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先生、離す気はないそうです。2話

インターホンが鳴った。 「あっ……司さん、いらっしゃいました!」 奏汰はぱっと立ち上がり、モニターを覗き込む。 「……雪広先生です」 その名前を口にした瞬間、胸が少しだけ高鳴った。教師として、そして一人の大人として、ずっと尊敬してきた人。 今日は司の家に、完全プライベートで来ると聞いている。 「あー……来ちゃったか」 司は、どこか面倒そうに、でも少しだけ嬉しそうに苦笑して立ち上がった。 ドアを開けた瞬間、ふわりと漂ってきたのは、どこか甘くて重たい香り。 「司。久しぶり」 落ち着いた低音。雪広はそう言うなり、無造作に一本の箱を司に押し付けた。 「……お?」 「山崎。しかも、そこそこ寝かせたやつ」 「お前……それ、普通に手土産で持ってくる酒じゃねぇだろ」 司は一瞬だけ目を見開き、それから呆れたように笑う。 「ま、久しぶりだしな」 「よし。じゃあ遠慮なく飲もうぜ」 砕けたやり取りに、奏汰は思わず目を瞬いた。仕事の顔しか知らなかった二人だが、やはり親友だと聞いていたのは、本当のことのようだった。 雪広は靴を脱ぎながら、ちらりと奏汰を見た。 「雪広先生、こんばんは」 「ああ、西島くん。こんばんは」 いつもの、穏やかで柔らかな笑み。 ……の、はずだった。 「……ん?」 一瞬、視線が鋭くなる。 「もう司に抱かれたのか?」 「っ……!?」 空気が、完全に凍った。 「な、な……なにを……!」 顔が一気に熱くなり、言葉が喉で詰まる。 まさか、あの雪広の口から、そんな単語が飛び出すとは思っていなかった。 「ははははっ! お前、やめろって。奏汰、完全に固まってんだろ」 司は腹を抱えて笑い出す。 「何言ってる。事実確認だ」 雪広はさらっと言って、奏汰を見下ろした。 「司に、ちゃんと優しくしてもらってるか?」 「お前、親かよ」 「一応、そんなもんだろ」 司は肩をすくめながら、まだ笑っている。 「奏汰、な? こいつ、普段は仮面被ってんだよ。外じゃ紳士で通ってるけどさ」 奏汰は言葉を失ったまま、二人を交互に見る。 雪広は何事もなかったように部屋に上がり込み、勝手知ったる様子でリビングへ向かう。その背中から、司との長い付き合いと距離の近さが、ありありと伝わってきた。 すでに用意されていたグラスを前に、司はさっそく箱を開け、琥珀色の液体をグラスに注いだ。立ち上る香りだけで、空気が一段変わる。 「……相変わらず、えげつねぇ酒持ってくるねぇ。普通の神経してたら開けるの躊躇うやつだぞ」 「躊躇う顔が見たくて持ってきた。ほら、色がいいだろ。味も保証する」 雪広はソファに深く座り、脚を組む。 その姿だけ見れば、やはり紳士そのものなのに、口を開いた瞬間、それは崩れた。 「で?」 グラスを軽く揺らしながら、司を見る。 「大人の塾。どうなんだ。潰れそうか?」 「いきなり縁起でもねぇな」 司はグラスを傾けながら、肩をすくめる。 「いやいや、確認だ。順調ならそれでいい。危なくなったら……」 雪広は、わざとらしく間を置き、にやりと口角を上げる。 「俺が買い取ってやるから、安心しろ」 「……お前さ」 司が、思わず吹き出す。 「それ、冗談の顔じゃねぇだろ」 「半分本気だ」 さらっと言い切る。その声には、笑いも遠慮もなかった。奏汰は二人のやり取りに、思わず息を呑む。 「……おかげさまで、かなり好調だ。新しい場所での開校も決まった。悪いな、お前の出る幕じゃねぇ」 司はそう言って、グラスを軽く掲げた。 「そうか」 雪広は短く頷く。 「相変わらずだな…」 グラスを傾けながら、ちらりと司を見る。 「お前は危うい。頑固で人を信用しない。経営者としては最低ランクだな。だから潰れる前に、俺が救ってやるって言ってる」 奏汰は思わず息を呑む。雪広は、あまりにも容赦がない。だけど、司はその言葉に、声を上げて笑っている。 「あははははっ!な?奏汰。