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4-17.
「…………いや、言い分は分かったが」
深い、深いため息とともに、航がそう言った。
その目の前には、数十枚にもわたるプレゼン資料が映し出されている。
内容は、新院脳神経科における人員推移と、診療実績から見える患者数の変化。
各診療科における新規採用数との比較に、本院からの兼任、応援医師の割合にまで踏み込んでいる。
そして最後は、その中でも特に人手の足りない脳神経科が、管理職の兼任によって辛うじて回っている現状への問題提起と、その対応案で美しく締めくくられていた。
資料だけを見れば、そのまま理事会へ持って行けるレベルの出来だ。
「以上のことから、まず私を現在の内科診療支援部門から、脳神経科専任へ異動させることを提案します」
そう言って対応案のプレゼンを締めくくり、櫂は赤いフレームの眼鏡を指先で押し上げた。
その口調も表情も、完全に仕事中の如月 櫂——身にまとっているのが、誉が入院用に持ち込んだ、真っ白でもこもことした部屋着で、うさちゃんを腕に抱えていること以外は完璧である。
航は目の前の弟をしばらく見つめてから、もう一度資料に視線を落とした。
「……お前さ」
「はい」
「よくその格好で、そんなすました顔でプレゼンができるな」
「内容と服装に関連性はありません」
「あるよ。俺の集中力をかなり揺さぶる」
「それは可哀想に……。
もう少し集中力を鍛えたほうがいいですよ」
「あのな……」
すると、その横で資料を眺めていた満が、ぱちぱちと小さく手を叩いた。
「素晴らしい!」
「おい、吉高」
「わが院の体制上の問題に大きく切り込んだ力作です。このまま理事会へ持っていける完成度です」
「満くん」
「復職に際して、業務遂行能力にはまったく問題がなさそうです。安心しました!」
「満、そうじゃない。
急にテンションを上げるな、腹立つ」
航は再びため息をつくと、額を押さえた。
「それで、まずは脳神経科へ異動したい、と」
「はい」
櫂は画面を切り替えた。
そこには、現在櫂が正式に担当してきた案件が一覧になっていた。
「私は現在、内科コンサルチーム所属ではありますが、これまで正式に担当した案件は、すべて脳神経科領域です」
「……全部? そんなことねえだろ」
「他科からの相談を受け、助言を行ったことはあります。ただし、それらは正式な担当案件ではありません」
櫂は、淡々と続けた。
「診療科横断支援については、今後も要請があれば継続可能です。ですが、実務上ほぼ脳神経科で仕事をしている人間を、診療支援部門に置いておく合理性は低いかと」
「……まあ、それはそうだ。一旦飲み込もう」
「ありがとうございます」
「……まだ言いたいことがありそうな顔してんな」
「はい」
次の資料が開かれる。
「私を脳神経科に異動させた上で、内科副部長とすることを提案します」
「……はあ? なんで急に副部長までいくんだよ」
「私を単なる所属医として異動させた場合、私自身の所属と実務の不一致は解消されます。ですが、脳神経科の管理職不足は何も改善されません」
櫂が画面を切り替えると、現在の業務分担が表示された。
「現在、加藤先生が内科、外科双方の課長職を、卯月副部長が双方の副部長職を兼任しています。私を神経内科副部長とすれば、同一の人事異動で卯月副部長の兼任を一つ解消できます」
「……」
「私は現在担当している難症例相談、脳神経科内の診療支援、必要に応じた診療科横断支援を継続。
その上で、卯月副部長が担っている内科側の管理業務の一部を引き継ぎます」
「脳神経科医局に正式配属となれば、外来や当直、病棟勤務も入る」
「やりません。私の身体能力的に不可能です」
そのはっきりとした物言いに、航の眉がぴくりと跳ねた。だが、櫂はそれを気に留める様子もなく、冷静に続けた。
「副部長職であれば、外来診療や夜勤の担当は必須ではありません。他科にも、管理業務を中心に担当している副部長はいますし、卯月先生もあくまでも緊急時のみの対応ということになっています。
とはいえ、赴任以来、常勤医と変わらず入っているようではありますが……それほど、脳神経科は深刻な人手不足なのだということでしょう」
「……そこまで調べたのか」
「当然です」
「当然なんだ……」
航は露骨に嫌そうな顔をしながら、ずっと資料を見つめたまましばらく黙った。
やがて、重い口を開く。
「……だが、別に副部長に上がるのは、お前じゃなくてもいいだろ」
「はい」
「そこ、認めるのかよ」
「ええ。当然、脳神経内科副部長を専任化することだけが目的であれば、私以外の選択肢もあります」
次の画面に、一人の顔写真と名前が映し出された。
「例えば、加藤先生。現職課長です」
「……まあ、普通に考えりゃそうなるな」
「加藤先生は、臨床経験、管理職経験ともに私を上回ります。昇格としても自然です」
