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9話

教室は、いつもより静かだった。 三年生の進路面談を控えた時期。ノートは開かれているのに、視線は定まらず、ペンを持つ手が止まっている。微かに椅子の軋む音だけが浮いていた。 司は教壇に立ったまま、ホワイトボードには一切触れず、腕を組んで教室を見渡す。 すぐには口を開かない。その沈黙が、生徒の背筋を自然と伸ばした。 「なぁ」 軽い声だった。だが、その一言で空気が変わる。 「志望校、もう決めたやつ?」 まばらに手が上がる。周囲を気にしてか、途中で下ろされる手もある。 「じゃあ」 司は教壇から一歩降り、その中の一人を指した。 「佐藤。どこだ」 「……立鏡大学です」 司は、ふっと目を細める。 「ほう。理由は?」 教室が静まり返る。空調の音が、やけに大きい。 「えっと……偏差値が……」 「うん」 否定はしない。司は顎に手を当て、続きを待つ。 「他は?」 「家から近くて……」 「なるほど」 小さく頷く。 「それも立派な理由だ」 張りつめていた空気が、わずかに緩む。 「じゃあ、もう一つ」 司は少し間を置いてから言う。 「なんで、そこに行きたい気がするんだ?」 佐藤は言葉に詰まり、視線をノートへ落とす。指先がページの端をいじるが、司は急かさない。ただ、答えが出てくるのを待っている。 「……なんとなく、なんです…けど」 正直な声だった。 「うん」 司は頷くだけだ。 「そのなんとなく、もう一段いけるか?」 促すような声に、佐藤は一度息を吸ってから続ける。 「……自分、国語の成績が一番よくて。文章読むのとか、書くのはわりと嫌いじゃなくて、だから、そこの文学部かなって……」 言い終えたあと、不安そうに司を見る。 「おお」 司の声が、少し明るくなる。 「いいじゃねぇか。かなり具体的だ」 教室の空気が、はっきりと動いた。 「偏差値と距離だけじゃなくて、自分が何ならできそうかまで考えてる」 司は、はっきりと言う。 「それ、立派な理由だぞ」 佐藤の肩から、力が抜ける。 「なんとなくでもいい。でもな」 司は、少しだけ声を落とした。 「選ぶってことは、他を選ばないってことだ」 空気が引き締まり、自然と姿勢を正す生徒が増える。 「進路はな」 司は教室の端まで歩く。 「正解を当てるゲームじゃねぇ」 立ち止まり、振り返る。 「選んだ道を、正解にしていく覚悟の話だ」 黒板の前に戻り、足を止める。 「理由は、あとから育てりゃいい」 後ろで見ている講師たちからも、息を呑む気配が伝わってくる。 「でも、理由を考えようとしなかったら、進んだ先で必ず迷う」 生徒たちの視線が、自然と司に集まっていた。 「だから、もう一度聞く」 司は同じ問いを投げる。 「なんで、そこに行く?」 沈黙。だが、先ほどとは違う、考えるための沈黙だった。 「……行きたいところの…その大学の学部でやってる研究が、ちょっと面白そうで」 別の生徒が、恐る恐る手を挙げる。 「いいな」 司の口元が緩む。 「それで十分だ」 「正解か不正解かじゃねぇ」 生徒を見る。 「自分で考えた。それが一番大事だ」 奏汰は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。司は一度も、偏差値も、合格率も、成績も口にしない。 「俺の授業で覚えてほしいのはな」 前置きして、司は続ける。 「進路は、逃げ道じゃねぇ」 一瞬、間を置く。 「選んだ場所だ」 肩の力を抜くように、司は言った。 「先に言っとく」 モニターにもホワイトボードにも触れず、司は言葉だけで続けた。 「高校生のうちに、将来の職業まで決まってるやつなんて、ほとんどいねぇ」 生徒の表情が、少し和らぐ。 「正直な話」 司は笑った。 「大半は、サラリーマンか、OLか、まあ、そんな感じになる」 小さな笑いが起きる。 「それでいい」 きっぱりと言う。 「無理に夢を作る必要はねぇ。立派な志望理由も、最初はいらない」 奏汰は息をのむ。 「でもな」 司は指を立てる。 「理由は、作れ」 空気が変わる。 「この学校を選ぶ理由。この学部を選ぶ理由。この道に、少しでも惹かれた理由」 一人ひとりを見る。 「浅くていい。仮でもいい。でも、自分の言葉で言え」 司は声を低くする。 「選んだ瞬間に、その道に可能性があるって決める行為だ」 「選ばなきゃ、何も始まらない」 誰も口を開かず、教室の中に、考えるための時間だけが流れた。 「だから、困ったら頼れ」 司は講師席の方へ視線を向ける。 「理由が見つからなきゃ、俺たちに聞け」 「大学のこと。仕事のこと。その先の生き方のこと」 「答えられるやつが、ここにはたくさんいる」 司は言葉を切り、全員がその意味を飲み込むのを待った。 「そのために、俺たちはここにいる。この塾は、そのためにある」 教室に、深い静けさが落ちる。そのまま、ベルが鳴った。 「はい、今日はここまで」 司は一転、いつもの調子で手をひらひら振る。 「次、各自『なんとなく』を言葉にしてこい。じゃーな」 生徒たちが、ざわりと立ち上がり、教室を出ていく。 奏汰はしばらく、その背中を見送ってから、司を見た。塾をやっている理由。生徒に向き合う理由。それが、今、はっきり分かった気がした。 司は教壇から降りながら、いつもの軽い声で言う。 「な? 勉強って、案外人生の話だろ」 奏汰は答えられなかった。ただ、この塾がなくなったら困る理由だけは、もう誤魔化せなかった。

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