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4-14.
「みんな、大事件ッス〜!!」
昼休みの医局に、山川の大声が響き渡った。
勢いよく扉を開けて飛び込んできたその顔は、なぜか真っ青だ。
何事かと、医局中の視線が一斉に集まった。
「なんだよ山川、うるせえなあ」
「どうしたの? 急変?」
佐々木と誉が、ほぼ同時に声をかけた。
すると山川は、息を整える間も惜しいと言った様子でズカズカと誉の席までやってくると、両手を机について身を乗り出した。
「俺、今さっき小児科に書類届けに行ったんス」
「うん」
「そしたら、いたんスよ!」
「何が」
「如月先生が!!」
誉が目を丸くして、瞬いた。
「……カイが?」
誉は即座に腰を上げ、
「はい! なんか普通に小児科で——」
山川がそこまで言った時には、その姿は既に医局の外へ消えていた。
「はや」
「いや、最後まで聞いて行けよ」
佐々木が呆れたように扉を見る。
その横で、看護師が怪訝そうに眉を寄せた。
「てか、なんで小児科?」
「如月先生、まだ休職中だよね? 」
「実は復職してて、小児科に異動したとか?」
「いや、それ。
誰よりもやっちゃ駄目な人事でしょ」
「じゃあ何してたのよ、小児科で」
「子どもと、絵本の内容について熱い論議を交わしてたっス」
「はあ?……あの氷点下医師、とうとう子どもにまで正論パワハラを?」
「怖いこと言うなよ」
「でも如月先生だぞ」
「だから怖いんだよ」
「違うっスって!」
すると山川が、ぶんぶんと首を大きく横に振った。
「全然いつもの氷点下な感じじゃなくて!
ほんと普通に喋ってたんすよ! 子どもと!」
「……普通に?」
「普通にっス!」
「で、それの何がそんなに事件なんだよ」
「だって、あの如月先生がですよ?!」
「……確かに事件だな」
医局が、再びざわつき始めた。
「とりあえず見に行こう」
「それだ」
「俺も行く」
「誉先生は?」
「もう着いてる頃じゃないの!」
「だからはえーよ!」
数分後。
脳神経内科の面々が小児科病棟へたどり着くと、廊下の先に見慣れた後ろ姿があった。
「あ、誉先生いた」
山川が声を潜めながら近づいていく。
だが、すぐに足を止めた。
「……何で泣いてるの、この人」
誉は壁際から病棟の中を覗き込みながら、口元を手で覆い、目元をうっすらと赤くしていた。
「誉先生、大丈夫スか?」
「……カイが」
「はい?」
「カイが……カイが……」
小刻みに震えている誉の様子があまりにもおかしいので、さすがに佐々木まで心配そうな顔になる。
「櫂先生が、どうしたんです?」
「……かわいすぎる……」
一同は、真顔のまま閉口した。
「ハイ重症」
「打つ手無し」
誉はそんな言葉など耳にも入っていない様子で、じっと病棟の中を見つめ続けている。
「だって、見てよ……」
「何をです?」
「あんなに子どもに囲まれて……誰よりも可愛い」
「落ち着いてください」
「誉先生〜、さすがに失礼ですよ〜」
そう言われた誉は、はっとした顔をして、すぐに首を横に振った。
「……そうだね。失言だった」
「よかった、正気に戻った」
そして眉間を押さえながら、ふうと息を吐く。
「かわいさの次元が違う。
同列に並べてはいけない」
「だめだこの人」
「悪化したっス」
山川が呆れながら、誉の肩越しに病棟の中を覗き込む。佐々木はじめ、他のメンバーも次々とそれに続いた。
そして。
「……ほんとだ」
「マジだった」
「なんでうさぎのぬいぐるみ背負ってんの、あの人」
そこには確かに、子どもたちに囲まれて座る、如月 櫂の姿があった。
病棟の一角に設けられた小さな図書スペース。
櫂はその床に敷かれたマットの上へ腰を下ろし、数人の子どもたちと一冊の絵本を囲んでいた。
「いいか、このうさちゃんはな……」
櫂は絵本の一ページを指差しながら、妙に真剣な顔をしていた。
「ここでは逃げたけど、ちゃんと戻ってきてるだろ。そういうのがな、いいとこなんだよ」
「えー、つまんなーい」
「はぁ?!」
その言葉に、櫂が勢いよく顔を上げる。
「オレの推しだぞ!」
「うさちゃん、泣き虫すぎるよー」
「泣きながらでも、最後までがんばってるじゃん!
