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7話
お腹がいっぱいになり、ワインボトルが空くたびには、自分の頬がほんのり熱を帯びているのがわかった。
酔っている、というほどじゃない。ただ、体の芯がゆるんで、考えが少しだけ遅れる感じがする。
照明の柔らかな光のせいか、耳の先まで、じんわりと熱い。
「あの……司先生……」
呼んでから、少し間が空いた。
次の言葉が、うまく見つからない。
「ん?」
軽い返事。相変わらず余裕そうな声が、なぜか少しだけ腹立たしい。
「ちゃんと聞いてます? 俺、今日……ほんと、びっくりして……」
語尾が、わずかに伸びる。自分でも分かるくらい、言葉の輪郭が曖昧だ。
司はソファに体を預けたまま、グラスを傾ける。
「あの噂です。まさか雪広先生のところだなんて、思わなかったんです。だから……」
「なんで、まさかなんだよ」
司が、鼻で小さく笑った。
「あいつはな、そういう奴だぞ。きったねぇ手を使うのだって、珍しくねぇ」
「そんなことないです!」
思ったより、大きな声が出た。
自分でも、少し驚く。
「おー? なんだ? あ、そうか。奏汰は雪広のこと崇拝してるもんな」
「崇拝じゃなくて、尊敬です!」
反射的に言い返してから、自分の鼓動が思った以上に速くなっていることに、奏汰は気づいた。
「雪広先生は……ほんとにすごいんですよ」
グラスを手に取り、次のワインをとくとくと注ぐ。液体が揺れるのをぼんやり眺めてから、奏汰はまた口を開いた。
「状況がどれだけ悪くても……感情で判断しないし……ちゃんと全体を見て、最善を選ぶじゃないですか」
少し言葉を探すように、視線が宙を泳ぐ。
「現場の先生の意見も聞くし……生徒の将来のことも、数字だけで切らないし……」
グラスを持つ指先が、わずかに揺れている。
「責任を取るところは自分で引き受けて……決断は早いのに……誰かを切り捨てる感じが、ないんですよね」
ワインを一口含み、ゆっくり息を吐く。
「……ああいう人が上にいると……現場は、安心できるんだなって……思いました」
グラスをテーブルに置き、少し照れたように視線を落とす。
「……だから……仕事してる姿が……すごく格好いいんです」
ほんの一瞬、間を置いてから、柔らかく続けた。
「男として、というより……教育者として、憧れます」
司は、ついに堪えきれなくなったように、肩を震わせて笑った。奏汰が話し始めたあたりから、ずっと笑いを飲み込んでいたのは分かっている。
「やっべぇ……お前、あいつの本性知らねぇな。ドSだぞ、あの男」
「うそですよ!」
少し、前のめりになる。
「教育者としては、司先生の方が知らないんです。雪広先生はチャラチャラしてないし、ちゃんとしてて、男らしくて……!」
語尾が、また伸びる。
「ははっ。……お前、あいつが裏でどんな金回してるか知らねぇだろ。頭はキレるけど、悪魔みたいな経営者だぞ」
「えぇ……」
眉が寄る。頭の中で、雪広の笑顔が浮かんで、すぐに消える。
「そんなふうに言わないでください。あの人は、ちゃんと生徒や学校のこと考えてくれましたから」
司は喉の奥で笑い、ワインを一口飲んだ。
「まぁ、そういういい顔もできるって奴だ。でもな、学校経営だけじゃなくて、教育のビジネスにも手ぇ出してるだろ」
グラスの中で、赤い液体が揺れる。
「だからまた、手広く何かやろうとしてんだよな」
司の言葉に、奏汰は少し黙り込んだ。
雪広を悪く言われたことよりも、司と雪広のあいだに、自分には踏み込めない時間があるのを感じてしまったからだ。
その距離の深さに、なんとなく口を挟む気になれない。
「でも……」
少し間を置いて、ぽつりとこぼす。
「司先生と雪広先生が仲いいって、意外です。タイプ、全然違うのに」
「まぁね。腐れ縁ってやつかな」
やっぱり何か、二人の間には積み重なったものがある。
