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13話
教室に入った瞬間、違和感ははっきりと分かった。
……空いている。
以前なら埋まっていたはずの席に、ぽつぽつと空白がある。三年生のクラス、教室は妙に静かだった。
奏汰は、無意識に出席表へ目を落とす。
減った名前。丸がつかない行。それを数える自分の指先が、少しだけ重い。
廊下に出ても、同じだった。掲示板に貼られた講座一覧。名前が減り、紙が剥がされた跡だけが残っている。
流れている…
駅前の新しい塾、NEXAアカデミーへ。
事務室は、電話が鳴らず、問い合わせのランプも点かない。
司はデスクに座り、モニターを眺めている。画面に映るのは、入塾数と退塾数。赤い数字が、淡々と並んでいた。
「……ふーん」
司はそれだけ言って、キーボードから手を離す。椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
表情は、いつも通りだ。軽くて、余裕があるように見える。けれど、奏汰は、なぜかその背中から目を離せなかった。
声をかけていいのか分からない。何事にも触れない方がいいのか。
司は何も言わない。数字を責めることもしない。誰かを呼びつけることもない。ただ、静かに見ている。それが、なぜか怖かった。
休憩室では、講師たちが集まっていた。
「……やっぱ、減ってるよね」
結衣が小さな声に、誰も否定しなかった。
「問い合わせ、先月の半分以下だって」
「生徒、向こうに行った子も多いし…」
言葉が途切れる。
「……司先生、このまま売り渡すのかな」
「時間の問題、ってやつかもな」
その一言で、場の空気が凍りついた。
誰も次の言葉を続けられない。
奏汰は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じていた。
◇
夜の塾は、静かすぎるほど静かだった。
授業が終わり、生徒が帰ったあと、奏汰は廊下の端から、事務スペースを覗いた。司はデスクに肘をつき、タブレットの画面をじっと見ている。
入塾数。
退塾数。
指先が、画面の端で止まったままだ。
「……司先生」
声をかけると、司はいつも通りの調子で顔を上げた。
「お、どうした。もう帰るか?」
その声は軽い。いつもと同じだ。
「はい……」
「じゃ、俺も帰ろっかなぁ〜。何か食って帰るか?それとも家で食べるか?」
その軽さが、今は胸に引っかかる。
二人で塾を出て、歩いて帰る。
司のマンションまでは徒歩圏内だ。
やはり途中で「なんか食って帰る」となり、久しぶりにラーメン屋に入った。
珍しく並ばずに済んだのが、少しだけ嬉しかった。
「いや〜、久しぶりだよな、ここのラーメン。いつも混んでて入れねぇのに、今日はラッキーだったな」
「……ですね」
返事が短くなってしまった。司は箸を置き、そんな奏汰をちらりと見た。
「なんだ、その歯切れの悪さ」
「……いえ」
それ以上は聞かれなかった。
店を出て、並木道を歩く。
やがて視界の先に、大きな時計台が現れた。大学のキャンパスの中心に立つ、夜でもはっきりと分かるその姿。
奏汰は、足を止めて見上げる。
「……ここの時計台、好きなんです」
「言ってたな」
司も同じように見上げる。
「俺も嫌いじゃない」
時計台の近くに、ベンチがある。司は自然に腰を下ろし、奏汰も隣に座った。夜風が、少しだけ冷たい。
「司先生……」
「ん?」
「……大丈夫ですか」
「なにが?」
とぼけたような声。けれど、奏汰は司を見つめ、目を逸らさなかった。
「雪広先生の件もあるし……最近、司先生、一人になるとずっと数字見てるじゃないですか」
「数字?」
司は時計台を見上げながら小さく笑う。
「見てねぇと、経営者失格だろ」
「……そうですけど」
奏汰は、言葉を探してから続ける。
「生徒、減ってきてます。実際」
「あーそれなー。減ったよな、だいぶ」
やたら軽いのが、逆に胸に刺さった。
「……心配なんです」
しばらく二人の間に沈黙が落ちる。時計台の針が、静かに進む音だけがあるような気がした。
「なぁ、奏汰」
前を見たままの司から声をかけられた。
「お前さ。なんでここで働きたいって思った?」
「……え?」
「高校の教師だったろ?進学校で。それ辞めて、うちに来た。うちは塾の講師だ、教師じゃない。あっ!そうか、雪広の紹介だったか」
「はい」
奏汰は頷く。
「高校を……教師を辞めたのは、思ってたのと違ったからです」
「思ってたのと?」
「……有名校に進学させるのが一番で。生徒も、学校も、それを目的にしてて」
言葉を選びながら、奏汰は続けた。
「気づいたら、俺……教えてるっていうより、機械みたいになってました」
司は、何も言わずに聞いている。
「成績を上げて、受験させて合格させる。それ自体は大事です。でも……」
奏汰は、ぎゅっと指を握る。
「最初に教師になりたいって思った理由と、やってることがズレてきてて。それが、苦しくなって……」
「それで辞めて、うちに来たのか」
司が、静かに言った。
「はい。雪広先生が、紹介してくれました」
少し間を置いて、司が尋ねる。
「だけど、今のままでいいのか?学校の教師に戻りたいって、思わねぇのか」
「教師になりたいってのが夢でしたけど……場所は、どこでもいいんだってわかりました。それより、やりたいと思うことの方が」
奏汰は、はっきり言った。
「今は……司先生がやってるみたいに、生徒が迷った時に引ける辞書みたいな存在でいたいです」
司の視線が奏汰に動いた。
わずかに目を細め、奏汰を見ている。
「辞書?」
「はい。進路とか、将来とか……答えを決める人じゃなくて、生徒が自分で答えを探すための、です」
時計台の光が、二人を照らす。
「勉強って、案外人生の話だって、司先生言ってましたよね」
司は、ふっと笑った。
「ああ、言ったな」
「俺、それが…すごく、しっくりきてます」
奏汰は、司を見る。
「だから、俺はここで働きたいんです」
しばらく、司は何も言わなかった。そして、また時計台を見上げる。
「……なるほどな」
時計台の針が、ちょうど区切りの音を刻んだように聞こえた。
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