そこ認めてやれ?!」
「でも、何回も同じ失敗してるよ」
「……」
櫂が一瞬、言葉に詰まる。
「あ、櫂先生。また泣いてる」
「さっきも泣いてた」
「すぐ泣くー」
「……泣いてねえし!
それに、何回失敗しても、立ち上がる強さがあるのが……うさちゃんのすげーとこで……。
つーか、最近のガキは辛辣だな!」
子どもたちが、きゃははと声を上げて笑った。その様子を伺っていた廊下の一団は、揃って黙り込む。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……てか、如月先生、あんな話し方だった?」
「俺も今、それ思った」
「もっとこう、静かに正論で刺してくるタイプじゃなかった?」
「子ども相手だから?」
「だとしても、だ。
いくら使い分けてるとは言っても、人はそんなに変われるもんじゃない」
「しかも普通に言い負かされてるな」
「ほんと、全然負けてるねえ……」
山川が胸を張って、大きく頷いた。
「だから大事件だと言ったっス。
俺も最初、別人かと思ったっス」
「いや、あのカラーリングは如月先生しかいないだろ」
「そりゃそうなんスけど」
その時、一人の子どもが櫂の袖を引っ張った。
「カイ先生、次これ読んで」
「またか? さっき読んだだろ」
「もう一回!」
「なんでだよ。同じ話だぞ」
「いいからー!」
「……しょうがねえな」
ぶつぶつ言いながらも、櫂は素直に差し出された絵本を受け取って開く。ひざに乗ってきた子どもの背を労るように撫で、ゆっくりと絵本を開いた。
「……素直に要求を聞いたぞ」
「あの如月先生が?」
山川が、まるで信じられないものを見るような目で櫂を眺める。一方で、佐々木は小さく息を吐き、呟くように言った。
「……いい顔してるじゃねえか」
「そうね。
いい意味で、肩の力が抜けた感じがする」
「入院前は、ずっと近寄るなって空気出てたもんな」
「……ほんとは、あんな感じの人なのかな」
誰からともなく、もう一度櫂へ視線が集まる。
他の子どもに絵本を取られると、取り返して叱り、その子を反対側の膝に乗せ。
また他の子どもが言う好き勝手な言葉を、子供の戯れ言とせず全て拾い、本気で返す。
子どもたちからは絶えず笑いがあふれ、本当に楽しそうだった。
「……だとするとさ」
「ん?」
「如月先生……。
医局にいた時、相当無理してたんじゃない?」
その一言に、ほんの少しだけ空気が変わった。
「ずっとああいう素の部分を押し込めて、氷点下医師をやってたってことだろ」
「……そりゃ疲れるよな」
「半日で限界だったの、体力だけの問題じゃなかったのかも」
「でも、何で……。
あの感じで来てくれてれば、私たちだって……」
すると誉が、静かに口を開いた。
「臆病なんだよ、あの子。すごくね。
如月 航の弟として、なんとか弱みを見せないように、いつも必死で……。
ずっと頑張りすぎてたんだと思う」
「……」
誉は小さく息をつくと、もう一度櫂を見つめた。
そして。
「まあ、あの氷みたいに冷たい目をしたカイも、すごく可愛かったけどね……。なんていうかこう、あの突き刺さるような刺々しい態度がもう、いじらしくてたまらないっていうか……」
「あーもうだめだこの人」
「結局そこに戻るんすね」
「せっかくいい話をし始めたと思ったのに」
「どんなカイもすごく可愛いんだよ……」
「はいはい」
「結婚発表カンファ以降、まったく隠す気がねえな」
そんなことを話している間にも、櫂は子どもにせがまれるまま、また新しい絵本を開いていた。
「ほら。これはな、このあと——」
だが、不意に途中で、その声が途切れた。
「……っ、けほ……」
櫂は口元を押さえると、小さく咳き込み始める。
「けほっ、げほ……っ」
「カイ先生、おせきしてる」
「だいじょうぶ?」
「大丈夫。ちょっと喋りすぎただけ……っ、けほ」
そう言いながらも、櫂は少し苦しそうに胸元を押さえて半分蹲ってしまう。
