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4-13.
その後、二人でゆっくりと朝を過ごしていたら、あっという間に時計の針が十時を越えてしまった。
丁度航から迎えの連絡が入ったこともあり、誉とカイは帰り支度を始める。
とはいえ、誉の荷物は通勤カバン一つ。
支度といっても、ほとんどはカイのものだった。
だが、肝心のカイは、察しのいい瀬戸がボストンバッグに用意しておいてくれた服をいつも通り着替えさせてもらって、あとは荷物をしまう誉の肩にもたれながら、終わるのを待っているだけだ。
そんな中、ふとサイドテーブルへ目をやる。
すると、いつものうさちゃんがちょこんと座っているのが見えた。その腕には、見慣れたキーケースが抱えられている。
「あっ」
カイがそう小さく声を上げてうさちゃんを抱き上げると、キーケースも一緒に手の中へ落ちてきた。
「……誉」
「ん?」
カイはうさちゃんを胸に抱いたまま、もう片方の手でキーケースを握る。
「これ……もう少し、貸しといてもらってもいい?」
カイは、手の中のキーケースへ目を落とす。
「これ、ぎゅってすると……元気が出る。
一人じゃない、がんばろうって……そう思うんだ」
誉はしばらく何も言わず、そんなカイを見つめた。
それから、静かに口を開く。
「それは、カイの鍵だよ。
だから、カイに持っててほしいな」
カイは目を丸くしたあと、もう一度手の中のキーケースを見ながらぎゅっと握りしめた。
「……ありがとう。大切にする」
それに対し誉は何も言わず、カイの額へちゅっと口づけた。
カイは照れたように目を細め、キーケースを大事そうにポケットへしまった。
支度を終えると、あとは航が迎えに来るのを待つだけだ。
誉がソファーに座って、ちょんちょんと自分の膝をつつくのを見たカイが、嬉しそうにその間に腰を下ろした。
「ふふ」
そして背中を誉の胸へ預け、得意げに笑う。
誉の腕が腹の前でゆるく重なり、その上からカイもうさちゃんをぎゅっと抱いた。
「兄さん、もう来るかな」
「そろそろじゃない?」
「……そっか」
そう言いながら、カイは少しだけ後ろへ頭を傾けた。
すぐそばに誉の頬がある。
それだけで、なんだかすごく安心だ。
ーーもうすぐ、病院へ戻らないといけない。
……誉に会えなくなる。
けれども、不思議と怖くはなかった。
むしろそれが、これからちゃんと誉の横に立って生きるために、必要なことのようにも思えた。
だから扉を叩く音が聞こえた時も、カイはもう不安にはならなかった。
「おはよう」
すぐに、聞き慣れた声と共に扉が開く。
カイはその声とほぼ同時に、誉の腕の中からひょこっと顔を出した。
「兄さん!」
「お、おう」
まさかいきなりこんなに元気に呼びかけられるとは思っておらず、航はかなり驚いたように目を瞬いた。
それもそのはずだ。
カイは昨日会場で倒れ、航が最後に見た時には、まだベッドの中でこんこんと眠り続けていたのだから。
「……なんかこう……、思ったよりずいぶん元気だな」
「元気になったよ。朝ごはんも食べたし」
「ふふ、全部食べたよね」
「うん。それに、ちゃんと吐かなかった!」
誉が横から付け加えると、カイは得意げに胸を張った。航はそんな弟をしばらく見つめたあと、ふっと小さく息を吐く。
「……そうか」
カイは、誉の腕の中から抜け出し立ち上がった。
そしてすぐに誉へと向き直ると、赤い瞳でその顔を見つめた。
「……誉」
「ん?」
カイは改まって真面目な声でそう言ってから、姿勢を正した。
「……祝賀会、いろいろありがとう。
誉のおかげで、なんとかなった」
誉は、すぐに首を横へ振った。
「ううん。カイが逃げずに頑張ったからだよ」
「……えへへ」
カイは少しだけ照れたように笑うと、誉に一歩だけ歩み寄った。
「誉」