こいつマジでヤバいだろ。外ではな、ずっといい顔してんだぜ。今まで知らなかったろ?」 突然話を振られ、奏汰は言葉を失う。 「え、えっと……」 雪広は肩をすくめ、口元だけで笑っていた。 「……それで?」 雪広が視線をこちらに向けた。 「司、西島くんを手元に置いている理由は?一度関係を持った相手を、生活圏に置き続けるほど、お前は情に流される男じゃないだろう」 空気が、ぴしりと張りつめる。 その問いに、奏汰は一瞬、思考が止まった。話題がいつのまにか自分に向いている。 「んー? 可愛いから? そんな理由だよ」 「なるほど……」 雪広はわずかに口角を上げる。その視線は、もう奏汰ではなく、司に向いていた。 「可愛いからか。随分、雑な理由だな」 「雑で悪いかよ」 司は肩をすくめる。いつも通りの調子だ。 雪広は、ふっと息を漏らして笑った。 「司がそんな言い方をするとはね」 司の眉が、ほんのわずかに動く。 「今回は__」 雪広は、静かに言った。 「……ずいぶん深いところまで踏み込んでいるようだな」 その言葉に、司は否定しなかった。 代わりに、グラスを指先で軽く弾く。 「なんだよ……珍しいか?」 「ああ、珍しい」 間髪入れずに返す。 笑みは崩さないまま、雪広は続けた。 「それに、お前が、こんなふうに必死なのも愉快だ」 雪広は淡々と告げる。 「お前が誰かを離す気がないだなんてな。 その報せを聞いたら、どこかの市場が一つくらい暴落しても驚かない」 「……うるせぇよ」 雪広の言葉に、司は少しだけバツの悪そうに答えた。 そして、雪広は、ちらりと奏汰へ視線を向けた。その一瞬で、奏汰の心臓がどくんと跳ねる。 「えっ……?」 「西島くん」 雪広は声を落とし、穏やかな笑みを向ける。 「司はね、大きな犬だと思って扱うといい」 「……犬?」 「吠えるし、暴れるし、勢いで走り出す。だが…」 ちらりと、司を見る。 「ちゃんと見てくれる人間がいれば、案外おとなしい」 「誰が犬だ、誰が! なんだよ、その言い方!」 司が笑いながら突っ込む。 「大型犬だよ、お前は。それに、昔から手のかかるポンコツだ」 そう言ってから、雪広はふっと表情を緩める。 「安心しなさい、西島くん」 奏汰に向き直り、声を一段柔らかくする。 「無理に飼いならす必要はない。噛まれそうになったら、すぐ私に言ってくれ」 そして間を置いてから、雪広はさらりと微笑む。 「弁護士も紹介する。その気になれば、司から慰謝料でも示談金でも、好きなだけ取れる」 視線だけで司を牽制してから、穏やかに続けた。 「安心していい。私は君の味方だよ」 「……っ」 あまりにも落差のある言葉に、奏汰は完全に言葉を失った。 「はははは!」 司が腹を抱えて笑う。 「聞いたか、奏汰。俺、犬らしいぞ」 「……笑ってる場合じゃない気がします。ポンコツって言われてるし」 リビングに、また笑い声が広がる。奏汰は少しだけ肩の力を抜き、二人のやり取りを眺めていた。 皮肉も冗談も遠慮なくぶつけ合うのに、そこには不思議と棘がない。互いを試すようで、確かめ合うようで、それでも揺るがない距離感だ。 司は、ひとしきり笑ったあと、何でもないように奏汰の方を見る。そして、ぽん、と軽く頭に手を置いた。 「ま、犬でもなんでもいいけどよ。安心しろ。俺はな、選んだもん簡単に手放さねぇから」 いつもの調子だ。軽い冗談みたいなのに、 その奥にあるものだけは、隠そうともしない声だった。 一瞬、胸の奥が熱くなる。 ……なる、のに。 「……ちょ、ちょっと!」 奏汰は慌てて一歩引いた。 「そういうの、今ここで言わないでください!雪広先生いるんですけど!」 尊敬している雪広の前で、奏汰は少し照れて、小さく抵抗する。だって、なぜか抱かれてることまで見抜かれているのだ。余計に居心地が悪いじゃないか。 「え? なんで? 事実だろ」 「事実とかじゃなくて!ナチュラルに言うのやめてください!!」 司は悪びれもせず、口の端を上げる。 「いいじゃねぇか。雪広にはもうバレてるだろ? 今さら隠す必要ねