」 その言葉に、櫂の胸の奥がきゅっと冷えた。 ――伴侶。 祖父の選択肢の中に、誉は無い。絶対に無い。 かわりに、これまで会った令嬢たちの顔が浮かぶ。   優秀な人もいた。 話が合う人もいた。 尊敬できる人もいた。 けれど、違う。絶対違う。 もう、無理だ。 誉以外と進む未来なんて、一切考えられない。 櫂の唇が、再びかすかに動く。 「……お祖父さま」   櫂は一度、左手の薬指に触れた。 今はまだ何もないけれど、そこにはもう、誉との未来があるような気がして――。 「私は……」 その時だった。 「いやあ、父上、航。 ずいぶん話が弾んでいるじゃないか」 明るい声が、横から割って入った。 櫂は明らかに身体を強張らせ、言葉を止めてしまう。航の表情が、ほんのわずかに硬くなった。 声の方へ視線を向けると、兄弟の父親が、人当たりのよさそうな笑みを浮かべて立っていた。 その背後には、見慣れない男女が数人控えている。 胸元には、報道関係者用の名札が下がっていた。 それを見た航が、露骨に眉を寄せた。 だが、当主がそれを目だけでいなすと、すぐに表情を戻す。 そして父親は、そんな二人を気にすることなく、 「折角の祝いの席だ。 三代揃って、少し話をしようじゃないか」 と、さも当然のように輪の中へ入ってきた。

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