20 / 25
19話
想定より、ずっと早かった。
「司先生、すみません!」
夜の教室。ホワイトボードには、時間割がびっしり書き込まれている。
「20時の回、もう埋まりました」
「22時を増やしたけど、キャンセル待ちです」
「……もう一枠、増やせませんか?」
講師たちの声が重なる。誰もが少し興奮していて、少し慌ただしい。
「え、もう?」
奏汰が思わず言うと、運営担当が端末を見せてくる。
「申込み、今日だけで一気に来ました。仕事終わりの時間帯が、完全にハマってます」
「平日20時、22時。土曜は午前と夜も希望あります」
司は、腕を組んだままそれを聞いていた。
「……講師、回せるか?」
「正直、ギリギリです。でも、」
一人が、少し迷いながら続ける。
「やれます。昼の授業より、手応えあるって言ってる先生もいます」
教室に、短い沈黙が落ちる。
司は、ふっと息を吐いた。
「じゃあ増やすか。20時、もう一回作れるか?」
「いいんですか?」
「いい。無理させる気はねぇけど、今来てる奴らは、今じゃないと来れない連中だ」
その言葉に、講師たちの表情が変わる。
慌ただしく動き出す背中を、奏汰は少し離れた場所から見ていた。
頭の中で描いていた計画じゃない。
数字が出たからやる判断でもない。
必要とされているから、動いている。
その単純で強い理由が、場を動かしている。
◇
深夜に近い時間。司のタワーマンションのインターホンが鳴った。
画面を見て、司は一瞬だけ目を細める。
「……来たか」
ドアを開けると、そこに立っていたのは雪広だった。昼間と変わらない、整ったスーツ姿。ただ、その視線だけが、わずかに鋭い。
「久しぶり、司」
「ついこの前会っただろ」
軽口のまま、司は中へ通す。リビングに入った雪広は、まっすぐ窓際へ向かい、夜景を見下ろした。
「……忙しそうだな」
ぽつりと落とす。
「夜帯のオンライン。しかも、大人向けが主軸か」
司は冷蔵庫から水を取り、グラスを置いた。
「で? それを言いに来たわけじゃねぇだろ」
雪広が振り返る。その目が、少しだけ細くなった。
「司。君は……本当に、それでいいのか?」
「いいかどうかを、今さら聞きに来たのか?」
雪広は静かに続ける。
「君のやり方は消耗戦だ。大人向けは単価は高いが、継続性は低い」
「それは、売る側の理屈だな」
司は、はっきりと言った。
「俺がやってるのは、逃げ道を売る商売じゃねぇ」
一歩、距離を詰める。
「考える場所を置いてるだけだ。だから、残るやつは勝手に残る」
沈黙が落ちる。夜景の光が、二人の間に静かに滲んだ。
やがて、雪広が小さく息を吐く。
「誤解しないでほしい。君の塾がどうなろうと、私のところは困らない」
淡々と告げる。
「生徒が流れなくてもいい。講師が来なくても問題ない。駅前校は、予定通り黒字だ」
勝者の余裕でも、敗者の弁明でもない。
ただ、事実を並べる声。
「私は合理的に動いただけだ。君が守るために折れるかを、確かめに来ただけだよ」
その瞬間、司が小さく笑った。
「……それ、確認する意味あったか?」
「君は、そういう男だと思っていた」
「残念だったな」
司は即答した。
「守るために、俺は折れねぇ」
空気が、ぴんと張る。
「奪われた分を取り返そうとしてるんじゃねぇ」
司は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「最初から、別の道を敷いてただけだ」
雪広の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
計算が、外れたときの顔だった。
「……そうか」
静かに息を吐き、立ち上がる。
ジャケットの前を整え、完全に仕事の顔に戻る。
「なら、これ以上は言わない」
去り際、振り返る。
「司。君は相変わらず、非効率だ」
司は、口角だけ上げる。
「そのおかげで、残る人間が分かりやすい」
短い沈黙。
ドアの前で、雪広は一歩、足を止めた。
ほんの一瞬、そして、わずかに肩の力が抜ける。
「だが、面白いものを見せてもらった。学びたい大人が、ここまでいるとはな」
司は、視線を逸らさない。
「最初から、いたんだよ」
ドアノブに手をかけたまま、雪広は小さく笑った。
「まったく……」
そして、最後に。
「……お前は、本当に面白いやつだ」
それは、評価でも警告でもない。
昔と同じ、親友への言葉だった。
ドアが、静かに閉まる。
静けさが戻ったリビングで、司は窓の外を見た。迷いも、後悔もない背中。
守るために折れなかった。
だから、道は残った。
交渉は終わった。残ったのは、それぞれが選んだやり方だけだった。
ともだちにシェアしよう!

