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4-11.
カードキーをかざして、航はカイの控室として取っておいたスイートルームの扉を開けた。
だが、リビングの照明は落とされており、人の気配もない。てっきり瀬戸が控えているものだと思っていたから、不審に思いながら奥へと進んだ。
すると、ベッドルームの扉の下から淡い明かりが漏れていることに気がついた。
そっとそれを開くと、ベッドの端に腰かけている誉がすぐに見えた。
誉は、眠っている櫂の片手を両手で包むように握り、うっとりとその寝顔を眺めている。
航の眉間にしわが寄った。
一方誉は、航の気配に気づいたのか、おもむろに顔を上げた。扉の前に立ったままの航と目が合う。
航のその冷えた目から、誉はすぐに察した。
——おやおや。御曹司くんは、ご機嫌ナナメか。
そこで誉は、わざと少し能天気な声を出した。
「やあ、航。おかえりー」
「……なんでお前がいるんだよ」
航は、いつもより一段低い声で返してきた。
「まあまあ。
そんなとこ立ってないで、こっち座りなよ」
「自分ちみたいに言うなよ」
その一声に、誉はふっと笑った。
「はいはい、おつかれさま」
誉はそんな航を気にした様子もなく、ベッドサイドのポットへ手を伸ばし、コップに白湯を注ぐ。
航は小さく息を吐いた。
そして、誉がコップを差し出したのを見てようやく扉の前を離れ、その隣へ腰を下ろした。
すると誉が、航が受け取る寸前でいきなりコップを引っ込めた。
「待って。当てる」
「……何を」
「何杯飲んだか」
「……」
それから誉は航の顔をじっと見ながら、少し考える素振りを見せた。それから、にっと笑ってどこか勝ち誇ったように言った。
「赤三、白一。どう?」
「……早くよこせ」
「よっしゃ、当たり」
「うるさい」
航は不貞腐れながら差し出された白湯を受け取ると、何も言わずに口をつけた。
半分ほどは一気に、残りは少しだけスピードが緩んだものの、そのまま飲み干す。
誉は空になったコップに、黙って手を伸ばした。航が渡すとすぐに取り上げ、また白湯を注ぐ。
「……」
航は何も言わず、大人しくそれも受け取り飲んだ。
その二杯目が空になったタイミングで、誉はまたポットへ手を伸ばした。
「……もういい」
「だめ。飲んだ量の三倍は飲まないと」
「多いわ。普通二倍だろ」
「卯月家家訓」
「誠に遺憾だが、俺は如月家だ」
誉はそう言う航に、半ば強引にコップを持たせた。
そして、満足そうに頷いて、ルームサービスのメニューを開く。
「さて……航の調子も戻ってきたし、夕飯にしようか。お腹空いちゃった」
「俺は食ってきたから、いらない」
「航はなに食べる? ポテトあるよ」
「おい、聞け。いらない……」
「あっ、ポテナゲあるじゃん。お得感あるよね〜。
じゃあ、ポテナゲにしよ。決まり」
「だから、人の話を聞け」
「うん、聞き流してるよ」
「流すな。全力で受け止めろ」
誉はそんな航を横目に楽しそうにメニューを眺めていたが、ふと顔を上げた。
「……航、今日、昼食べた?」
「いや、食べてないが……」
「じゃあ、さっき食べてきたのは昼ごはんにしよ。
で、これは夕飯」
「そんなわけあるか」
「いいじゃん、付き合ってよ。
……一人でご飯は、さみしいよ」
「あのなあ……」
航は言葉を詰まらせ、手元に残った白湯をもう一口だけ飲んだ。そして、呆れたようなため息をつく。
「……ちょっとだけ。つまむ程度だぞ」
「えー、遠慮しなくていいよ。
君のおごりなんだから」
「俺かよ」
「それから、ステーキ丼かカツ丼……うーん……。
ま、悩むくらいなら両方いくか。
二人でシェアすればいいし」
「いやそれ、実質一人一つだからな」
「飲み物は、ビール一択。
あ、航はオレンジジュースでいい?」
航は一瞬だけ目を伏せて、ふっと息を吐いた。