すると、ちょうどそこへ看護師がやってきた。
「あらあら。櫂先生もこちらに。
ちょうどよかったですね」
その言葉に、櫂がギクリと肩を震わせながらゆっくりと顔を上げた。
「はい、みんなー。
そろそろお薬のお時間ですよー」
「えー!」
「やだー!」
途端に子どもたちから不満の声が上がる。
櫂は、そんな彼らを見回して、眉を上げた。
「薬はちゃんと飲まないと駄目だぞ。
元気になるために絶対必要なんだからな!」
すると看護師が、にっこりと笑う。
「ええ、櫂先生が仰る通りです。
さあ、櫂先生もネブライザーのお時間ですよ」
「…………」
櫂の顔が、さっと青ざめた。
「…………」
それを目ざとく見ていた子どもたちが、不思議そうに首を傾げた。
「カイ先生、もしかしておくすり嫌いなの?」
「嫌いじゃない。好きじゃないだけだ」
「あー!そーゆーの、キベンっていうんだよ」
「……おっ、お前……頭いいな。
どこでそんな言葉覚えた」
「えへへ」
「いいから、早く行こうよ〜」
別の子どもに急かされ、櫂は露骨に嫌そうな顔をしながら横を向いて言う。
「あー……、オレ。
そろそろリハビリ行かないとな〜……」
「看護師さーん! カイ先生が逃げるー!」
「つかまえてー!」
「バッカ、逃げてねえし!」
立ち上がりかけた櫂が、慌てて否定する。
「リハビリの、よて……っ、けほっ、げほ……!」
「ネブライザー嫌だから逃げたー!」
「逃げてねえし! やるし! ほら、お前らも来い!」
「カイ先生もいっしょー!」
「あーもう、分かったって!」
櫂は観念したように立ち上がり、両手で子どもたちの手を引いて処置室へと向かっていく。
その光景を廊下から眺めながら、山川がぽつりと呟いた。
「……めちゃくちゃ追い込まれてるっスね」
「氷点下医師の面影がねえな」
「子ども、強い……」
その時だった。
「お前ら、脳神経科総出で、こんなとこで何をしてるんだ」
突然背後から聞こえた声に、一団が揃って振り返る。そこには、呆れた顔をした航が立っていた。
「院長!」
「いや、こいつが大事件だというから」
「あっ、先輩ひどいッス。
僕のせいみたいになってるッス」
「まあ、それで来てみたら、櫂先生が……」
「院長、何で如月先生が小児科にいるんです?」
「異動ですか?」
「ああ……」
航もまた、皆と同じ方へと視線を動かした。
ちょうど櫂が、看護師と子どもたちに囲まれ渋々ネブライザーが置いてある処置室に入ろうとしている姿を見ながら、ゆっくりとその方に向かい歩き始める。皆もまた、その後に続いた。
「復帰に向けたリハビリだよ」
「リハビリ?」
「そう。復職の準備を始めたんだ。入院で落ちきった体力が戻ったら、当然、内科に戻す。
また脳神経内科をやらせる予定だよ」
「なんだ、よかった……」
「いや、ほんとによかった」
「もう戻ってきてくれないかと思った……」
口々にそう安堵する面々に、航は苦笑した。
「しばらくは午前中だけ、ここで子どもの遊び相手をさせることにしたんだ。
座ってもできるし、疲れたらすぐ休ませられる。
それに、あいつは内科医だからな。遊びながらでも、具合が悪い子がいればすぐに気づける」
「なるほど……」
皆が納得したように頷く。
その中の一人が、少し言いづらそうに口を開いた。
「あの、失礼ですが……櫂先生。
ずいぶん、その……雰囲気が、違いますね」
「ああ……」
困ったように頭をかく航の隣で、誉が小さく笑った。
「普段は、あんな感じだよねえ。
……はあ、可愛いなあ」
「まあな……。可愛いのは否定しないが」
「兄ちゃん、否定しないんか」
「いや、可愛いだろ。俺の弟だぞ」
「思ったより兄バカだった」
呆れたような声が上がる。
航は「なんだよ」と眉を寄せたが、すぐに、処置室の中で子どもたちに囲まれている櫂へ視線を戻した。
ネブライザーの前の椅子に座らされ、肩を落として大きなため息をついている。
