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12話

噂は、いつの間にか聞かれなくなっていた。 駅前の再開発ビルの話も、買収だ撤退だという話も、忙しい日常の中で少しずつ薄れていき、誰もが「結局、何も起きなかったんだろう」と思い始めていた。 動き出したのは、忘れかけた頃だった。 駅前ビルの一階に、大きな看板が掲げられた。白地に、無駄のないフォント。 ___NEXAアカデミー それが何を意味するのか、説明はいらなかった。 開校は静かだ。派手なチラシも、街頭での呼び込みもない。ただ、ウェブ広告と、保護者向けの説明会が淡々と行われただけ。 それでも、確実に、流れは生まれた。 最初に辞めたのは、非常勤の講師だった。 「条件が良くて」「将来を考えて」と、誰もが納得できる理由を添えた。 次は、常勤の講師が一人。 送別会は開かれたが、笑顔の奥に、どこか割り切れない空気が残った。 そして、生徒もだ。 退塾の連絡は、あくまで丁寧だった。 「家から近いので」 「設備が整っていて」 「大手なので安心で」 責める言葉は、どこにもなかった。 だが、数字は正直だった。 月末の報告書で、入会数が減り、退会数が微かに上回る。一人、また一人と、静かに名前が消えていく。 教室は、少しだけ広くなったように感じられた。自習室の席が、いつもより空いている。講師室のコーヒーカップが、減らなくなった。 誰も大声で不安を口にしない。 だから余計に、重さだけが溜まっていく。 司の塾は、まだ続いている。すぐに潰れるわけでも、崩れるわけでもない。 派手な破壊ではない。けれど、音もなく、少しずつ、体力を奪われていく消耗のような感じが広がっていく。 雪広は、正面から向かってこない。ただ、隣に立ち、条件を示し、選ばせているだけだった。 そして、そのやり方が、いちばん厄介だということを、司も、講師たちも、もう分かり始めていた。 ◇ 雪広が訪ねてきたのは、夜だった。 チャイムが鳴り、司がインターホンを確認した瞬間、ほんの一瞬、空気が変わる。 「……来たか」 ドアを開けると、そこには想像通りの姿があった。きっちりとしたコート。無駄のない佇まい。駅前で見かけたら、それだけで噂になる男。 「久しぶり、司」 「わざわざご苦労さん。塾じゃ目立ちすぎるからな」 「分かっている。今日は静かな話をしに来た」 淡々とした口調のまま、雪広は部屋に入る。リビングの奥から、気配を察して奏汰が顔を出した。 「……雪広、先生」 「やあ、西島くん。突然すまないね」 その声音は柔らかい。けれど、その視線はすでに司へと戻っていた。 ソファに腰を下ろすと、雪広は前置きもなく切り出す。奏汰がそこにいることなど、最初から計算に入っているかのようだ。 「講師は全員、こちらで引き取る」 空気が、一段冷えた。 その言葉を聞いた瞬間、奏汰は自分が自室へ引っ込むタイミングを、完全に失ってしまったことを悟る。 「生徒も、希望者は受け入れる。学年も、コースも、そのままだ」 司はすぐには答えない。 コーヒーに手を伸ばし、一口飲んでから、ようやく口を開いた。 「……随分と手早いな」 「時間をかける意味がないからね」 「そうだな。選ばせる時間を与えない方が、流れはきれいだ」 雪広は、わずかに目を細める。 「君は今のままでいい。現場責任者として、名前は残す」 まるで配慮のような言葉。けれど、その内容は完全に買収だった。 「塾は存続させる。ただし名前は変える。 NEXAアカデミーという形だ」 司の口元が、わずかに歪む。 「……要するに、骨組みだけ残して中身は全部持っていく、と」 「合理的だろう」 「合理的、ね」 司は背もたれに軽く体を預ける。 「確かに、数字だけ見りゃ合理的だ。でもそれ、俺の塾じゃなくて、素材として見てるだろ」 「結果が出ている以上、素材として優秀なのは事実だ」 「そこだな」 司は、声を荒げない。 ただ、淡々と続ける。 「俺はな、結果が出る場所として作った覚えはあるけど、結果だけ出りゃいい場所にした覚えはねぇんだ」 雪広は何も言わない。その沈黙を、司は承知の上で言葉を重ねる。 「講師も、生徒も、今ここにいる理由が偏差値やブランドだけなら、とっくに出ていってる」 言葉が、部屋の中に落ちたまま、しばらく動かなかった。 