「でもまぁ……」
司は肩をすくめる。
「あいつが何考えてるか、だいたい分かるくらいには、親友だ」
簡単に切れる関係じゃない。
信頼も、厄介さも、全部込みの親友。
だからこそ。
「……じゃあ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「司先生の塾も……司先生も……」
声が、少し震えた。
震えたことに、あとから気づく。
「雪広先生に、取られちゃうんじゃ……」
言葉にした瞬間、怖くなる。
司は、しばらく何も言わなかった。そして、ぽん、と奏汰は額を軽く叩かれる。
「何言ってんだ」
「い、痛っ」
「取られるかどうかは、俺が決める」
その声は、いつもより少し低かった。
「……心配すんな」
そう言いながらも、その横顔は、ほんの一瞬だけ真剣で、それが、余計に不安を煽る。
「もうっ! だーかーらーっ……!」
自分でも止められないまま、感情が前に出た。奏汰はワインの残ったグラスを、ぐいっと一口飲んだ。
「心配なんですってば。塾だって……司せんせだって、心配!」
自分でも驚くくらい、言葉が止まらない。
考える前に、口が動く。
「ほら、せんせはさぁ……やる時はちゃんとやるし、誰からも信頼されてるでしょ?」
言いながら、奏汰は指先でグラスの縁をなぞる。視線が、少しだけ泳いだ。
「でも……なんていうの? こう……飄々としてて……」
言葉を探すみたいに、間が落ちる。
「は? 何の話だよ」
「だーかーらぁ……」
声が伸びて、拗ねた響きになる。
「雪広先生に……やられちゃうかも、とか……あー、心配!」
勢いで、またグラスを飲み干す。
アルコールが喉を落ちていく感覚に、頭が少しふわっとした。
それから、無意識に司の腕を、軽く突っつく。力は入っていない。むしろ、甘えるみたいな動きだった。
司は、呆れたように息を吐く。
けれど、避けることはせず、ただ肩をすくめただけだった。
「別に、まだ決まってねぇって言ってるだろ。噂になってるのは……まぁ事実だよ。でもな、本当に、まだ何もなってねぇ」
「え〜っ。うそだぁ」
そう言いながら、奏汰は司の顔を覗き込む。
……近い。自分でも、ちょっと距離が近すぎると思う。家だから、だろうか。
「ほら、その顔っ。なんかある顔してる!」
奏汰に言われた司は、こらえきれなかったみたいに噴き出した。
「……お前さ」
笑いを噛み殺しながら言う。
「酔うと、ほんと分かりやすくなるな」
「え〜? そうですかぁ?」
首を傾げた瞬間、視界が少し揺れた。司に指摘されるまでわからなかったが、酔っているのだろうか。だけど、それがなんだか可笑しくて、思わず笑ってしまう。
……そして、司と飲むのは楽しい。
「だって……心配なんですって」
その言葉だけは、酔っていても嘘じゃなかった。
奏汰はしばらく、司の顔を見つめていた。
さっきまで笑っていたはずなのに、ふいに胸の奥がきゅっと締めつけられて、口をへの字に曲げる。
「……」
「なんだよ」
司が、視線だけをこちらに向ける。
「司せんせ」
「ん?」
「……せんせってさ」
言いかけて、言葉が喉で止まる。
どうしてこんなことを考えているのか、自分でもよくわからない。それでも、口は勝手に動いた。
「……モテるでしょ」
「は?」
司が、きょとんと目を瞬かせる。その反応が、少しだけ可笑しかった。
「ほら。生徒にも、保護者にも。講師にも……」
「……急に何の話だ」
「なんでだろ」
グラスを持つ指に、ぎゅっと力が入る。
理由はうまく言えない。ただ、胸の奥がざわついていた。
「こんなに軽そうなのに……要所要所で、ちゃんと逃げ道作ってる感じが、ずるい」
「……は?」
肩がふらっと揺れる。
アルコールのせいだ。たぶん。
「人の前では適当なのに、肝心なところは絶対外さないじゃないですか。……慣れてるっていうか、場数踏んでるっていうか」