その姿を見つめたまま、航は静かに口を開いた。
「でもまあ、そうだな。
君たちからしたら、そう映るだろうな。
……勤務中の櫂は、分厚い仮面を被って、鎧を着て……まるで別人のようだったから」
「……仮面と、鎧?」
「ああ」
航は小さく息を吐いた。
「あいつは、臆病すぎるんだよ」
一同は、黙ったまま航の話に聞き入っていた。
「怖いと思われるより、自分が怖がってるって知られる方が恐ろしいんだ。
そして、自分の未熟さや、不器用なところがバレるくらいなら、最初から慣れ合わない方がいいと判断してしまった」
「……」
「だから、如月の次男だとか、優秀な医者だとか。そういう肩書きや理屈を何枚も重ねて、理想の『如月 櫂』を作って、演じることで自分を守ってた」
航は、少し先を歩く弟の背中を見ながら続けた。
「今、櫂は、それを一枚ずつ脱ぐ練習を始めたんだ。……櫂自身の意思でな」
「……それで、小児科?」
「ああ。子どもは素直だからな。
怖けりゃ怖いって言うし、嫌なら嫌って言う。
楽しかったら笑うし、好きなら勝手に寄ってくる。
肩書きも家柄も、そんなもの気にしちゃくれない」
その時、処置室の方から甲高い声が響いた。
「カイ先生、はい、お口に当ててくださーい!」
「あーもう貸せ、自分でできる!」
航は、その様子を見て軽く肩をすくめた。
「……まあ、そんな訳で、あんな感じで強制的に剥がされている」
「めちゃくちゃ剥がされてるっスね」
「子どもは、容赦ねえからな……」
小さな笑いが起きた。
航もつられて笑ったあと、脳神経科の面々を振り返った。
「体調が整い次第、復帰させる。
その時はすまんが、また面倒を見てやってくれ。
あいつにとって脳神経科は、大切な居場所なんだ」
「……もちろんですよ」
佐々木がそう答えると、周囲の面々も次々に頷いた。
すると、その時。
処置室の中から、櫂の情けない声が聞こえてきた。
「……ちょっと待って。やっぱ無理かも」
「まだ始まってませんよー」
「始まる前から無理なんだよ……」
一同の視線が、再び櫂へ集まった。
櫂は椅子に座り、ネブライザーを前にして盛大に眉を寄せていた。そんな櫂を取り囲む子どもの一人が、その背中を指差して言った。
「カイ先生、うさちゃん抱っこする?」
櫂は少し迷ったあと、うなだれたまま頷く。
すると、もう一人が背負っていたうさちゃんを外してくれた。
「はい、どーぞ」
「ありがと……」
櫂がうさちゃんを胸に抱き込み、少し姿勢を丸めると、今度は隣にいた子どもが、背中へ小さな手を伸ばす。
「背中なでなでする?」
「……助かる」
「……するんだ」
「即答っスね」
子どもの小さな手が、ぽんぽんと櫂の背中を撫で始めた。
「だいじょうぶだよー」
「……うん」
「すぐ終わるよー」
「……うん」
「子どもに介抱されてるっス!」
「完全に立場逆転してるな」
「さっきまで薬飲めって説教してた人とは思えない」
そんな外野の声など耳に入っていないのか、櫂はうさちゃんを抱きしめながら、看護師から受け取ったマウスピースを渋々口元へ運んだ。
その時、一人の子どもがうさちゃんに付いている紐をつまんだ。
「カイ先生、この紐いいなあ」
「ん?」
「おんぶできるやつ。どこで買ったの?」
「これ?」
櫂は口元の器具を一度外し、自分の肩にかかっていた紐を見ながら、自慢げに返した。
「誉が作ってくれた」
「誉ってだあれ?」
「…………」
櫂の動きが止まった。
思わず観覧者全員が妙に静かになり、固唾を飲んで櫂の次の言葉を待った。
「……こいびと」
少しの間をおいて、櫂がぼそりと言う。
「えー!」
「こいびとー?!」
「バッカ! 声がでかいんだよ、お前ら!」
子どもたちが一斉に騒ぎ出す。
「カイ先生、恋人いるのー?!」
「どんな人ー?!」
「すげー優しくて、カッコよくて……だいすき……」
そして櫂は、真っ赤になりながらうさぎで顔を隠した。