「なあに?」
そしてカイは、誉の袖口を掴んで小さく引き、まっすぐその目を見つめながら、迷うことなく言った。
「あいしてるよ」
「……!?」
それから、そのままかかとを上げて背伸びをする。
だが、あと少しで唇が触れる——そう思った瞬間、何だか急に恥ずかしさが込み上げてきた。
けれど、もうここまで来て引き返すわけにもいかない。それでもカイは堪えきれず、ほんの少しだけ顔を逸らした。
ちゅっ。
次の瞬間、小さな可愛らしい音が室内に響く。
カイの唇が触れたのは、誉の唇ではなく、そのすぐ右下にある小さなほくろだった。
「……!」
「……なっ」
誉よりも先に、少し離れたところで見ていた航が、面食らったような声を上げた。
カイは頬を赤く染めながら小さく笑うと、くるりと踵を返した。そして、しっかりとした足取りで航の方に歩いていく。
「兄さん、オレ、病院に戻る」
「お、おう……」
最後にカイは、もう一度だけ誉を振り返った。
「誉、いってきます」
「……いってらっしゃい、カイ」
誉が、微笑んでそう返す。
カイはすぐに頷いて見せ、振り返ることなく扉から出て行った。
その背中を見送りながら、誉はほんの少しだけ困ったように小さく笑った。
「……参ったな。反則でしょ、これは」
そして、そう呟きながら、今しがたキスされたほくろの辺りを指先でそっと撫でた。
ホテルを出ると、正面の車寄せに航の車が用意してあった。それが、先日乗せてもらった白いスポーツカーだったので、カイはほっと胸をなでおろす。
電気自動車は静かなので、感覚過敏が起きにくいからだ。
カイは助手席へ座り、うさちゃんを膝の上に乗せて待つ。すると、航が慣れた様子でシートベルトを締めてくれた。
航も、続けて運転席に乗り込んだ。
ほどなくして、車が静かに走り出す。
カイはしばらく、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「兄さん」
「ん?」
「オレ、答えが分かったよ」
「……何のだ」
あまりにも脈絡のない話の始まりに、航が思わず問い返す。するとカイは、膝の上のうさちゃんを抱き直して、何でもないことのように続けた。
「オレ、誉のこと、愛してる」
ゴッ。
そう言い終わるや否や、運転席から鈍い音が響いた。驚いたカイが慌ててその方見ると、兄の額がハンドルに沈んでいる。
だが、航はすぐに跳ねるように顔を上げ、叫んだ。
「っぶねー!!自動運転入れててよかったー!!」
ちょうどその時、信号が赤になった。
航は車を停車させ、カイの方を向き、赤くなった額をさすりながら恨めしげに言う。
「急に何言ってるんだ、びっくりするだろ!」
「だって兄さんが考えとけって……」
「そういう大事な話をする時は、時と場所を選べ」
「兄さんがヒマで、二人きりの時……今でしょ」
「暇じゃねえ、運転してる!」
カイは、不思議そうに首を傾げた。
「けど、さっきも誉に言ってんの聞いてたじゃん」
「目の前で聞くのと、本人から改めて報告されるんじゃ、話は別なんだよ!」
「そうなの?」
「そうなの!!」
航は、そう一気にまくし立てると、しばらく前を向いたまま黙り込んだ。
信号が変わり、滑らかに車が走り出す。
やがて次の信号がまた赤になると、航がようやく頷いた。
「……そうか。気持ちが固まったか」
「うん。それから、誉もオレのこと愛してるって」
「…………」
航は再び額を押さえた。
「兄さん?」
「……ちょっと黙ってろ」
「なんで」
「気持ちの整理に、時間がかかる」
「別に、今更じゃない?」
「……そういう問題じゃない」
「……おかしな兄さん」
「お前な……」
カイは、ハンドルに額を押しつけながら信号待ちをする兄を横目に肩をすくめると、また窓の外へ視線を戻した。
そんな沈黙の中、再び車が走り出した。
