23 / 25
先生、離す気はないそうです。2話
インターホンが鳴った。
「あっ……司さん、いらっしゃいました!」
奏汰はぱっと立ち上がり、モニターを覗き込む。
「……雪広先生です」
その名前を口にした瞬間、胸が少しだけ高鳴った。教師として、そして一人の大人として、ずっと尊敬してきた人。
今日は司の家に、完全プライベートで来ると聞いている。
「あー……来ちゃったか」
司は、どこか面倒そうに、でも少しだけ嬉しそうに苦笑して立ち上がった。
ドアを開けた瞬間、ふわりと漂ってきたのは、どこか甘くて重たい香り。
「司。久しぶり」
落ち着いた低音。雪広はそう言うなり、無造作に一本の箱を司に押し付けた。
「……お?」
「山崎。しかも、そこそこ寝かせたやつ」
「お前……それ、普通に手土産で持ってくる酒じゃねぇだろ」
司は一瞬だけ目を見開き、それから呆れたように笑う。
「ま、久しぶりだしな」
「よし。じゃあ遠慮なく飲もうぜ」
砕けたやり取りに、奏汰は思わず目を瞬いた。仕事の顔しか知らなかった二人だが、やはり親友だと聞いていたのは、本当のことのようだった。
雪広は靴を脱ぎながら、ちらりと奏汰を見た。
「雪広先生、こんばんは」
「ああ、西島くん。こんばんは」
いつもの、穏やかで柔らかな笑み。
……の、はずだった。
「……ん?」
一瞬、視線が鋭くなる。
「もう司に抱かれたのか?」
「っ……!?」
空気が、完全に凍った。
「な、な……なにを……!」
顔が一気に熱くなり、言葉が喉で詰まる。
まさか、あの雪広の口から、そんな単語が飛び出すとは思っていなかった。
「ははははっ! お前、やめろって。奏汰、完全に固まってんだろ」
司は腹を抱えて笑い出す。
「何言ってる。事実確認だ」
雪広はさらっと言って、奏汰を見下ろした。
「司に、ちゃんと優しくしてもらってるか?」
「お前、親かよ」
「一応、そんなもんだろ」
司は肩をすくめながら、まだ笑っている。
「奏汰、な? こいつ、普段は仮面被ってんだよ。外じゃ紳士で通ってるけどさ」
奏汰は言葉を失ったまま、二人を交互に見る。
雪広は何事もなかったように部屋に上がり込み、勝手知ったる様子でリビングへ向かう。その背中から、司との長い付き合いと距離の近さが、ありありと伝わってきた。
すでに用意されていたグラスを前に、司はさっそく箱を開け、琥珀色の液体をグラスに注いだ。立ち上る香りだけで、空気が一段変わる。
「……相変わらず、えげつねぇ酒持ってくるねぇ。普通の神経してたら開けるの躊躇うやつだぞ」
「躊躇う顔が見たくて持ってきた。ほら、色がいいだろ。味も保証する」
雪広はソファに深く座り、脚を組む。
その姿だけ見れば、やはり紳士そのものなのに、口を開いた瞬間、それは崩れた。
「で?」
グラスを軽く揺らしながら、司を見る。
「大人の塾。どうなんだ。潰れそうか?」
「いきなり縁起でもねぇな」
司はグラスを傾けながら、肩をすくめる。
「いやいや、確認だ。順調ならそれでいい。危なくなったら……」
雪広は、わざとらしく間を置き、にやりと口角を上げる。
「俺が買い取ってやるから、安心しろ」
「……お前さ」
司が、思わず吹き出す。
「それ、冗談の顔じゃねぇだろ」
「半分本気だ」
さらっと言い切る。その声には、笑いも遠慮もなかった。奏汰は二人のやり取りに、思わず息を呑む。
「……おかげさまで、かなり好調だ。新しい場所での開校も決まった。悪いな、お前の出る幕じゃねぇ」
司はそう言って、グラスを軽く掲げた。
「そうか」
雪広は短く頷く。
「相変わらずだな…」
グラスを傾けながら、ちらりと司を見る。
「お前は危うい。頑固で人を信用しない。経営者としては最低ランクだな。だから潰れる前に、俺が救ってやるって言ってる」
奏汰は思わず息を呑む。雪広は、あまりにも容赦がない。だけど、司はその言葉に、声を上げて笑っている。
「あははははっ!な?奏汰。こいつマジでヤバいだろ。外ではな、ずっといい顔してんだぜ。今まで知らなかったろ?」
突然話を振られ、奏汰は言葉を失う。
「え、えっと……」
雪広は肩をすくめ、口元だけで笑っていた。
「……それで?」
