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5話

その噂が流れ始めたのは、月曜の昼過ぎだった。 「ねえ、聞いた?」 「聞いた聞いた。あの駅前のビル」 休憩室で、女性講師たちがひそひそ声を潜めている。珍しく、全員がスマホを覗き込んでいた。 「大手塾が入るらしいよ」 「しかも、ここから徒歩三分」 「……三分?」 思わず奏汰が聞き返すと、仲のいい講師の結衣が、小さく息を吐きながら頷いた。 「立地、ドン被りだって」 「条件、出されてるらしいよ」 一瞬、言い淀む。何を聞いているのか理解も追いつかなかった。 「……買収か、撤退、らしい」 休憩室の空気が、ぴしりと張りつめた。 「え、それ……」 「うちの塾の話?」 「噂だけどね。でも、結構リアル」 誰かが言った「撤退」という言葉が、妙に重く残る。 奏汰は、無意識にペンを強く握りしめていた。 ___なくなる? この塾が? ◇ 「……司先生」 結局、我慢できなかったのは奏汰だった。 夕方、授業の合間。プリントを整理している司のデスクに、タイミングを計るように一拍置いてから声をかける。 「例の噂なんですけど……」 司は、タブレットから目を上げた。 「ん? 噂?」 「大手塾が、すぐ近くに来るって……うちの塾、買収か撤退、って……」 一瞬だけ、司の指が止まる。 それは本当に一瞬だった。それから、いつもの調子で肩をすくめた。 「うーん。本当かもな」 「……え?」 あまりにも軽い言い方に、覚悟して聞いた奏汰の思考の方が混乱する。 「ほ、本当、なんですか?」 「さあ? まだ正式じゃないけど」 司は椅子にもたれ、腕を組む。 「でも、話ってやつはきてるかもな」 「……じゃあ、この塾……」 奏汰の声が、わずかに震えた。 司はそれに気づいたようにも、気づかないようにも見える。いつも通り、飄々とした口調で言う。 「そんな顔すんな。まだ決まったわけじゃない」 「でも……」 「噂ってのは、広がる方が早いんだよ」 その時、コン、コンと、応接室のドアをノックする音がした。 「失礼します」 低く、穏やかな声。それだけで、空気が一段、静まるのが分かる。 司が、ちらりと時計を見る。 「おっ、来たか」 「え?」 奏汰が振り向くより早く、ドアが開いた。 現れたのは、背筋の伸びた男だった。品のいいスーツに、柔らかな笑み。立っているだけで、その場を自然と支配するような静かな存在感。 「司、久しぶり」 穏やかな声に、司はほんのわずかに口角を上げた。 「おう。久しぶりだな、雪広」 ___雪広。 その名前を聞いた瞬間、奏汰は思わず立ち上がっていた。雪広は、ゆっくりと視線を移し、奏汰を見る。 「ああ……西島くん。元気そうだね」 「雪広先生っ!」 声が、少しだけ上ずる。 奏汰は反射的に、深く頭を下げた。 「お久しぶりです……!」 胸の奥が、じんわりと温かくなる。 ___元校長先生。奏汰が以前勤めていた高校の校長だった人。 それだけじゃない。ニュースで見る、大手塾の経営者であり、大学の学長でもある。 教育界では知らない人がいない王のような存在。 そして、司の塾を奏汰に紹介してくれた人でもある。この塾に来るきっかけを作った人だ。 だからこそ、今ここで再会できたことが、 ただ懐かしい以上に、嬉しかった。 雪広は穏やかに微笑み、司に視線を戻す。 タイプはまるで違う。司は飄々としていて、どこか掴みどころがない。雪広は落ち着いていて、すべてを見通しているようだ。 それでも、この二人は親友だと聞く。奏汰は、その事実を、今さらのように実感していた。 知らず、背筋が伸びる。 雪広は、改めて口を開いた。 「今日はね、少し話があって来たんだ」 柔らかな声音のまま、核心に触れる。 「司の塾の、今後について」 その瞬間。 休憩室でのざわめきも、噂話も、全部が一本の線に繋がった気がした。 司は、ゆっくりと立ち上がる。 「……ああ。俺は特に用はないんだけどな」 そして、いつもの軽い笑みで言った。 「噂が、本当に形になったってことか」 その笑みの奥に、ほんのわずかな緊張が混じった気がして奏汰は目が離せなかった。 塾消滅危機は、噂から、現実へと姿を変えた。

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