76 / 76
4-12.
「……はあ、ちょっと食べすぎたかな」
「……ちょっととかいうレベルじゃねーだろ」
誉は満足そうに腹をさすりながら、ソファーの背もたれへ深く沈み込んだ。
その向かいで、航も同じようにぐったりとソファーに身体を預けている。
「俺、今日だけで三日分くらいのカロリー摂った気がする」
「大丈夫大丈夫。明日調整すれば」
「誰のせいだと思ってんだよ」
航はそう言って、空になったパフェグラスへ恨めしそうな視線を落とした。
フルコースを食べたあとだというのに、結局誉に乗せられるがまま、一通り全部食べてしまった。
「でも、いちごパフェ美味しかったでしょ?」
「……うまかった」
「ふふ、ならいいじゃない」
誉は満足そうに笑った。
そのまましばらく二人で動けずにいたが、航がふと腕時計に目をやって尋ねる。
「……で、お前、このあとどうするんだ」
「ん? 泊まるけど」
「どこに」
「ここに」
「……」
誉は当たり前のようにそう言い、ベッドに目を向けた。
「カイが起きた時、ちゃんとそばにいるって約束したからね」
「……そうか」
続いて航もまた、眠る櫂を見た。
「まあ……これは連れ帰るのは無理だな……」
「連れ帰る気だったんだ」
「一応入院患者だからな。
後追いになるが、外泊届を出させないと……」
「大変だねえ」
真横でフードファイトが催される中、櫂はこんこんと眠り続け、相変わらず起きる気配は全くなかった。
本当に限界だったのだろう。
よく耐えてくれた。
「航も泊まってけば?」
「なんでだよ」
「一緒に寝てもいいよ、お兄ちゃん」
「帰るわ」
「遠慮しなくても」
「してねえよ」
いたずらっ子のように笑う誉を横目に、航は腕時計に目をやった。
「じゃあ、明日の朝、迎えに来る」
「うん。ゆっくりめでいいよ」
「……仕事は?」
「午前半休」
誉はピースサインと共に得意げな顔をする。
航は半ば呆れながらため息をつき、肩を落とした。
「……さすがというか、抜かり無いというか」
「シゴデキなんで」
「はいはい」
航はもう一度ため息をついた。
「で、君は?」
今度は誉が尋ねる。
「俺はこれから、もう少し仕事して——」
「お酒飲んだのに?」
「この程度なら問題ないだろ。
酔い覚ましにジョギングして戻るし……」
「はあ?!十五キロはあるよ?!
やめときなさい!」
「……じゃあ、サウナ入って帰る」
「高血圧! 絶対駄目!」
「……」
航は不満げに黙り込んだあと、渋々と言った様子で口をとがらせた。
「……マンションまで、瀬戸に送ってもらう」
「それがいいね。それから、今日はもう寝なさい」
「だが……」
「君に何かあったら、カイが一番悲しむよ」
航が、わずかに目を見開く。
何か言い返そうと唇を開いたものの、結局反論の言葉は出てこなかった。
「……わかったよ」
「よろしい」
満足そうに頷く誉に、航はやれやれと言った様子で肩を竦めてみせた。
「……まあ、櫂の顔も見れたし、帰るよ。
おやすみ、すまないが……あとは頼むな」
「ふふ、任せて。……おやすみ、航。
ちゃんと休むんだよ、約束だよ」
「ああ、分かってるよ」
航は立ち上がり、上着を手に取った。
そして最後にベッドで眠る櫂へ視線を向けた。
そして、小さく口元を緩めると、何も言わずに軽く左手を上げて見せ、静かに部屋を出ていった。
翌朝。
櫂の意識が、ゆっくりと浮上する。
目を開ける前に気づいたすぐそばのあたたかなものへ、本能的に身体を寄せた。
すっと息を吸うと、すぐによく知っている大好きな匂いが胸いっぱいに広がって、なんとも言えない心地よさに包まれる。
——きもちいい……。
カイは自然と誉の胸に頬をすり寄せ、そのままぎゅっと抱きついた。
すると、頭の後ろをゆっくりと撫でる大きな手の感触が続いた。
ほかほかとしてあったかいそれがあまりにも心地よくて、櫂の身体からますます力が抜けていく。
そうしていると、額に柔らかなものが触れる。
ちゅ、と小さな音が響いた。
さらにそれが何回も続くから、くすぐったくて思わずカイから笑いがこぼれる。
ようやく目を開くと、すぐ誉の顔が視界に入った。
「おはよう、カイ」
「……おはよ」
——ちゃんと、朝までいてくれた!
それが嬉しくてたまらなくて、カイはもう一度誉の胸へと頬を押し付けた。
誉はそんな櫂の髪を撫でながら、頬や首筋にもそっと手を滑らせた。
いつものように、さりげなくカイの熱や呼吸、脈の様子を確かめていく。
昨日の疲れを引きずって体調の乱れが出るかと思ったが、問題なさそうだ。
誉はほっと息をつくと、カイを抱きしめた。
しばらくそうして、誉の腕の中でまどろんでいたカイだったが、ふと自分の服の袖が目に入った。
「あれ……」
前に誉が選んでくれた、お気に入りのパジャマに間違いない。
——持ってきてくれたんだ!
そんな誉の心遣いに気がついたカイは、嬉しそうに笑うと、パジャマの袖を誉に見せた。
「えへへ、これすき。ありがと」
「どういたしまして」
カイは頷いて、ご機嫌な様子で誉の胸元へ頬を寄せた。
「……おうちに帰ったみたい。うれしい」
誉は何も言わずに、ただカイの額にもう一度ちゅっと口づけて返す。
「ふふ」
すると櫂は、くすぐったそうに笑う。
そして、しばらくそのまま誉にくっつき、あたたかな身体に頬をすり寄せた。
ふわふわのパジャマが、気持ちいい。
誉の腕の中も、あったかくて気持ちいい。
——もっと、誉にくっつきたいな……。
そう思ったところで、カイはふと思い出した。
昨日、元気になるまで、セックスは我慢すると決めたばかりだ。
本当はもっといっぱいくっつきたい。
服なんか脱いで、肌と肌で直接誉のぬくもりを感じたい——でも、そんなことを言ったらきっと、また誉を困らせてしまう。
「……」
カイは、考えた。
人類上限と言われた頭脳をフル回転させて考えた。
合法的に裸になって、誉とくっついて、気持ちいいことができる方法は——。
そしてしばらくして、ふっと顔を上げる。
「誉、おふろできる?」
「えっ」
その唐突な問いに、誉が瞬いた。
「できるよ。入りたいの?」
「うん」
「そっか。じゃあ、用意してこようね」
誉が身体を起こしかけると、その服の裾を、カイはきゅっとつまんだ。
「ん?」
「……いっしょ」
「えっ」
誉の動きが、振り返った体勢のまま止まった。
一方、カイは誉の袖をつまんだまま、少しだけ不安そうな顔で見上げる。
「……だめ?」
「…………」
誉はしばらくカイの顔を見つめた。
それから、ゆっくりと天を仰ぐと、何かを堪えるように、唇をきゅっと結んでから答えた。
「……もちろんいいよ」
「やったあ!」
ぱっと嬉しそうに笑うカイを前に、誉は静かに掌で額を押さえ、もう一度だけ天を仰いだ。
誉との風呂を終えたカイは、すっかりご機嫌だった。
さっぱりした身体にバスローブを着せてもらい、ベッドの端へ腰掛ける。その後ろでは、誉がタオルで濡れた髪を丁寧に拭いていた。
「気持ちよかったあ!」
「そうだね……」
カイが非常に満足そうな一方、誉は風呂に入る前よりも相当疲れた顔をしている。
——いや、よく耐えたよ、俺。ほんと、真面目に。
そんなことにはまるで気づかないカイの髪を、誉はタオルで挟むようにして優しく水気を取っていく。
「……少し伸びたかな」
「ん?」
誉が、襟足の毛先を指先でつまみながら、ゆっくりと言う。
「ここ、切ったとこ。納まりは良くなったけど……」
「あ—……」
それは入院前夜のこと。もう2週間ほど前になる。
汚れた三つ編みを自分で無理矢理切り落としてしまったのを、誉が整えてくれたのだ。
「首周りとか、気にならない?」
「うん、大丈夫」
「なら、良かった。
戻ったら、また少し整えてあげようね」
「うん!」
カイは嬉しそうに頷いたが、すぐに何かを思い出したように振り返る。
「あ、でも……また伸ばそうと思うんだよね」
「えっ」
誉が少し意外そうな声を上げたので、カイはほんの少しだけ俯いた。それから、はにかむように笑う。
「……髪の毛なんて、長くても短くてもどっちでもいいって思ってたし、そう言ったけど……」
「うん」
「誉にこうやって梳かしてもらったり、結んでもらうの、気持ちよくて嬉しいから……伸ばしたいんだ」
誉は少しだけ目を細めた。
「……そっか」
そして、指先で毛先をそっと揃えるように撫でた。