「……それ、褒めてんのか?」
「しーらない」
ぷい、とそっぽを向いて、ワインをグラスにドボドボと注ぎ、ぐいっと飲む。
「でも、絶対モテてる。百戦錬磨でしょ」
司は一瞬だけ言葉に詰まり、それから、いつもの調子で笑った。
「おーおー、俺はモテるぞ〜。童貞の奏汰とは違うな」
「げっ! ど、ど、童貞って……なんで知ってるんですかっ!」
突然の矛先に、声が裏返る。
しかも図星だった。
「あははは。そりゃあ、見りゃわかるだろ」
司はワインを傾けながら、悪びれもせず笑っている。その余裕が、酔いの熱と混ざって、じわじわ胸を焦がした。
「ふんっ。童貞の何が悪いんですか! いいじゃないですか、童貞だって!」
開き直るみたいに言い切ってやった。
「あはは、わりぃわりぃ。お前がケラケラ笑ったり、プンスカ怒るのが面白くてさ」
「ひっど! テキトーに外で遊んでるヤリチンより、俺は童貞の方がマシでーす。はーい!」
「おい、人聞き悪ぃぞ。俺はヤリチンじゃねぇ」
わざと眉を上げる司に、奏汰は「ふんっ」とそっぽを向いて、またワインを飲み干す。
「へぇ〜? どーだかねぇ。手、早そうだし。あ、ほら! 俺の部屋にも勝手に入ってきて、エロいことしたし!」
「それはさぁ……お前が可愛いからだろ」
その一言に、奏汰の動きがぴたりと止まる。
「……?」
司は、その反応を面白がるように、にやりと笑った。
「可愛かったら、したくなるに決まってんだろ」
「か、可愛いとかっ……!」
顔が一気に熱くなる。テーブルを指でトントン叩きながら、必死に否定する。
「そんなこと言って、誤魔化されませんから!」
司はグラスを置き、肘をついてこちらを見る。
「誤魔化してねぇよ。……てか、奏汰だって嫌じゃないだろ」
視線が絡む。
「いいノリしてんじゃん」
「ち、違うっ……!」
顔を逸らすけれど、耳まで真っ赤で、反論になっていない。
「とか言って〜。結局、俺ら毎晩一緒だろ。奏汰とエロいことするの、俺は好きだし」
ソファにゆったりと身体を預ける司。グラスの赤が揺れ、その向こうの目がやけに柔らかい。見つめられるだけで、頬が熱くなった。
「……もうっ! そういうこと言うからチャラいって言われるんですよ!」
ぷいっと顔を背け、落ち着かなくグラスを持つ手を動かす。
司がくすりと笑った。指先でグラスの縁をなぞりながら、悪戯っぽく言う。
「……で? 童貞の奏汰くんは、キスとかしたことあんの?」
「はぁ!? ……そ、そんなの、あるに決まってるじゃないですかっ!」
「へぇ〜? まさか夢の中とか言うなよ?そんなオチつまんねぇからな」
「ち、ちがいます! ちゃんと現実です! えっとほら……幼稚園……?」
「……幼稚園?」
司が一瞬まばたきして、次に呆れ顔になる。
「あ〜……つまんねぇ。そんなのキスじゃねぇよ。ノーカウントだな。アイドルみたいな回答すんなって」
「ほんとですって! 仲良かった子がいて、その子と……! あっ、違う、小学校のときもある! あれ……? 俺、けっこう経験してんだな……!コホン」
自分で言いながら、奏汰はだんだん調子に乗って胸を張る。
その様子を見ていた司は、一瞬の沈黙のあと、ぷっ、と吹き出し、次の瞬間には腹を抱えて笑いだした。
「っははははは! お前、それキスって言わねぇよ!全部子供の頃だろ?」
「えーっ!キスですって。未遂もあるし!ていうか、な、なんですかその笑い方っ! 子どもだってキスはキスですっ!」
「いや〜、やばい。マジで癒されるわ……じゃあよ、奏汰」
「な、なんですか」
「そのキスの実力、ちょっと見せてみ?」
「……は?」
思考が遅れる。頭がぐらんとした。
「な、なんでそうなるんですか!」
「したことあるなら、証明しろよ」
一瞬、意味が理解できなかった。酔っているせいもあって、脳のどこかで音が途切れる。時間が遅れて動き出す。