そしてすぐに顔を上げ、答える。
「りんごジュース」
「今日はそっちかー!」
「まだまだ、だな」
誉があからさまに悔しそうに言って、けらけらと笑う。つられるように、航もここに来て初めて口元を緩めた。
「あっ、それとも……航のおすすめとかある?」
「……ここは、うな重がうまい」
「うな重! 普通ルームサービスじゃいかないでしょ。……さすが御曹司」
「おう。御曹司極めてるからな」
「じゃあ、うな重も」
「飯物地獄になる。やめろ」
「……わかった。苦渋の決断でカツ丼は諦めよう」
「苦渋でもなんでもねえよ」
「あと、チョコレートパフェは外せないな……」
「胃袋中学生か」
誉は満足そうに頷くと、そのままルームサービスへ電話をかけた。
さっきまで好き勝手言っていたのが嘘のように、電話口では穏やかに丁寧な口調で注文を伝えていく。
航はそれを横目に見ながら、三杯目の白湯を飲み干した。最後にイチゴパフェも一緒に頼んでいたが、きりがないので航はつっこむことをやめた。
やがて電話を切った誉が、ベッドへもたれかかる。
「早くビール飲みたいなあ……」
「向こうの冷蔵庫にあるぞ」
「取ってきて」
「自分で行け」
「航〜」
「……ったく」
航は重い腰を上げ、仕方なくリビングに赴いた。
そして、備え付けの冷蔵庫を開ける。
「ん? 弁当箱?」
上段に入っていた見覚えのない弁当箱に、航は首を傾げた。
そして、ビールを持ってベッドルームに戻ると、すぐに誉に尋ねる。
「……弁当箱が入っていたが」
航がビールを取りに行った隙に、ベッドルーム窓際の小さなソファーセットに移動していた誉が、軽く手を振りながら言う。
「うん、カイ用。食べちゃダメだよ」
「わざわざ作ってきたのか?」
「うん。お腹空かせてたら可哀想でしょ。ここにカイが食べられるものがあるとも限らないし」
「……手厚いことで」
「我慢はさせたくないからね。
それよりも航、ビール。早く、早く」
「まったく……マジで人使いが荒いな」
「たまには使われる経験もしとくもんだよ、御曹司くん」
「……はいはい。どーぞ」
「サンキュ」
誉は受け取った缶ビールを嬉しそうに開けた。
航は誉の向かいに腰を下ろしながら、ふと眠っている櫂へ視線を向けた。
「で、櫂は……」
「世界一可愛いお顔で、よく寝てるよ」
「……」
「今日は、みんなよく頑張ったよね。
ま、これはその打ち上げってことで」
誉はそう言って、航がまとめて持ってきた残りの一本を向かいへ差し出す。
「航も飲む?」
「……いらん」
「そっか。じゃあ、かんぱーい」
誉は気にする様子もなく、一人で缶を掲げると、プシュッと音を立てて開けた。
航はそんな誉を眺めながら、ふとベッドへ視線を戻す。
「……櫂は、あれからずっと寝てるのか?」
「ううん。すぐに、一度起きたよ」
「意識は?」
「ちゃんとしてた。
バイタルも異常なし、目線もしっかりしてたし、シンプルに疲労だね。心配いらないよ」
「……ならよかった」
「それにね、俺に抱っこって手を伸ばしてきて……ぎゅってしてくれて。すごーくいっぱい甘えてくれた……最高に可愛かった……」
「……そうか」
航の表情が、わずかに緩む。
「あと、キスのおねだりと……」
「は?」
「それからエッ——」
「やめろ、わかったから!」
思わず声を張った航は、はっとしてベッドを振り返った。櫂は変わらず、静かな寝息を立てている。
「……ったく」
「ふふ」
「……元気なら、それでいいんだよ」
小声で吐き捨てるように言って、航はもう一度ソファーへ深く腰を下ろした。
誉はそんな航を見て、楽しそうに目を細める。
「ようやく元の調子に戻ったね」
「……」
黙り込む航に対し、誉もまたそれ以上は何も言わず、ビールを一口飲む。
少しだけ静かな時間が流れたあと、誉は眠っている櫂へ目を向けた。
「でも、君のおかげだね」
「何が?」
「カイのこと」
誉は缶を膝の上に置き、穏やかに続けた。