そんな中、佐々木と山川が怖いもの見たさで誉を見上げると、口元を手で覆い、普通に泣いていた。
見てはいけないものを見たような気がして、そっと視線を外す二人の横から、一人が問う。
「……卯月先生が作ったんですか?」
「うん。入院中、何かと使うかなと思って」
「そんなに使うことあります?」
「あと、可愛い」
「絶対そっちが主目的」
「いや、何かと便利だ。助かってる」
「使ってるんかい」
「つーか、あのうさぎ、何なんスか?」
「カイの一番のお友だち」
「待ってくれ。情報が多すぎる」
そんな外野をよそに、看護師は櫂の前にしゃがみ込んだ。
「はい、櫂先生。そろそろ始めますよ」
「……はい」
急にしおらしくなった櫂が、うさちゃんをぎゅっと抱き直す。
「ゆっくりで大丈夫ですからね」
「……ん」
マウスピースを口元へ当てると、機械が低い音を立て始めた。途端に、櫂の眉間へ深い皺が寄る。
「カイ先生、がんばれー!」
「がんばれー!」
先ほどから背中を撫でていた子どもの手が、優しく何度も上下する。
「だいじょうぶだよ」
「すぐ終わるよ」
「……うん」
だが、櫂はしばらくは大人しく吸入を続けていたものの、やがて耐えきれなくなったようにマウスピースを外した。
「……むり」
「まだ半分ですよー」
「気持ち悪い……吐きそう……」
「……少し休みましょうか」
「カイ先生、がんばって!」
「もうちょっとだよ!」
「終わったらシールもらえるよ!」
その一言に、櫂の動きが止まった。
「……シール?」
子どもたちが、一斉に頷く。
「うん!」
「おくすりできたら、もらえるの」
「いっぱいあるよ!」
「……うさぎ、ある?」
「ありますよ」
「……」
櫂は黙って、再びマウスピースを口元へ戻す。
その様子を見ていた一団が、揃って黙り込み、ヒソヒソと話し始める。
「……シールで釣れた」
「指導医なのに?!」
「なるほど。シールでやる気が……」
すると、航が何やら真剣な顔でメモ帳を取り出した。
「院長、メモらない」
「今後の参考に」
「なんの参考だよ」
その間にも、櫂は子どもたちから声援を受けながら、なんとか吸入を続けている。
「あとちょっと!」
「カイ先生、がんばれー!」
「……んん……」
次第にうさちゃんを抱く腕に力が入り、眉間の皺はますます深くなる。
そうしていると、やがて機械の音が止まった。
「はい、おしまいです」
櫂は安心したように息を吐きながらマウスピースを外すと、ぐったりとした様子でうさちゃんへ顔を埋めた。
「……つかれた」
「できたねー!」
「カイ先生、えらい!」
「……当たり前だろ、おとなだぞ」
少しだけ得意そうに顔を上げる。
看護師は笑いながら、小さなケースを取り出した。
「それでは、櫂先生も一枚どうぞ」
「……!」
何種類ものシールを前に、櫂はぱっと目を輝かせると、白いうさぎのシールを一枚、慎重に選ぶ。
「カイ先生、シールカードある?」
「なにそれ」
「シールためるやつ!」
「持ってない」
「じゃあ、もらわなきゃ!」
子どもは当然のように看護師を振り返った。
「カイ先生にもカードあげてー!」
「ふふ、そうですね」
看護師は新しいカードを一枚取り出し、櫂へ差し出した。
「はい、どうぞ」
「……オレにも?」
「もちろんです」
櫂はカードを受け取ると、一番最初の枠へ、先ほど選んだうさぎのシールを丁寧に貼った。
「一個目ー!」
「……一個目」
櫂はそれを満足そうに眺めながら、口元を緩めた。
「いっぱいたまったら、ごほうびもらえるよ」
「ご褒美?」
「うん!」
「ぼく、この前絵本もらった!」
「わたしはぬいぐるみ!」
「へえ……。じゃあオレは、兄さんに携帯型の神経診断機器をご褒美でもらおうっと」
「なにそれ」
「いいのが出たんだよ」
「ふーん」
それを聞いていた航が、静かに顎へ手を添えながらスマホを手に取った。その画面には医療機器メーカーのカタログが開かれている。