雪広が視線をこちらに向けた。
「司、西島くんを手元に置いている理由は?一度関係を持った相手を、生活圏に置き続けるほど、お前は情に流される男じゃないだろう」
空気が、ぴしりと張りつめる。
その問いに、奏汰は一瞬、思考が止まった。話題がいつのまにか自分に向いている。
「んー? 可愛いから? そんな理由だよ」
「なるほど……」
雪広はわずかに口角を上げる。その視線は、もう奏汰ではなく、司に向いていた。
「可愛いからか。随分、雑な理由だな」
「雑で悪いかよ」
司は肩をすくめる。いつも通りの調子だ。
雪広は、ふっと息を漏らして笑った。
「司がそんな言い方をするとはね」
司の眉が、ほんのわずかに動く。
「今回は__」
雪広は、静かに言った。
「……ずいぶん深いところまで踏み込んでいるようだな」
その言葉に、司は否定しなかった。
代わりに、グラスを指先で軽く弾く。
「なんだよ……珍しいか?」
「ああ、珍しい」
間髪入れずに返す。
笑みは崩さないまま、雪広は続けた。
「それに、お前が、こんなふうに必死なのも愉快だ」
雪広は淡々と告げる。
「お前が誰かを離す気がないだなんてな。
その報せを聞いたら、どこかの市場が一つくらい暴落しても驚かない」
「……うるせぇよ」
雪広の言葉に、司は少しだけバツの悪そうに答えた。
そして、雪広は、ちらりと奏汰へ視線を向けた。その一瞬で、奏汰の心臓がどくんと跳ねる。
「えっ……?」
「西島くん」
雪広は声を落とし、穏やかな笑みを向ける。
「司はね、大きな犬だと思って扱うといい」
「……犬?」
「吠えるし、暴れるし、勢いで走り出す。だが…」
ちらりと、司を見る。
「ちゃんと見てくれる人間がいれば、案外おとなしい」
「誰が犬だ、誰が! なんだよ、その言い方!」
司が笑いながら突っ込む。
「大型犬だよ、お前は。それに、昔から手のかかるポンコツだ」
そう言ってから、雪広はふっと表情を緩める。
「安心しなさい、西島くん」
奏汰に向き直り、声を一段柔らかくする。
「無理に飼いならす必要はない。噛まれそうになったら、すぐ私に言ってくれ」
そして間を置いてから、雪広はさらりと微笑む。
「弁護士も紹介する。その気になれば、司から慰謝料でも示談金でも、好きなだけ取れる」
視線だけで司を牽制してから、穏やかに続けた。
「安心していい。私は君の味方だよ」
「……っ」
あまりにも落差のある言葉に、奏汰は完全に言葉を失った。
「はははは!」
司が腹を抱えて笑う。
「聞いたか、奏汰。俺、犬らしいぞ」
「……笑ってる場合じゃない気がします。ポンコツって言われてるし」
リビングに、また笑い声が広がる。奏汰は少しだけ肩の力を抜き、二人のやり取りを眺めていた。
皮肉も冗談も遠慮なくぶつけ合うのに、そこには不思議と棘がない。互いを試すようで、確かめ合うようで、それでも揺るがない距離感だ。
司は、ひとしきり笑ったあと、何でもないように奏汰の方を見る。そして、ぽん、と軽く頭に手を置いた。
「ま、犬でもなんでもいいけどよ。安心しろ。俺はな、選んだもん簡単に手放さねぇから」
いつもの調子だ。軽い冗談みたいなのに、
その奥にあるものだけは、隠そうともしない声だった。
一瞬、胸の奥が熱くなる。
……なる、のに。
「……ちょ、ちょっと!」
奏汰は慌てて一歩引いた。
「そういうの、今ここで言わないでください!雪広先生いるんですけど!」
尊敬している雪広の前で、奏汰は少し照れて、小さく抵抗する。だって、なぜか抱かれてることまで見抜かれているのだ。余計に居心地が悪いじゃないか。
「え? なんで? 事実だろ」
「事実とかじゃなくて!ナチュラルに言うのやめてください!!」
司は悪びれもせず、口の端を上げる。
「いいじゃねぇか。雪広にはもうバレてるだろ? 今さら隠す必要ねぇって」
「そ、そ、そういう問題ではありません!」
そのやり取りを眺めながら、雪広がとうとう声を上げて笑った。
「はは……なるほどね」
そして、どこか納得したように言う。
「司が手放さない理由も、よく分かったよ」
奏汰は耳まで赤くなり、思わず両手で頭を抱えた。
ともだちにシェアしよう!

