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10話
昼休み、駅前のカフェでのことだった。
「……西島くん?」
聞き慣れた、穏やかな声。振り向いた瞬間、奏汰は反射的に背筋を伸ばしていた。
「雪広先生……!」
思わず声が上ずる。そこに立っていたのは、かつて自分が教師として勤めていた高校の元校長__雪広だった。
「久しぶりだね。元気そうで安心したよ」
変わらない柔らかな笑み。あの頃と同じ、周囲を自然と落ち着かせる空気。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
厳しかったけれど、きちんと見てくれていた人。教師としての自分を、初めて一人前と認めてくれた大人。
「お昼か? よかったら、少し話さないか」
「はい!」
即答だった。
断る理由なんて、どこにもなかった。
カフェの奥の席に腰を下ろし、コーヒーを手にする。久しぶりの再会に、仕事のこと、近況のことをぽつぽつと話した。
奏汰は、雪広が校長を務めていた高校を辞めた。教師を続けるべきか迷っていた頃、司の塾を紹介された。そして今、ここにいる。
「司のところ、どうだ」
カップを置きながら、雪広が穏やかに尋ねる。
「忙しいか?」
「……はい。忙しいですけど、楽しいです」
その言葉に、嘘はなかった。あの塾で過ごす時間は、確かに充実している。
「君が入ってから、雰囲気がいいと聞いている」
軽い調子なのに、視線は真っ直ぐだった。
社交辞令じゃない。ちゃんと見ている人の言い方だ。
柔らかな声のまま、視線だけが奏汰を捉える。
「君を司の塾に紹介したのは、間違いじゃないと思っている」
その言葉に、奏汰は少しだけ肩の力を抜いた。
「ただ__」
ゆっくりと間が置かれる。
「少し、もったいないとも思っている」
「……もったいない、ですか」
「そう」
雪広は穏やかに頷いた。
そして、次の言葉が、あまりにも自然に、静かに落とされた。
「……うちに来ないか」
「……え?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「君は、もっと大きな場所でやれる。人数も、環境も、影響力も、司の塾とは比べものにならない」
淡々と、事実だけを並べる口調。そこに感情はない。重く感じる。
「私が経営している塾なら、裁量も与えられる。給与も、今の倍は出せる。肩書きも、将来のポストも用意できる」
条件は、現実的で、魅力的だった。
講師として、生活を考えれば、誰もが一度は頷く内容だ。
「司のところは……この先、危うくなるだろう」
責めるでも、突き放すでもない。ただ事実を並べるような、評価する側の冷静な一言だった。
「理念はいい。だが、理念だけで塾は守れない」
その言葉に、奏汰の胸がきゅっと縮む。
「君が、どこを選ぶかは自由だ」
雪広はそう前置きしてから、視線を少しだけ細めた。
「ただ、選択肢は知っておいた方がいい。
好きな場所と生き残れる場所は、必ずしも同じじゃない」
沈黙が落ちる。
雪広は、奏汰の反応を急かさない。
「……司のところで働くのが、悪いとは言わない」
そう言ってから、ほんのわずかに笑う。
「だが、君ほどの人材を、あの規模に留めておくのは惜しい。それが、経営者としての率直な感想だ」
奏汰は、静かに息を吸った。
「……ありがとうございます」
一度、言葉を選ぶ。
「でも、行きません」
即答だった。雪広の表情は、変わらない。
驚きも、落胆もない。
「理由は?」
「司先生の塾で、やりたいことがあるからです」
それだけで、十分だった。
雪広は、数秒、奏汰を見つめてから、ふっと息を吐く。
「そうか」
その声には、どこか納得したような響きがあった。
「……やはり、司のところに行く人間だな」
独り言のように、そう呟く。
最後まで、柔らかな笑みは崩れなかった。
◇
春の夜風が、思ったよりも冷たかった。
塾からの帰り道、足取りがどうにも落ち着かない。
雪広との会話が、何度も頭をよぎる。
突然の誘いには、正直、驚いた。
そして条件は、あまりにも良かった。
不安にならないはずがない。
けれど、それ以上に胸をざわつかせたのは、こうやって講師は引き抜かれていくのか、という現実だった。
考えただけで、身体の奥がひやりとする。
司の塾には、派手な待遇も、巨大な看板もない。あるのは、人と、人の考え方だけだ。授業の空気や、言葉の積み重ねや、
生徒一人ひとりに向き合う時間だ。
雪広の声が、胸の内で静かに響く。
『司のところは……この先、危うくなるだろう』
その一言が、じわじわと不安を広げていく。
やがて、タワーマンションの灯りが視界に入った。もうすっかり見慣れたはずの明かりなのに、今日はどこか心細い。