「い、いやいやいやっ、なんでそうなるんですか!? 意味わかんないです!」
「だって、したことあるんだろ? だったら、証明してみろよ」
「な、何言ってんですかっ! バカじゃない!? そんなのっ……」
顔を真っ赤にして叫ぶ奏汰に、司はますます楽しそうに笑った。
ソファにもたれたまま、顎に手を当てて眺めているその顔が、やけに余裕たっぷりで腹が立つ。
「ほら、どうした? 自信あるならやってみろよ。キスの経験豊富なんだろ?さっきそう言ったの、お前だろ」
「っ、……だからって、そんなの、証明するもんじゃ……!」
奏汰は必死に言葉を探しながら、どんどん声が小さくなっていった。
司の目が笑っているのに、奥の方にある熱が妙に真っ直ぐで、視線を逸らせない。
「なに? できねぇの?」
低く、柔らかい声。
その一言に、喉の奥がひくりと動いた。
「……っ、で、できますけど……!」
言ってから、自分で自分の言葉に驚く。
司の眉が少しだけ上がった。
「へぇ。……じゃあ、やってみ?」
挑発めいた笑みのまま、司は身体を少し前に倒した。ワインの香りがふわりと混ざり、奏汰との距離が一気に狭まる。
奏汰の喉が小さく鳴った。手のひらがじんわり汗ばんでいく。ほんの数十センチ先に、司の唇がある。
「……そんな顔すんなよ。噛みつかねぇって」
「だ、だって……そんな近づかれたら…!」
「近づかないとキスできねぇだろ?」
司の声が少し低くなった。気づけば、奏汰の膝がソファに沈み、司との距離はもう息一つ分しかない。
空気が静まり返る。冗談も、照れも、どこかに置き去りにして、ふたりの視線がゆっくりとかち合った。
「……ちょ、ちょっとだけですからねっ!」
「はいはい、怖くないって」
司が軽く身体を前に傾ける。奏汰は目をぎゅっと閉じて、勢いで顔を寄せた。
……ちゅ、と、あっけないほど軽い音。
ほんの一瞬の触れ合い。
なのに、触れた唇が熱を持って離れない。
「……っ……!ほ、ほら、しましたから!」
奏汰が顔を真っ赤にして言うと、司は肩を震わせながら、笑った。
「っはははは!お前、今息止めてたろ!」
「う、うるさいっ!!」
「やべぇ…可愛すぎだな。もう一回する?」
「し、しなくていいですっ!!」
「ん〜、俺はしたいんだけどなぁ?」
にやりと笑う司が、奏汰の顎を指先でそっと持ち上げた。ワインの香りがふっと近づく。
「ま、練習ってことでさ。こうやるんだよ」
そう言って、司は軽く唇を重ねた。ほんの一瞬。押しつけるでも、奪うでもなく、触れるか触れないかの柔らかさだ。
息を呑んだ奏汰の肩が、びくっと震えた。
それを見た司は、小さく笑って、もう一度キスをした。今度は少しだけ長く、ゆっくり唇をなぞられる。
触れたところが、じんわり熱を帯びていく。まるで時間まで止まったみたいに、静かで優しい。
唇が離れると、司はいつもの調子で軽く笑った。
「……ほら、こうやるの。これがキス。子供のとは、ちょっと違うだろ?」
「っ……!」
奏汰は真っ赤になって、ソファの背にもたれた。心臓の音がうるさくて、自分でも恥ずかしくなる。
「……ち、違いすぎです……!」
「ははっ、だろ? 大人のキスは、優しいんだよ。びっくりした?」
「び、びっくりどころじゃ……!」
「ははは。ほら、そんな顔すんな。反則だぞ」
司はふっと笑って、伸ばした手で奏汰の髪をくしゃっと撫でた。
そのまま、軽く引き寄せられる。
トン、と胸に倒れ込む。
びくともしない司の体はあたたかくて、力強くて…なのに、その包み方は驚くほど優しい。そんなところが、ほんとうにずるい。
「……も、もーっ!! も、も、もーーー!
司せんせ、やっぱりチャラい! きらいっ!きらーーーい!!」
顔まで真っ赤にして叫び、奏汰はドンっと司を突き飛ばして、奏汰はベッドルームへ逃げ込んだ。
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