しばらくして、カイがおもむろに口を開いた。
「……兄さん」
「今度はなんだ」
「……残り二週間のことなんだけど」
航がちらりと弟を見る。
カイは窓の外に目をやったまま、しかしはっきりと言った。
「オレ、もうずっと寝て過ごすのは、やめたい」
「……じゃあ、どうしたい?」
カイは少し考えてから、ゆっくりと言葉を選んだ。
「復帰する準備の時間にしたい」
「……戻りたいのか」
「……うん。その……コンサルじゃなくて、内科医として、脳神経内科で勤務したい。
前みたいに、誉の隣に戻りたい」
カイはそこまで言うと、口を閉ざした。
航は、急かすことなく、その先の言葉を待つ。
「今回の祝賀会で、分かったことがあるんだ」
「……」
「オレ、できないんじゃなかった」
カイは膝の上のうさちゃんへ目を落とすと、よれよれになったそのシャツを指でなぞる。
「どうすればいいか、分からなかっただけだった。けど、祝賀会の時みたいに、対応の型が分かれば、オレでもできる」
「……」
「再教育って、そういうことじゃないかな」
航は車を右折させながら、静かにカイの話に聞き入った。
「オレは、人と接するのが、すごく下手くそだ。
それでも無理矢理やろうとして、何回も失敗して、怖くなって、逃げて……正直もう、諦めてた。
でも、そもそもやり方が間違ってたんだ。
無理やりじゃなくて、ちゃんとオレにもできるやり方を学んで、覚えなきゃいけなかった。
それって、勉強や研究と同じ構造なんだよ。
だったら、オレにも出来るはずだ」
その時、航の脳裏に祝賀会の前に誉が言っていた「カイに頑張ってもらうやり方」が蘇った。
『カイに、“オレにもできる”って思わせること。
それがまずスタートライン。
逆に、そこさえしっかりハマれば、あとは放っておいてもうまく流れてくから』
——本当に、誉の言う通りだな。
航はふっと笑い、頷いた。
「……そうだな」
「だから、残り二週間は現場に戻る勉強時間にしたい。中途半端じゃなく、ちゃんと戻りたいんだ」
カイはそこまで言い切ってから、航を見上げた。
「だから、兄さん。教えてよ。
オレが、ちゃんとやっていけるやり方を、教えて」
「……分かった」
「ほんと?」
「ああ、兄さんに任せとけ」
カイが、自ら変わろうとしていること。
そして、真っ先に自分を頼ってくれたこと。
それが思ったよりもずっとずっと嬉しくて、航は思わず顔が緩んでしまいそうだった。
けれども、それをこの弟に悟られるのがなんとなくくすぐったくて、敢えて前を向いたまま続ける。
「まずは体力だな。これがないと始まらない」
「……がんばる……」
「早くも嫌そうな顔をするな」
「だって、疲れる」
「知ってる。だから、ちょっとずつだ」
航は指先でハンドルをトントンと軽く叩く。
「いきなり百点は取れない。
手術に立てる。それを百点だとしよう」
「うん」
「そこに向かって、少しずつ積み上げる。
まずは五十点を目指すんだ」
「五十点の閾値は?」
「医局で半日働けること」
「……今までと同じ……」
「そうだな。
そして、執務室に戻って、静かなところでなら仕事を続けられる、そうなれば七十点」
「じゃあ、八十点は?」
「勤務時間全部を医局で働ける」
「……そしたら、九十点は?」
「医局のみんなと、仲良く仕事ができる」
「……仲良く……は、難しいかも……」
「だろうな。別に仲良しこよしのお友達になれとは言わない。だが、スムーズに業務を進めるためには、ある程度の信頼と人間関係の構築は必要だ」
「そうなのかな……」
「そうだ。お前が一番できてないところだな」
「……ひどい」
「だが、型がある。勉強は得意なんだろ」
「うん……」
「教えてやる、大丈夫だ」
「……それで、百点は?」
「手術に耐えうるだけの体力と集中力が戻ること」
「……そっか」
「そこまでいったら、一人前だな」