「いいね」
「うん」
カイは嬉しそうに笑って、もう一度前を向いた。
誉は、その少しだけ頼もしくなった小さな背中を見ながらドライヤーを手に取り、指先で丁寧に髪を梳かし始めた。
柔らかくて温かな風と髪を撫でる誉の手が心地よくて、カイはしばらく目を細めてそれに身を任せていたが、ふと、ぽつりと口を開いた。
「……オレの入院、一ヶ月なんだって」
「うん」
「もう、二週間たったから……残り、二週間」
それからカイは軽く息をつくと、膝の上で、自分の指をゆっくりと組んだ。
「……オレ、がんばるね」
誉の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれども、またすぐに優しく髪を梳かし始める。
カイは前を向いたまま、しっかりとした声で続けた。
「元気になって、誉の横に戻れるように、がんばる。もうオレは逃げないし、負けないよ」
「……」
誉は、ドライヤーのスイッチを切った。
静かになった部屋で、しばらく何も言わずにカイを見つめる。
それから、乾いた髪を最後に一度だけ撫でた。
「待ってるよ」
カイは小さく頷いた。
それから、少しだけ照れくさそうに俯いた。
その時だった。
——ぐぅぅ……。
静かになった部屋に、妙に大きな音が響いた。
「……!」
カイが、赤い目をまん丸にしながらゆっくりと自分のお腹を見る。
「……お腹、鳴った」
「鳴ったねえ」
誉がくすりと笑う。
カイは信じられないと言った顔で、バスローブの上から自分の腹を撫でた。
「……お腹がすいた……かも」
「おや」
その言葉に、誉の目元がわずかに緩んだ。
「ちょっと待っててね」
誉は立ち上がり、ミニバーの方へと向かった。
冷蔵庫から小さな弁当箱を取り出し、食べやすいように少しだけ温めてから戻ってくる。
見覚えがあるそれを見た途端、カイの顔がぱっと明るくなった。
「あっ。誉のごはんだっ」
「うん、当たり」
誉はベッド脇のテーブルへ弁当箱を置き、蓋を開けた。
中には、小さな俵型のおにぎりが三つ。
海苔の代わりに、とろろ昆布が薄く巻かれている。
その隣には、かにかまを巻き込んだ卵焼きと、ミニトマト。
昔から作ってきた、定番の朝食だ。
「ほら、召し上がれ」
「いただきます!」
カイは慣れた献立に安心しながら、さっそく小さなおにぎりをひとつ手に取った。
ぱくりと一口食べると、カイはすぐに顔をほころばせた。
口の中に、かつお出汁の優しい味が広がっていく。
「……おいしい」
「ふふ、よかった」
例えば、中に具は入ってないか、入ってたとしたら、それは食べられるものだろうか。
カイは食事の時、いつもそんな不安がつきまとう。
だが、誉が作ってくれるおにぎりは、お米だけだと分かっているから安心して食べられる。
不安から解放された食事は、美味しくて、楽しい。
カイは二口ほどで一つ食べ終わると、今度は卵焼きに箸を伸ばした。
「これ、すき」
「カイ用に、ちょっぴり甘めにしといたからね」
「うん、おいしい」
誉は向かいで頬杖をつきながら、ただ穏やかにカイが食べる姿を見ていた。
カイはそのまま食べ進め、気がつけば、最後のおにぎりを手に取っていた。
「……あれ」
カイはそう呟くと、空になった弁当箱を見つめた。
「……ごちそうさま」
「ふふ、お粗末さまでした」
誉はいつもと変わらない調子で頷いた。
カイはしばらく空の弁当箱を見つめていた。
——無理しなくても、全部食べられた!
その実感が、少しずつ胸の奥に染み込んでくる。
ついこの前までは、早く退院したくて、お腹なんてすいていなくても無理に食べ物を詰め込んだ。味なんて、ほとんどわからなかった。
それでも、結局全部吐いて倒れてしまったのに。
今日はちゃんとお腹が空いて、ごはんを食べたいと思った。食べてみたらちゃんとおいしくて、無理をしなくても全部食べることができた。
「……えへへ」
カイの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
誉はそんなカイを見守りながら、同じように小さく笑った。
ともだちにシェアしよう!