「なら、加藤先生でいいじゃん」
「ですが、最適解ではありません」
「なんで」
「加藤先生を副部長へ上げれば、今度は課長職が空きます。しかも加藤先生も内科外科兼任ですから、厳密には2つ足りません」
「……」
「では、仮にその課長職へ私を入れると……」
「外来と夜勤があるぞ」
「はい。ですから、先ほど申し上げた通り、現状の私では適切ではありません」
航が黙る。
「また、加藤先生は論文、研究、学会活動の実績では、残念ながら他の方に見劣りします。
加藤先生自体はとても優秀な医師です。ですが、あくまでも臨床特化型で、管理職として上へ上げるより、今の立場で現場を任せる方が適任です」
「……うう……それはそう」
「そして、何よりも加藤先生ご本人が現場志向であり、副部長への昇格を望んでいません。
彼、これまでに三度、打診を断っていますよね」
「……お前、そこまで見たのか?」
「上げられるのであれば、とっくに上げていますよね」
「…………」
航は無言のまま櫂を見て、何度目か分からないため息と共に悪態をついた。
「……誰だ、こいつに通常の人事情報どころか機密情報まで全部見られる権限渡したの」
「兄さんです」
櫂が即答し、満が追い打ちをかけた。
「櫂は如月家アカウントなので、もとより閲覧権限が広いんですよ」
「クソッ!まさか過去の人事記録まで掘ると思わねえだろ、普通」
「閲覧可能にしておけば、見られるリスクは常に伴います」
「お前、マジそういうとこだぞ!」
「なお、すべて正規の権限内です」
「分かってるよ!
だからこそ余計に腹が立つんだよ!」
その兄弟のやり取りに、思わず満が肩を震わせた。
航が睨むと、満はコホンと咳払いをする。
「……失礼いたしました」
一方、櫂は気にする素振りも見せず、次の資料を開いた。
「それでは、次に私自身が副部長候補として適切かをご報告いたします」
「まだ続くのかよ……」
「年齢、管理職経験については、他の副部長職にある医師と比較して確かに劣ります」
「そこは理解してたのか」
「ええ、客観的評価です」
櫂は冷静に頷いて、次々に資料を切り替えていく。
「一方、専門医資格、論文実績、研究実績、学会活動、難症例対応実績、診療科横断コンサルトについては不足ありません。
特に論文、研究実績については、現在副部長職にある医師と比較しても上位です」
「……」
「現在の職位も、診療支援部門の課長相当職です。
確かに通常診療実績については相対的に少ないですが、先ほど申し上げた通り、今回想定している副部長業務において、外来、夜勤を新たに担当する必要はありません。さらに……」
さらに、一枚。
今度は、誉との共同症例、共著論文、研究実績が並んでいた。これまでと毛色の違う内容に、航はわずかに目を見開いた。
「……何だこれは」
「卯月副部長との共同実績です」
「見れば分かる。どうして今これが関係あるのかと聞いている」
「過去の共同症例、研究、論文、診療支援実績を比較しています」
「かなりの量だな」
「ええ。ちなみに全て何かしらの賞を頂いてます」
「……嫌な予感がしてきたぞ」
げっそりし始めた航に対し、櫂は臆することなく、そしてごく当然のように言った。
「卯月副部長のパフォーマンスは、私と組ませた方が格段に上がります。その逆も、また然り」
「………やっぱり」
「どうしました?」
「若さま、これは反論のしようがないですね」
「ふふっ」
「ふふっ、じゃねえよ。ドヤ顔すんな腹立つ」
櫂は緩んだ口元をすっと戻して、不満そうに眉を寄せた。
「事実を整理しただけです」
「それはそうだが、その言い方も微妙に腹立つんだよな」
航は机に肘をついて頭を抱えながら、改めて頷く。
「……それで終いか」
「はい。ご清聴、ありがとうございました」
「……」
航は、改めて手元の資料を一通り見返した後、櫂に向き直った。その眼差しが、一気に兄から院長のものへと変わる。
「お前を脳神経科専任にする。その理屈は通ってる。その上で、内科副部長を専任化する必要性と合理性も分かった」
「はい」
「加藤先生を上げるより、お前をそこへ入れた方が今の配置を崩さずに済む。それも分かった」
「はい」
「能力と実績だけを見れば、副部長候補として全く話にならないわけでもない」
その言葉に、櫂の表情がぱっと華やいだ。
「では……」
「ただし」
しかし、すぐに航が櫂の次の言葉を遮った。
「お前には、管理職としての実績がない」
「私は現在、診療支援部門の課長相当職です」
「……名目上はな。だが、部下いねえだろ」
「部下の人数が役職適性を決めるんですか?」
「一人でもいりゃ、マネージメント実績を何とでも説けるが、ゼロじゃ話にならん」
櫂がぷんと膨れて、眉を寄せた。
「私の話についてこられないような、中途半端な部下は不要です。足手まといなので」
「ほら言わんこっちゃない!