「一晩で、地に落ちてたカイの評価は一気に駆け上がった。今日の対応や様子を見て、まだ“不出来な次男”なんて言える人は、そうそういないでしょ」
「……そうだといいが」
「大丈夫だよ。少なくとも、あそこにいた人たちには、ちゃんと伝わったと思うよ」
航は何も言わず、眠る弟を見つめた。
その横顔をしばらく眺めてから、誉がふっと笑う。
「ま、お兄ちゃんとしては、やっと及第点ってところかな」
「手厳しいな」
「今までが今までだからね」
「……否定できないのが腹立つな」
そのとき、リビングの方からインターホンの音が響いた。
誉がぱっと顔を上げる。
「きた!」
「急に元気になるな、お前」
「だってご飯だよ」
誉は嬉しそうに立ち上がる。
「よーし、フードファイトスタート!」
「フードファイトって言っちゃってるじゃねえか」
ほどなくして、ワゴンに載せられた料理が次々と運び込まれてくる。誉は並べられていく料理を、満足そうに眺めた。
「うんうん。壮観」
「頼みすぎなんだよ」
航は呆れながら、最後に置かれたりんごジュースのグラスを受け取る。係の者が一礼して退出すると、誉はさっそく箸を手に取った。
「いただきまーす」
「……つーか、ここで食うのか?
向こうにダイニングあるだろ」
「カイと約束したから」
誉は何でもないことのように答え、うな重の蓋を開けた。
「起きた時、ちゃんとそばにいるよって」
「……そうか」
航はそれ以上何も言わず、自分の前に置かれたステーキ丼へ箸を伸ばす。一方誉は、うなぎを一口頬張った途端、ぱっと顔を輝かせた。
「え、ナニコレおいしい! さすが御曹司」
「だから言ったろ。御曹司情報をなめんなよ」
そう言う航の箸もまた、順調に進んでいた。
その様子を見ながら、誉がふっと笑う。
「……なんだよ」
「別に。ちゃんと食べてるなあと思って」
「お前に食わされてんの」
「よしよし」
「子供扱いすんな」
そのまま二人で他愛のない話をしながら料理をつついていると、やがて航が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや、カイの弁当ってやつは、ずいぶん小さかったが……。お前とでも、あれしか食べないのか」
「一回ずつはそうだね。
小分けにしてやれば、それなりに食べるよ」
「……実はつい先日、食べすぎて吐いたんだ。
ただ早く退院したい一心だったようだが……」
「ああ……まあ、そうなるよね」
誉はさほど驚いた様子もなく頷いた。
「……やっぱり、胃腸がかなり弱いんだよね。
だから、一度にたくさん取らせるより、何回かに分けたほうがいいよ」
「補食あり前提ってことか」
「うん。それに、食べられる量も日によって結構違うから。体調とか、疲れ具合とか……その日の気分で変わることもあるしね」
誉はそう言いながら、ポテトを一本つまむ。
「朝はおかゆだけ、おやつに野菜スティック……みたいに調節しながら少しずつ。
目の前にいっぱい並べられて、『多い、無理かも』ってなると、それだけで不安になっちゃって、余計に箸が進まなくなる。食べきれなかったらどうしようって、怖くなるから」
「……うう、櫂がそう思ってしまう理由の心当たりがあり過ぎて何も言えない」
「あはは、それに気づけただけでも一歩前進だね」
「ちなみに、あの弁当の中身は?」
「おにぎりと卵焼き。あとミニトマト」
「だけ?」
「うん、だけ」
「……それでいいのか?」
「いいの」
誉はあっさりと頷いた。
「食事なんてね、一日を通して必要なぶんが入ればいいんだよ。
本読みながらでも、仕事しながらでも。
ともかく、口に入れればオッケー」
「……行儀が悪過ぎやしないか」
「カイは栄養とか、お行儀がなんて言ってる場合じゃないんだよ。まずは生きるために、食べられるものだけでいいから食べる。それだけ。
そういう一般的な常識は、その次の段階」