「……てことはさ、オレ、入院前ですら五十点だったんだね……」
「まあ、仕方ない。
持病があるのは、お前のせいじゃないからな。
人より時間がかかったって、少しずつ頑張って、いつか百点になれればそれでいい」
カイは少し考えてから、こくりと頷いた。
「……がんばる」
「それから、薬も整理しよう」
「……全部なくせたら、百点?」
「いや。これからもお前は何かしら薬を飲み続けなきゃいけないだろう。決してゼロにはできない」
「……」
カイの表情が、少しだけ曇った。
薬がなくては生きられない自分は、やっぱり普通にはなれないのだと突きつけられたような気がした。
分かってはいるけれども、改めてそう言われると、気持ちが落ち込んでしまう。
だが、航の声は明るいままだった。
「けど、それはお前が生きるために必要なものだ。
薬が必要だからって、それがお前の欠点になるわけじゃない」
その言葉に、カイははっとした様子で顔を上げた。
そんなカイに、航は小さく頷く。
「それでも、必要最低限まで持っていけるようにはしよう。今の状態を見ながら、仕事や生活への影響が大きいものは調整していく」
「……うん」
「まあ、そんなに気にするな。
俺だって血圧の薬はきっと一生飲み続けるし、頭痛薬だって手放せない。多かれ少なかれ、皆同じだ」
カイは少しだけ唇を尖らせ、ぎゅっとうさちゃんを抱きしめた。
「……けど、誉は飲んでないし……」
「あいつは特殊事例だろ」
「特殊事例」
「もし全員がああなったら、俺たち医者は廃業するしかない」
「……そんなに?」
「そんなにだ」
「……そっか」
カイは少し考えてから、納得したように頷いた。
「オレ、百点取れるように、全部がんばる」
「おう、いい心構えだ。だが、焦るなよ」
「うん!」
車が大きく右折をする。
新病院の建物が、見えてきた。
「じゃあ、もうイヤイヤせずに薬も飲めるな」
「……飲める」
「ネブライザーもだぞ」
「がまんする……けど、ぎゅってしててね」
「わかったよ。仕方ないな」
「ごはんも、できるだけ食べる……」
「リハビリもだぞ」
「……サボらないようにする」
一つ答えるたび、カイの声が少しずつ小さくなっていく。航はそんな弟を横目で見ながら、最後にもう一つ付け加えた。
「兄にわがままを言わない」
「兄さんにわがままなんて言ったことない」
「嘘つけ」
「誉には言うけど、兄さんには言ってない」
「誉に関しては、自覚あんのかよ」
「誉、わがまま言うと喜ぶもん」
「胸を張って言うことじゃねえな」
航は呆れたようにため息をついた。
やがて、車は新病院の役員駐車場へと入っていく。
車を停め、航はいつも通りシートベルトを外してやるために横を向く。
だが、カイは、慣れない手つきではあったが、自分でそれを外した。
そして次に、自らドアを開いて、地面に足を下ろした。
そのままゆっくりと立ち上がろうとした瞬間、ほんの少しだけ身体が揺れたので、航は反射的に手を伸ばしかけた。
だが、カイがすぐに自分で姿勢を立て直したので、航は、伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
それからカイは、一人ですっと立ち上がった。
そして、まっすぐ病院の入り口を見据える。
ーー二週間前、ここに立ったときは理由もわからず怯えるだけだった。けれども、今日は違う。
ちゃんと自分でやると決めて、戻ってきたのだ。
元気になって、学んで、絶対に誉の横に戻る。
カイはポケットの上から、キーケースをぎゅっと握った。
「……まずは二週間、がんばる」
「ああ、一緒に頑張ろう」
横に立った航が短く答えると、カイは頷いた。
そして、自分の足で大きく一歩を踏み出した。
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