マネージメント能力ゼロ!
よくそれで管理職になりたいなんて言えたな!」
航の声が、院長室いっぱいに響いた。
「事実を言ったまでです」
櫂はまるで納得していない様子で眉を寄せ、赤い眼鏡を押し上げた。
「お前、マジでそういうとこだぞ」
航は、心底呆れたようにため息をついた。
「真正面から正論をぶつけても、人の心は動かん」
「では、事実と異なることを伝えるんですか?」
「そうじゃねえ。
言い方とか、相手の気持ちとか、そういう話だよ」
櫂はまるでわからないというように、肩を竦めた。
「気持ちという主観的な評価のために、忖度をするのはどうかと思います」
「……お前なあ」
「判断に必要なのは、事実。
そしてそれを裏付ける数字。それだけです」
「だから……」
すると、それまで二人のやり取りを黙って聞いていた満が、静かに口を開いた。
「ま、事実と数字は、上役の心は動かせますね」
「満、お前まで乗るな」
航が勢いよく振り返り諌めたが、満はまったく意に介さず、机上に広げられた資料へ視線を落とした。
「ですが、若さま。管理職としての実績がないからといって、適性までないとは限りません」
「……どういう意味だよ」
「櫂の言うことは一理あります。
同じ副部長職だからといって、業務を全く同じように二分する必要はありません。
お互い、得意なところを分担させれば良いのです」
満は、画面に映る現在の脳神経科の組織図へ目を向けた。
「脳神経内科と外科が一つの科として動いているのは、他にない我が院の特徴です。もともとは人員不足による、やむを得ない措置ではありましたが」
「……」
「誉と櫂、弊院最凶の二人を副部長に据えることで、それを、強みに変えるのです」
航が顔を上げた。
「内科と外科で役割を完全に切り分けるのではなく、二人の副部長が科全体を見ながら、それぞれ得意な部分を多く担う。そうすれば、内科、外科という垣根に縛られずに動けます」
「……」
「誉は、コーチングが上手い。若手の育成や、日々の現場調整を多めに担っていただく。
一方、櫂は、事実と数字を集めて分析し、それを根拠に上役や他科と交渉することに長けています」
「誉だって、その辺はだいぶ上手いぞ」
「もちろんです。
ですが、それでも櫂には及びません」
満は穏やかに続けた。
「ただ、互いの得意な方へ比重を寄せればいい。
診療でも研究でも、この二人はすでにそうやって互いを補いながら結果を出してきたのでしょう」
「……」
「内科と外科を一つにせざるを得なかったことを、単なる人員不足の名残で終わらせる必要はありません。二つの領域を横断し、動ける診療科にすればいいのです。
うまくいけば、他にない弊院の強みになりますよ」
航は黙ったまま、しばらく組織図を見つめていたが、やがて、ゆっくり満へ視線を向けた。
「……満」
「はい」
「お前、マジでこいつが副部長でいけると思ってるのか?」
「事実を述べているまでです」
「本音は?」
「面白そうなので」
「……はあ。お前も、そういうとこだぞ」
「満兄さん、私たちのことをそこまで……。
ありがとうございます」
「いや、全然褒められてねえからな、気づけ〜」
航は即座にそう突っ込みつつ、改めて机上の資料へ視線を落とした。
そこには、先ほど櫂が示した誉との膨大な共同症例、研究、論文、診療支援実績が並んでいる。
「……まあ」
それからしばらくして、航が低く呟いた。
「診療でも研究でも、お前らが互いの得意なところを使い、結果を出してきたのは事実だ。認めよう」
航はそう言うと、ゆっくり顔を上げて弟を見た。
——と、まあ。
もっともらしいことを言ってはみたが……。
白くてもこもことした部屋着。
腕の中には、うさちゃん。
けれども、赤い眼鏡の奥から向けられるその瞳には、強い意思が宿っている。
——何よりも、櫂が初めて自ら『やりたい』と嘆願して来たことだしな……。
航は、そのまましばらく弟を見つめたあと、長く息を吐き、頷いた。
「……お前の熱意は、よく分かった」
櫂はぱっと顔を明るくする。
「じゃあ、私……」
「だが、そう簡単にはいかない」
そして航はそう言うと、満に目配せをした。
満が二人の間に、すっと一冊の分厚い本を差し出す。櫂はそれを覗き込んで、赤い瞳をぱちくりと瞬いた。
その表紙には、『如月記念病院 及び、系列病院 人事規定』と書かれていた。
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