「……それでも残ってる奴らがいる。 それを、俺は切り捨てる気はない」 雪広が、静かに息を吐く。 「司、感情論だ」 「そうかもな」 司は即座に認める。 「でも、感情を計算に入れない経営は、長持ちしねぇ」 「君のやり方では、消耗戦になる」 「分かってる」 司は視線を逸らさない。 「それでも、俺は折れねぇ。守るために妥協するなら、最初から守った意味がない」 しん、とした沈黙が落ちる。 雪広は、しばらく司を見つめてから、ゆっくりと言った。 「……相変わらずだな」 それは評価とも、呆れとも取れる声だった。 「司、決断が遅れれば遅れるほど、現場は疲弊する」 責めるでも、脅すでもない。ただ、事実だけを積み重ねるような言い方だった。 「私の塾が、君の塾の徒歩圏にある以上、 生徒は比較する。講師も迷う」 淡々と、数字を読むように続ける。 「君がどれだけ理念を語ろうと、規模と広告と実績の前では、勝ち目はない」 一瞬の間も置かず、雪広は結論を置く。 「君の塾は、静かに削られていく。なくなるまでの時間の問題だ」 その言葉は、宣告に近かった。 「これは救済だ。君の塾を、無傷で残す唯一の方法でもある」 司は、しばらく黙っていた。重たい沈黙。 やがて、肩をすくめる。 「……ずいぶん親切だな」 「教育者としてだよ」 雪広は微笑む。 「無駄な消耗戦は、誰のためにもならない」 そう言い残し、雪広は立ち上がった。 「返事は急がなくていい。ただし、時間は君の味方じゃない」 玄関に向かいながら、ふと思い出したように足を止める。そして、くるりと振り返った。 「ところで、西島くん」 「……はい」 呼ばれた瞬間、奏汰は反射的に背筋を伸ばした。雪広は部屋を一度ぐるりと見回し、ほんの少し首を傾ける。 「……なぜ、君は司と一緒に暮らしているんだ?」 一瞬、空気が止まった。 「……え?」 あまりに唐突な問いに、言葉が追いつかない。 「いや、純粋な疑問だよ。塾の講師と経営者が同居する理由が、私には思いつかなくてね」 その瞬間、司が耐えきれずに吹き出した。 「はははは! そこ気にすんの、意外すぎだろ」 「意外か?」 「お前、そこ一番どうでもいいとこじゃねぇの?」 奏汰の顔が、みるみるうちに赤くなる。 「あ、あの……事情があって……」 「事情?」 「い、いろいろです……その……」 必死に言葉を探す様子に、雪広は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく息を漏らすように笑った。 「……なるほど」 腕を組み、今度は司へと視線を流す。穏やかな笑みのまま、その奥に探るような色が宿る。 「それにしても司。お前は本当に……ろくでもないな」 「はぁ? なんで俺が言われんだよ」 「日頃の行いと過去を見れば当然だろ。褒められた履歴が、ひとつもない」 「おいおい、言うじゃねぇか。お前だって似たようなもんだろ」 「私は不可抗力だ。お前のとは性質が違う」 「はいはい。便利な言い訳だな」 鼻で笑い合いながらも、声の調子はどこか懐かしげだった。 「……まあいい」 雪広は視線を奏汰に戻す。 「西島くん。何か困ったことがあれば、私に相談して構わない。司の扱い方なら、いくらでも教えられる」 「おいおい、ちょっと待て」 「それと__」 言葉を区切り、にこやかに続ける。 「私の塾への転職も、選択肢としては常に開けておいてくれ」 「おい!雪広。俺の前で堂々と引き抜きすんな」 先ほどまでの張りつめた空気は、すっかり和らいでいた。 「返事を待っているよ、司」 そう言い残し、雪広はドアへ向かう。静かに扉が閉まった。残された部屋で、奏汰が小さく息を吐く。 「……緊張しました」 「そうか?」 司はソファに深く腰を沈め、ため息混じりに笑った。 「ま、あいつらしいっちゃ、あいつらしいな」 雪広の立ち振る舞いと言葉には、怖さも計算も、すべてが含まれている気がした。 奏汰は、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。

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