「……なるほど。手配させよう」
「出た、弟のおねだり絶対かなえるタイプの兄」
「そういや、新第三手術室に入った計器も如月先生のおねだりの結果だったっスもんね……」
医局メンバーにそんな話をされているとは知らず、櫂は手にしたシールカードを、まだ嬉しそうに眺めていた。
「カイ先生も、いっぱいためてね」
「ごほうび、楽しみだね!」
「……おう、がんばる」
その返事に、子どもたちが嬉しそうに笑う。
櫂もつられるように笑ったあと、手元のカードへ視線を落とした。
「お前ら、いいな。こういうのあって」
「カイ先生は、なかったの?」
「なかったよ」
櫂は、何でもないことのように答えた。
「オレも子どもの頃から、何回も入院してきたけど。病室からもあんまり出られなかったし、こういうのもなかった」
「カイ先生も、入院してたの?」
「うん」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「さみしかった?」
櫂は少しだけ目を伏せた。
「……さみしかったし、今でもさみしいよ」
そのあまりにも素直な言葉に、廊下にいた大人たちは誰も口を挟めなかった。
けれど、子どもたちは深刻そうな顔などしない。
「じゃあ、ぼくと一緒だね」
「わたしも入院いっぱいしてるよ」
「そっか」
一人の子どもが、櫂の腕をぽんぽんと叩いた。
「きっと元気になれるから大丈夫だよ、カイ先生。
泣かないでね」
「泣いてねえし!」
「あー、怒った!」
「カイ先生すぐ怒るー!」
「うるせえ!」
再び、きゃははと笑い声が上がる。
櫂はむっとした顔をしていたが、やがて自分でも堪えきれなくなったように、小さく笑った。
「ほら。
薬も終わったんだから、お前らも戻って休め」
「えー」
「まだ遊びたい」
「今日は終わり。オレも疲れた」
「カイ先生もお昼寝する?」
「する、リハビリの後にな」
「カイ先生も、リハビリしてるんだ!」
「がんばってね!」
「おう」
また笑い声が上がった。
すると、その中の一人が、櫂の袖を引く。
「カイ先生……明日もきてくれる?」
「ん?」
「明日も一緒に絵本読む?」
「わたしも読むー」
「またうさちゃんのやつ!」
「……お前ら、あんなに文句言ってたくせに」
「えへへ」
呆れたようにそう言いながらも、櫂の口元は笑っている。ふうっとわざとらしくため息をつくと、
「……まあ、わかったよ」
と言って、うさぎを抱き直し立ち上がる。
「仕方ねえから、明日も来てやるよ」
「やったー!」
「約束ね!」
「ああ、約束」
子どもたちに見送られながら、櫂は処置室を出る。
「カイ先生、ばいばーい!」
「また明日ー!」
その声に、櫂が振り返った。
そして今度は、迷うことなく大きく手を振る。
「また明日!」
その姿を見ながら、佐々木が小さく笑った。
「……明日も、か」
「来る気満々っスね」
航もまた、少しだけ目を細めた。
「確かに、いいリハビリッスね」
「ふふっ。
ちょっと如月先生のイメージ変わっちゃったね」
「院長、私たち、如月先生が帰ってくるの、楽しみに待ってますね」
「みんな……」
航は少しだけ驚いた顔をしたのち、丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。弟を、よろしく頼む」
「ところで誉先生は、いつまで泣いてるんですか」
「うう、カイ……立派になって……あとかわいい……」
「もうだめだこれ、手の施しようがない」
「はいはい、誉先生。
午後診始まりますから、帰りますよー」
「いや待って、カイを抱きしめてから」
「帰りますよー」
引きずられていく誉を見ながら、航は目を細めた。
——いい仲間に恵まれたな、櫂。
そしてそう心中で呟くと、静かに踵を返した。
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