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19話

想定より、ずっと早かった。 「司先生、すみません!」 夜の教室。ホワイトボードには、時間割がびっしり書き込まれている。 「20時の回、もう埋まりました」 「22時を増やしたけど、キャンセル待ちです」 「……もう一枠、増やせませんか?」 講師たちの声が重なる。誰もが少し興奮していて、少し慌ただしい。 「え、もう?」 奏汰が思わず言うと、運営担当が端末を見せてくる。 「申込み、今日だけで一気に来ました。仕事終わりの時間帯が、完全にハマってます」 「平日20時、22時。土曜は午前と夜も希望あります」 司は、腕を組んだままそれを聞いていた。 「……講師、回せるか?」 「正直、ギリギリです。でも、」 一人が、少し迷いながら続ける。 「やれます。昼の授業より、手応えあるって言ってる先生もいます」 教室に、短い沈黙が落ちる。 司は、ふっと息を吐いた。 「じゃあ増やすか。20時、もう一回作れるか?」 「いいんですか?」 「いい。無理させる気はねぇけど、今来てる奴らは、今じゃないと来れない連中だ」 その言葉に、講師たちの表情が変わる。 慌ただしく動き出す背中を、奏汰は少し離れた場所から見ていた。 頭の中で描いていた計画じゃない。 数字が出たからやる判断でもない。 必要とされているから、動いている。 その単純で強い理由が、場を動かしている。 ◇ 深夜に近い時間。司のタワーマンションのインターホンが鳴った。 画面を見て、司は一瞬だけ目を細める。 「……来たか」 ドアを開けると、そこに立っていたのは雪広だった。昼間と変わらない、整ったスーツ姿。ただ、その視線だけが、わずかに鋭い。 「久しぶり、司」 「ついこの前会っただろ」 軽口のまま、司は中へ通す。リビングに入った雪広は、まっすぐ窓際へ向かい、夜景を見下ろした。 「……忙しそうだな」 ぽつりと落とす。 「夜帯のオンライン。しかも、大人向けが主軸か」 司は冷蔵庫から水を取り、グラスを置いた。 「で? それを言いに来たわけじゃねぇだろ」 雪広が振り返る。その目が、少しだけ細くなった。 「司。君は……本当に、それでいいのか?」 「いいかどうかを、今さら聞きに来たのか?」 雪広は静かに続ける。 「君のやり方は消耗戦だ。大人向けは単価は高いが、継続性は低い」 「それは、売る側の理屈だな」 司は、はっきりと言った。 「俺がやってるのは、逃げ道を売る商売じゃねぇ」 一歩、距離を詰める。 「考える場所を置いてるだけだ。だから、残るやつは勝手に残る」 沈黙が落ちる。夜景の光が、二人の間に静かに滲んだ。 やがて、雪広が小さく息を吐く。 「誤解しないでほしい。君の塾がどうなろうと、私のところは困らない」 淡々と告げる。 「生徒が流れなくてもいい。講師が来なくても問題ない。駅前校は、予定通り黒字だ」 勝者の余裕でも、敗者の弁明でもない。 ただ、事実を並べる声。 「私は合理的に動いただけだ。君が守るために折れるかを、確かめに来ただけだよ」 その瞬間、司が小さく笑った。 「……それ、確認する意味あったか?」 「君は、そういう男だと思っていた」 「残念だったな」 司は即答した。 「守るために、俺は折れねぇ」 空気が、ぴんと張る。 「奪われた分を取り返そうとしてるんじゃねぇ」 司は、ゆっくりと言葉を選ぶ。 「最初から、別の道を敷いてただけだ」 雪広の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。 計算が、外れたときの顔だった。 「……そうか」 静かに息を吐き、立ち上がる。 ジャケットの前を整え、完全に仕事の顔に戻る。 「なら、これ以上は言わない」 去り際、振り返る。 「司。君は相変わらず、非効率だ」 司は、口角だけ上げる。 「そのおかげで、残る人間が分かりやすい」 短い沈黙。 ドアの前で、雪広は一歩、足を止めた。 ほんの一瞬、そして、わずかに肩の力が抜ける。 「だが、面白いものを見せてもらった。学びたい大人が、ここまでいるとはな」 司は、視線を逸らさない。 「最初から、いたんだよ」 ドアノブに手をかけたまま、雪広は小さく笑った。 「まったく……」 そして、最後に。 「……お前は、本当に面白いやつだ」 それは、評価でも警告でもない。 昔と同じ、親友への言葉だった。 ドアが、静かに閉まる。 静けさが戻ったリビングで、司は窓の外を見た。迷いも、後悔もない背中。 守るために折れなかった。 だから、道は残った。 交渉は終わった。残ったのは、それぞれが選んだやり方だけだった。

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