胸の奥に、拭いきれない重みを抱えたまま、奏汰は歩調を早め、家路を急いだ。
「……ただいま」
リビングではテレビがついていて、司がソファの背もたれにだらりと身体を預けていた。
「おかえり〜……って、なんだ。どうした? でっかい犬にでも噛みつかれたか?」
「噛まれませんよ! ていうか、なんですかそのでっかい犬って」
「じゃあなんだよ、その顔。あっ、あれか〜? 財布落としたんだろ」
「……違いますけど」
「うーん……あっ! 髪切った?そうか、変な髪型にされたのか。……いや、でも意外と似合ってるぞ? 大丈夫だ」
「切ってません! 朝と何も変わってません。変な髪型って、失礼ですね……もう、全部違いますって」
むくれながらコートを脱いでいると、司は構わずにまた声をかけてくる。
「なにか食べるか〜? もう食ってきた?」
「いえ、まだです……でも、食欲ない」
「どうせまた悩んでんだろ。顔に書いてあるぜ」
振り向くと、ちょいちょいと手招きされる。しぶしぶ近づくと、司はソファの横のスペースをぽんぽんと叩き、座るように促した。
奏汰はため息をつきながら、腰をおろす。
「……司先生、なんでも見抜きすぎです」
「お前が分かりやすすぎんだよ」
そう言いながら、司はぽすっと奏汰の頭に手を置いた。
撫でる、というより、わしゃわしゃと、仔犬を扱うみたいに少し乱暴にだ。
「うわっ、ちょ、やめ……っ!」
「うるせぇ。こうすると落ち着くだろ」
「落ち着きません! 全然! ほら、やめてくださいって!」
「はい嘘〜。そう言いながら、力抜けてんぞ」
司はくすっと笑い、ガシガシと撫でていた手をようやく止めた。
そのまま一度、背もたれにどかっと身体を預ける。ソファが小さく軋む音がして、空気がふっと緩んだ。
そして今度は、奏汰を引き寄せるでもなく突き放すでもなく、先生に回した腕の中で、ゆっくりと手を動かし始める。
後頭部から首筋へ、指先でなぞるように。
さっきまでの勢いとは違って、確かめるみたいな、落ち着いた撫で方だった。
「……今日、雪広先生に会ったんです」
ぽつり、と奏汰が言った。
「偶然。ランチの時に」
司は、テレビに向けていた視線をちらりと奏汰に落とす。
「ふーん……で?」
促すような、軽い声。
「……うちの塾に来ないかって。誘われました」
一瞬、司の指の動きが止まる。
「……ほう」
「でも、断りました」
少しだけ間を置いて、続けた。
「今のままがいいって、言いました。それに……正直、びっくりして」
「断ったの?」
司が、少し意外そうに眉を上げる。
「あいつのとこ、待遇いいだろ。金も肩書きも、ちゃんと出すし」
「そりゃ、言ってましたけど……」
奏汰は、指先をぎゅっと握る。
「でも、俺は今の塾がいいです。それより……こうやって引き抜きするんだなって思って」
司は、ふっと息を吐いた。
「まぁ、あいつ強引だからな。優秀そうなの見つけたら、とりあえず声かけるか」
「でも……」
奏汰は、思わず声を強めた。
「雪広先生が直接条件出したら、みんな行っちゃいますよ。絶対」
「あ〜……まぁなぁ」
困ったような口調。けれど、その横顔は、どこか余裕があって、本気で焦っているようには見えない。
「そりゃ、困るな〜」
言葉とは裏腹に、司は軽く笑う。
「でもさ……」
撫でている手を止めずに、司は続けた。
「雪広がわざわざ奏汰に声かけたの、ちょっと珍しいな」
「え?」
「引き抜きなんて、あいつからしたら面倒くさいことだぞ」
司は、少し考えるように天井を見た。
「新しい塾を展開するから、人が足りないとか……?」
「いや、それは違う」
即答だった。
「講師なんて、あいつにとっちゃ替えがきく」
奏汰の胸が、きゅっと縮む。
「……替えが、きく?」
「内容より効率。生徒の気持ちより成績。で、最終的に儲かればOK」
司は、淡々と言った。
「会社をデカくしてナンボ。だから、従業員なんて、駒だよ駒」
奏汰は、思わず顔を上げた。
「そんな言い方……」
「雪広先生は、そんな人じゃありません!」
勢いよく言葉が飛び出す。
「教育理念だってあるし、大人で、優しくて……男気もあって!」
司は、くっと喉で笑った。
「あはは……だから言ってんだろ」
少しだけ声を落とす。
「あいつは、そう見せるのが上手いんだよ」
そして、奏汰の髪を、くしゃっと一度だけ撫でた。
「中身はな、冷酷無比のドS様だ」
司は軽く笑いながら言ったけれど、撫でていた手は、さっきよりも少しだけゆっくりになっていた。
「……じゃあ」
奏汰は、喉の奥で一度息を詰まらせてから続ける。
「どうしたらいいんですか。他の先生にも……声、かけちゃうんじゃ……」
不安が、そのまま言葉になった。
