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14話

夜のベンチ。時計台の明かりが、一定のリズムで地面を照らしている。 司は何も言わず、時計台を見上げたままだった。その横顔を見ているうちに、奏汰の胸に溜まっていたものが、限界まで膨らんでいく。 「……だから、今の状況が」 言いかけて、息を吸う。逃げ場を失った言葉が、そのまま口をついて出た。 「生徒、減ってます。講師も……引き抜かれました。数字だって……見てますよね」 司は答えない。ただ、口元にかすかな笑みを残したまま、黙って聞いている。その態度が、奏汰にはひどくもどかしかった。 「司先生は……」 司の横顔から視線を逸らさず、言葉を続ける。 「このまま、塾を雪広先生に渡していいんですか?」 声が、思ったより強くなった。 自分でも少し驚く。 「俺だけじゃないです。結衣さんも、他の先生たちも……みんな、同じこと考えてます」 一瞬、言葉を探してから、はっきりと言った。 「ここが、なくなるんじゃないかって」 司が、ちらりと奏汰を見る。司の視線が思いのほか痛い。 「……本気で、そう思ってんの?」 「思いますよ!」 即答した。 「だって司先生……ずっと様子見てるじゃないですか。表ではいつも通りなのに、一人になると、ずっと数字見てて……」 奏汰は、無意識に拳を握りしめていた。 「守るって言ってましたよね。この塾。生徒も、講師も……」 奏汰は言葉を探すように、いったん視線を落とした。握った指先に、力がこもる。 「……それなのに、何もしないなんて」 顔を上げ、司を見る。 「司先生らしくないです。生徒が減ってきても、講師が辞めても……何もやろうとしないなんて」 責める口調になってしまったが、司は、相変わらず答えない。否定もしない。言い訳もしない。 その代わり、なぜか楽しそうに、口元に抑えきれないような笑みを浮かべている。 その瞬間、胸の奥で何かが焼き切れた。 「……なんで、笑うんですか」 声が、自然と低くなる。 「冗談じゃないです。俺だけの話じゃない」 言葉が途中で途切れ、喉の奥が詰まる。続きを言おうとして、息を吸い直した。 「ここで働きたいって思ってるのは。司先生のやり方で、生徒と向き合いたいって思ってるのは……俺だけじゃない!」 視線を逸らさず、続けた。 「結衣さんも、他の先生たちも、みんな同じです」 それでも足りなくて、奏汰は立ち上がった。ベンチの前に立つ司との距離が、思った以上に遠かった。一歩、無意識に踏み出してしまう。 夜風が頬を撫でる。 心臓の音が、やけにうるさい。 「…俺が好きになったのは……」 言いかけた瞬間、喉が詰まる。 言葉にしたら戻れない気がして、ほんの一瞬、ためらった。 「…俺が、好きになったのは、生徒を数字で見ないで、講師を駒みたいに扱わなくて、ちゃんと人として向き合う司先生です」 声が、わずかに震れる。 司は何も言わないでいる。ただ、その目で奏汰を見ている。 「こんな時に笑って、何もしないふりする人じゃない!」 司は肩をすくめた。司は顎に手をやり、少し考えるように視線を逸らす。 「いや〜、なんつーか……」 「は? いや〜、じゃないです!」 思わず、奏汰は声を張り上げていた。 自分でも驚くほど、感情が前に出る。 もう一歩、司に近づく。もう距離を保つ余裕なんてなかった。 「真剣にやってください! 司先生、そんな人じゃないでしょう!」 夜風が吹き抜け、並木の葉がざわりと揺れた。 「雪広先生は、本気です。こんな短期間で、講師も生徒も奪っていくなんて……」 息をつく暇もなく、言葉を重ねる。 「でも、雪広先生と司先生は違う。司先生は、育てるって言ってた。講師も、生徒も!だから……この塾を、簡単に渡すなんて」 一瞬、言葉を探してから、はっきりと言った。 「何もしないで終わるなんて、そんなの……酷すぎます」 言い切った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。 司は、しばらく時計台を見上げたまま黙っていた。やがて、ふっと短く息を吐いた。 「……あー」 頭をかいてから、ようやく奏汰に向き合った。 「勘違いされてるのか、俺」 「……え?」 司は立ち上がり、奏汰に一歩近づく。 「塾を渡す気なんて、最初からねぇよ」 司の言葉に奏汰は、言葉を失った。 「生徒が減ったのは事実だ。講師が抜けたのも事実。雪広が本気なのも、まぁ間違いねぇ」 司は淡々と続ける。 「でもな。それで簡単に渡すって発想、俺がすると思うか?終わるつもりなら、最初から経営なんてしてねぇよ」 司は、真正面から奏汰を見る。 「俺が考えてんのは、別だ」 その目には、いつもの軽さがなかった。 「これからの話だ」 司はそれだけ言って、視線を外した。 時計台の光が、横顔をかすめる。 「え?」 奏汰が問い返すと、司はいつもの調子に戻ったように、肩をすくめた。 「説明しないぜ?話すると長ぇしな。お前、余計なこと考えすぎるし」 「余計って……」 「余計だろ」 司は笑っていった。 「大丈夫だ。潰れる気はねぇし、雪広に渡す気もねぇ」 司は言い切ってから、ふっと口角を上げた。 「それよりさ」 司が、楽しそうに身を乗り出す。 「さっきのアレ。告白だろ? そう聞こえたんだけど」 「えっ? は? なに言って……」 「は?じゃねぇよ。言ってたろ」 司は自分の胸元を指で軽く叩く。 「好きになったのはそんな人じゃないって。あれ、どう聞いても俺の話だろ」 逃げ場を塞ぐみたいに、距離が近い。 「今さら違うとか、言わねぇよな?」 にやり、と口角が上がる。 「奏汰、お前やっと認めたんだな」 「いっ……!ち、ち、ちがいます!」 慌てて首を振った。 「あれは、その……人としてってことで…」 語尾が、どんどん弱くなるのが自分でもわかる。 「仕事の話より、今は、俺とお前の話の方が大事だな」 奏汰が言い返す前に、司は続ける。 「明日、休みだし。家でゆっくり話そうぜ」 にやにや笑いながら、司は奏汰の手を取る。有無を言わせない力で、そのまま歩き出した。 「ちょ、ちょっと……!司先生……!」 「お前だけが本音ぶつけて終わりって、フェアじゃねぇだろ?」 その声は軽いのに、逃がす気は一切ないようだ。

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