航はしばらく黙って考え込んでいたが、やがてぽつりと言う。
「だからお前と一緒なら、よく食べるのか」
「ま、それに加えて、俺はその時のカイにとってベストなものしか作らないからね。
長年の研究の成果」
「研究ってなあ、お前。人の弟を……」
「あながち間違いじゃないでしょ」
「……はあ、すべて反論できない」
「でしょ」
けらけらと笑う誉の前で、航は呆れたように息を吐いた。
だが次に箸を置くと、姿勢を正して頭を下げる。
「すまないが、そのやり方とか……レシピを教えてもらえないだろうか」
「おや。どうしたの」
あまりにも改まったその様子に、誉が目を丸くする。だが、航の顔は大真面目だった。
「退院までに、少しでも力をつけさせてやりたい」
それから航は、眠る櫂へ目を向けた。
「今の状態でも、退院自体はさせられる。
だが、このままでは今まで以上に勤務時間を減らさざるを得ない」
「……まあ、そうだね」
「あいつの目標は、また医者として現場に戻ることなんだ——ベストな形で叶えてやりたい」
誉もつられるように眠る櫂を見ると、迷いなく返した。
「なら、俺が作ろうかな」
「だが、日によって食べられるものも、量も違うんだろ」
「そう。だからなおさら、俺の出番でしょ」
「気持ちはうれしい。だが、悪いが入院中、毎日お前に会わせるわけには……」
「さすがにそれはわかってるし、別に会う必要はないよ。
バイタルのデータと、カメラ映像を見れば十分」
「……それで分かるのか?」
「分かるよ。
あの子を何年見てると思ってんの。
当たり前でしょ」
「……怖えな」
「だから、研究の成果です」
誉は得意げに笑った。
航は呆れながらも、すぐにまた表情を改める。
「ただ、問題は食事の持ち込みだな。
治療中の患者に自由に外から食事を持ち込ませるわけにもいかない」
「まあ、そうだよねえ」
誉は腕を組み、少し考える。
その横で航も黙り込んでいたが、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「……待て」
「ん?」
「新院の小児科に作った家族用の滞在施設。
あそこにキッチンがある」
「この前完成したやつ? キッチンまであるんだ」
「ああ」
航は頷いた。
「最期に、母親の食事を欲しがる子供はいる。
……食べさせたい親もいるからな」
「……そっか」
誉は小さく呟き、少しだけ目を細めて航を見る。
「……そういう気持ちに、損得なく応えようとする航のやり方、俺は好きだよ」
「……なんだよ、急に」
「思ったから言っただけ」
航は少しだけ居心地が悪そうに視線を逸らした。
「稼働は来月からだから、今なら使える。
病院の厨房から一人立ち合わせよう。一応な」
「ありがとう」
「礼を言うのはこっちだ。
……ただし、無理はしないでくれ」
「ん?」
「ん? じゃない。ただでさえ、お前はハードワーカーだしな。お前に何かあったら皆が困る」
「ふふ。安心して。昔から、身体が丈夫なだけが取り柄だと言われて育ったくらいだから」
「いや、他にもたくさんあるだろ……」
航は呆れたように言ってから、ほんの少しだけ笑った。
「……でも、ありがとう」
「どういたしまして」
誉も笑い返し、残っていたビールを飲み干した。
それから空になった缶をテーブルへ置き、大きく伸びをする。
「さて、そろそろ頼んでおいたパフェを持ってきてもらおうかな」
「まだ食うのかよ」
「甘いものは別腹」
誉は再びルームサービスへ電話をかけた。
先ほどと同じ穏やかな口調で二言三言やり取りをして、電話を切ると、航に楽しげに尋ねる。
「航は、チョコといちご、どっちにする?」
航は一瞬だけ考え——それから、ニッと笑って答えた。
「パフェといったら、いちごに決まってるだろ」
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