司の塾。講師たちの顔。さっきの教室の空気が、頭をよぎる。
司は、少しだけ目を細めた。
「ああ……まぁ、やるだろうな」
さらりと言って、肩をすくめる。
「雪広は、欲しいと思ったもんは手に入れないと気が済まねぇタイプだ」
その言い方は、責めるというより、よく知っている人間の分析だった。
「じゃあ……」
奏汰の声が、ほんの少し小さくなる。
「……どうしたら」
その続きを、司が先に取った。
「雪広が手ぇ出しすぎたら、俺が止める」
低く、迷いのない声。
奏汰は、思わず顔を上げた。
「……司先生が?」
「ああ」
司は、ようやく奏汰の方をちゃんと見た。
「そういう時のために、俺がいるわけで」
それだけ言って、あとは何事もないみたいに、もう一度髪を撫でる。
いつもなら冗談混じりで流すくせに、今は余計な言葉がない。その静けさが、逆に重かった。
いつもチャラチャラして、冗談ばかり言って、掴みどころがないのに。仕事の話になると、とたんに芯が通る。奏汰は、無意識のうちに司の横顔を見つめていた。
すると、その視線に気づいたのか、司がふっと口角を上げた。
「……なんだよ」
ニヤッと、いつもの顔に戻る。
「そんな見つめんなよ。キスすんぞ」
「っっ……! だ、だれが見つめて…っ」
言い終わる前に、司がひょいと顔を寄せてきた。唇は触れない。触れないぎりぎりの距離で、ぴたりと止まる。
「ほら……ビビってる」
「ビビってない!!」
「じゃあ来いよ」
「む、無理です!!」
司が吹き出した。
「あははは、ほんっと、お前ってわっかりやすいなぁ」
そう言いながら、奏汰のほっぺをつまんで、軽く引っ張る。
「いっ……! 痛いですってば!」
「嘘だな。全然痛がってねぇ顔してる」
司は面白そうに笑いながら、今度は頬を撫でるように指先でなぞった。
その瞬間、体の奥がびくりと跳ねる。
奏汰は慌ててソファに背を押しつけた。
「や、やめ……!」
「やめない」
「うそでしょ……」
「嘘じゃねぇよ。ほら、こっち向け」
司の指が、軽く顎をつつく。
逸らしたいのに、逸らせない。
距離が近い。吐息が触れる。
目が合うたび、胸が苦しくなる。
「……司先生」
小さく名前を呼んだ。
それだけで、司の表情がふっと柔らかくなる。
「……なんでそんな顔すんだよ」
そう言って、司は笑いながら、そっと奏汰の頭を自分の肩に引き寄せた。
逃げ場はない。でも、逃げたいとも思えなかった。名前を呼んだだけなのに、涙が出そうになる。
奏汰が司の肩に額を寄せた、その瞬間。
ぎゅっと、力強く抱きしめられた。
「……司先生、」
「お前が勝手に俺を好きになってるだけだろ?」
「は? なってません!!」
あまりにも的外れな一言に、奏汰は反射的に言い返す。その様子を見て、司はまた楽しそうに笑った。
「とか言って〜。お前、心臓の音、丸聞こえだぞ」
わざとふざけるように、耳元へ顔を寄せる。
「ドッドッドッってな。分かりやすいにも程がある」
「っ……だからこれは違うって……!」
抗議しようとすると、司は「はいはい」と軽く受け流した。
抱きしめられているのに、その態度はいつも通りで。だから余計に、安心してしまうのが悔しい。
「……ほら。じっとしてろ」
何でもないことのように、顔が寄せられる。
「え、ちょ、ま、まっ、」
抵抗の声は、キスで全部飲み込まれた。
そのキスは、驚くほど軽かった。
触れたか触れないか分からないくらい、息をするのと同じくらい自然なキスだ。
その温度に、強張っていた体が、ふっと緩む。司は離れ際、いつもの調子で言った。
「ほら、落ち着いたか?」
「おち、つ……」
「落ち着けよ。深刻な顔すんなって」
からかっているようで、触れ方だけは、どこまでも優しい。奏汰が言葉を失って固まっていると、司が笑う。
「そんなにびっくりするほどのもんか?」
「……するに決まってるじゃないですか……」
「お前は大げさなんだよ。初めてでもあるまいし」
そう言いながら、また軽く頬に触れる。
安心させるみたいに、指先でそっと撫でて、もう一度、触れるだけのキスをされる。
本当に一瞬なのに、胸の奥がじん、と熱くなった。
「別に、意味深にしたくてやってんじゃねぇよ」
「……」
「お前、悩むと顔が固まって頭止まるから。そのリセット」
理由はあくまで実務的。感情を濁さない言い方。奏汰の喉が、小さく鳴った。
「……司先生、やっぱりずるいです」
「は? どこが」
司は、あくまで軽く笑う。
「ただの応急処置だろ。ほら、息しろ」
奏汰はゆっくり深呼吸をした。
胸の鼓動はまだ速いままなのに、頭の中だけが、不思議と少し楽になっていた。
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