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18話
会議室には、いつもより多くの講師が集まっていた。長机を囲み、誰もが少しだけ硬い表情をしている。
駅前にできた大手塾。
講師の引き抜き。
生徒の流出。
その話題が、頭から消えた人間はいない。
「……で」
司が、机に肘をついたまま口を開いた。
「今日は愚痴る場じゃない」
軽く笑う。けれど、その目にいつもの軽さはなかった。
「これからの話をする」
空気が、静かに張りつめる。
奏汰は壁際の椅子に座りながら、司の声を聞いていた。このトーンの司を見るのは、初めてだ。
「生徒が減った。講師も何人か抜けた」
事実だけを、淡々と並べる。
「でもな。だからって、同じやり方で殴り合う気はない」
講師たちの視線が集まる。
「値下げとか、合格実績の張り合いとか。やろうと思えばできる。でも、俺はやらない」
司は立ち上がり、ホワイトボードに向かった。
ペンが走る。
《学生》
少し間を置いて、その下に書き足す。
《大人》
「学生は、今まで通りやる」
はっきりと言い切る。
「受験指導も、進路相談も手は抜かない。それは、ここにいる全員に続けてほしい」
一拍おいて、続けた。
「その上で、大人向けの塾を始める」
ざわ、と声にならない反応が広がる。
「社会人。資格を取りたい人。一度働いて、もう一回学び直したい人。子育てが落ち着いて、次の道を考えたい人」
司は振り返る。
「時間は限られてる。だから基本はオンラインだ。平日の夜と、土日」
講師の顔を、ひとりずつ見る。
「専門資格の授業は、外部講師を入れる。FP、簿記、宅建、そういう分野だ」
そこで、少し間を取った。
「でも__」
声が、少しだけ低くなる。
「大人が一番欲しいのは、知識だけじゃない」
「途中で投げないための伴走だ。考えるのをやめないための相手だ」
講師の一人が、恐る恐る口を開く。
「……本当に、需要あるんですか」
司は、迷いなく答えた。
「ある」
即答だった。
「もう試した」
ホワイトボードに数字を書き足す。
〈無料講座・申込数:想定の3.2倍〉
ざわめきが、今度ははっきり広がる。
「広告は打ってない。口コミだけだ」
司は肩をすくめる。
「みんな、勉強したくなかったわけじゃない。ただ、考えていい場所がなかっただけだ」
ペンを置き、深く息を吸う。
「学生を手放すつもりはない。でも俺は__未来の大人も育てたい」
空気が変わる。不安よりも、迷いよりも、
なぜか胸の奥が熱くなる。
「無理にとは言わない」
司は、最後にそう言った。
「学生を教えたい人は、今まで通りでいい。大人塾に関わりたい人は、手を挙げてくれ」
一瞬、間を置いてから。
「俺は、この塾を守る。そのために、広げるという選択肢だ」
静かだった。けれど、その背中は、確かに揺るがなかった。
奏汰は、息を飲む。守るために、最初から別の道を考えてた司を見つめた。
司は、追い込まれて動いたんじゃない。最初から、次の一手を持っていたのだ。
◇
あれから数日後。奏汰が塾に足を踏み入れた瞬間、違和感に気づいた。
同じ教室。同じ机とホワイトボード。
けれど、照明は落とされ、教壇の前には見慣れないカメラが一台置かれている。
司は、いつものように教壇には立っていなかった。椅子を引き、カメラと同じ高さに腰を下ろしている。
「悪いな。少しここ貸してくれ。後ろ、座っててくれよ」
呼ばれて、奏汰ははっとした。
「今から撮るから。ちょっと静かにな」
「……撮る?」
司はカメラから目を離さないまま、軽く笑う。
「説明すると長ぇからさ」
その一言で、全部が繋がる。これが司の言っていた「別の話」だ。
奏汰は何も言えないまま、教室の後ろに腰を下ろす。息を詰めるように見守る中、カメラの赤いランプが灯った___
「こんにちは。この動画を開いた理由は、人それぞれだと思います」
司の、落ち着いた声だった。
「資格が欲しい人もいるだろうし、転職を考えてる人もいる。今の仕事を続けるべきか、迷ってる人もいるだろう」
一拍、間を置くと司は立ち上がり、ホワイトボードに書いた。
〈向いている仕事〉
〈捨てるべきかどうか〉
〈学び直す意味〉
「大人になると、誰も一緒に考えてくれなくなる」
淡々とした言葉なのに、不思議と耳に残る。
「会社は結果しか見ない。家族は心配する。世間は『自己責任』で片づける」
司は、ほんの少しだけ笑った。
「だから、大人が、大人のまま、もう一回考えていい場所を用意しました」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「向いてるかどうか。捨てるべきかどうか。学び直す意味があるのかどうか」
「答えは、人それぞれです。だから、一緒に考えます」
まっすぐに、カメラを見る。
「そんなあなたのために、大人の塾を始めます」
赤いランプが消えた。
教室は、しんと静まり返っていた。
◇
反響は、予想より早かった。
動画公開から、数時間。
再生回数:12,000
保存数:想定の4倍
コメント:300件以上
「……こんなに?」
「まぁ、こんなもんだろ」
司はあっさり言うが、口元はわずかに緩んでいる。コメント欄には、派手さはないが、確かな熱があった。
『学生向けの塾だと思ってたけど、これは違う』
『転職できないまま、何年も止まってました』
『考えていい場所って、気になる』
奏汰は、画面をスクロールしながら息を呑む。その中の一文に、指が止まった。
『今さら勉強しても意味がないと思ってた。でも大人のまま考えていいって言われて、初めて前を向けた気がします』
奏汰は、思わず司を見た。アクセス数は、静かに伸び続けている。派手なバズではない。けれど、止まらない。
「学生より……滞在時間、長いですね」
運営担当の呟きに、司は鼻で笑った。
「そりゃそうだ」
そして、ぽつりと続ける。
「大人はな。考える時間を、ずっと後回しにしてきたんだ」
司の塾は、資格取得だけを目的にした場所ではなかった。
FP、簿記、宅建、中小企業診断士。
実務に直結する講座は揃える。効率も、合格率も軽視しない。
けれど、その前に必ず立ち止まる。
今の仕事を捨てる必要はあるのか。
資格は逃げ道か、それとも武器か。
三年後、どうなっていたいのか。
授業は夜。仕事を終え、肩書きを脱いだ時間帯。オンラインで、全国どこからでも参加できる。顔出しは自由。途中退出も、やめるのも構わない。
必要なら、個別で一対一。売らない。煽らない。決断は、本人に返す。
大人が、大人のまま、人生を再設計していい場所。それが、司の塾だった。
考えることを後回しにしてきた人たちが、
ようやく立ち止まり、静かに歩き出していく。
その光景を思い浮かべながら、奏汰は胸の奥が、じんと熱くなるのを感じていた。
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