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6話

雪広と司は、そのまま別の部屋へ移動していった。 応接室のドアが閉まる。カチリ、と金具が噛む音が、やけに大きく響いた気がした。 その瞬間。部屋に残された講師たちの視線が、一斉に奏汰へと集まる。 「……ねえ」 誰かが口を開いた。逃げ場がない。 「西島くん」 名前を呼ばれただけで、肩がびくりと跳ねる。結衣が、にこっと笑いながら、ぐっと距離を詰めてきた。 近い。いや、近すぎる。 「何、話すんだと思う?」 「買収?撤退?」 別の講師が、横から口を挟む。 「条件提示とか?」 「まさか、今日で決まるとか?」 言葉が重なり、空気が狭くなる。囲まれていく感覚に、奏汰は思わず一歩、後ずさった。 「え、えっと……」 喉が乾く。唾を飲み込んだ音が、自分だけにやけに大きく聞こえた。 「いや、俺も何も……」 本当に、何も知らない。自分だって、さっきまでそんな噂、知らなかったのだ。 それに尊敬していた雪広先生が……この塾を揺さぶる存在だったなんて。それだって今、理解できたことだ。 心臓のあたりが、落ち着かない。 必死に言葉を探そうとした、その時。 「同居してるんでしょ?」 結衣の声は、妙に明るく、即答だった。 「……は?」 思考が、止まる。 「司先生と。一緒に住んでるんでしょ?」 「は、はい……?」 頬が一気に熱くなる。一瞬、頭が真っ白になり、言葉が出てこなかった。 否定しようにも、否定する材料が思いつかない。だって__事実だ… 「ほら、否定しないじゃない!」 結衣が、楽しそうに口角を上げた。 完全に、詰んだ。 別に隠しているわけじゃない。やましいことがあるわけでも……ない。それでも、この状況で何も言えない自分が、やたらと怪しく見える。 「じゃあ今夜、聞き出してきて」 「ぅえ?」 間抜けな声が、口からこぼれた。 「何話したか」 「どうなるか」 「ぜーんぶ」 軽い調子で、次々に言葉が飛んでくる。 「む、無理ですよ!」 思わず、声を張り上げていた。 その反応が、余計に面白かったらしい。 「大丈夫大丈夫」 「西島くんならいけるって」 「むしろ、適任」 無責任な声と笑いが、ぱっと広がる。 なんで俺がっ! そう思うのに、誰も聞いちゃいない。 その日の授業中、奏汰はまったく集中できなかった。ホワイトボードの文字は目に入っているのに、頭に残らない。 何を話したんだろう。司は、何か隠しているんだろうか。この塾は……どうなるんだろう。 胸の奥に、言いようのないざわめきだけが残っていた。 ◇ 夜。司のタワーマンションに戻ると、司はすでにソファに寝転がり、ビールを開けていた。 「おかえり」 「……ただいま」 いつも通りの光景。 なのに今日は、なぜか落ち着かない。 奏汰は何度も言葉を飲み込んだ。視線が、つい司の横顔に吸い寄せられる。テレビの光が頬にちらちらと反射していて、余裕そうで、腹が立つくらい静かだ。 奏汰は、しばらくその横顔を見つめてから、意を決して口を開いた。 「……あの」 「ん?」 司はテレビから目を離さず、気のない返事をする。 「今日の……」 「今日の? なんだ?」 「雪広先生と……何、話してたんですか」 一瞬の沈黙。奏汰の喉がひくりと動く。 やっぱり、聞いちゃダメだっただろうか…と息を止めた、その次の瞬間。 「あー、仕事の話」 司は、驚くほどあっさりと言った。 「……それだけ?」 「それ以外に、何がある」 「いや、その……」 奏汰は言葉を探す。指先が、無意識にズボンの縫い目をなぞっていた。 「塾のこととか……今後とか……」 司はビールを一口飲んで、ようやくこちらを見る。 「なんだよ。気になるのか?」 視線が絡んで、奏汰は一瞬だけ言葉に詰まる。 「……なりますよ!」 少し強めに言ってしまって、慌てて付け足す。 「い、いや……講師として!」 司は小さく笑った。笑ったくせに、目だけは笑っていない気がした。 「まだ、何も決まってねぇよ」 そして、話を切るみたいに言う。 「……そうだ。奏汰、飯食べたか?腹、減ってねぇか?」 「……まあ、すいてますけど」 「はは。そうか。明日は休みだろ?じゃあ、ちょっと付き合えよ」 そう言って、司はぐっと身体を起こした。 空になった缶をテーブルに置き、キッチンへ向かう足取りはやけに軽い。 軽い__のに、どこか逃げ足みたいにも見える。 「ちょっと、付き合えって……」 「いいから。俺の手料理、久々に本領発揮するか」 司は意外にも料理上手だ。 冷蔵庫を開けるなり、迷う様子もなく食材を取り出し、手際よく並べていく。 包丁の音が、リズムよく響いた。 フライパンが温まり、ジュウッ、とオリーブオイルが弾ける。そこにニンニクとベーコンを入れると、香ばしい匂いが一気に立ちのぼった。 トマトソースを加えた瞬間、キッチンいっぱいに広がる酸味と旨み。その匂いに、奏汰の腹が小さく鳴る。 「……おお、美味しそう」 司が肩越しに、ちらりと笑う。 「だろ? 見直したか?」 「最初から料理上手なのは知ってますよ。 それなのに、なんで毎朝、俺に味噌汁作らせるんですか」 「あはは。俺はお前の味噌汁が好きなんだよ。焦げたり、薄かったり、毎日ちょっとずつ味が違うからさ」 「……それ、褒めてます?」 「もちろん褒めてる」 司が笑うと、フライパンからまたいい音がした。その笑いと音のリズムが、なぜか心地いい。 「……なんか、素直に喜べない」 そう言いながらも、奏汰の頬はゆるんでいた。 「よし、できた。一緒に飲もうぜ」 司が笑いながら皿を並べる。テーブルの上には、短時間で作ったとは思えない数品の料理。照明の下で、まるで店のプレートみたいに映えている。 「……ほんと、すごいですね。オシャレで、美味しそうで……もうプロじゃないですか」 「おお! 嬉しいねぇ〜。ほら、食え。冷める前にな」 奏汰はフォークを手に取り、まずはパスタを一口。トマトの酸味と甘みが絡み合い、熱を帯びたソースが舌の上でふわっと広がる。オリーブオイルの香りが追いかけてきて、疲れた体の奥まで、やさしく染みていくようだった。 「……うまい」 「だろ?」 「はい……ほんと、美味しいです」 しばらくは、料理の音と、グラスが触れ合う小さな音だけが、二人の間に響いていた。

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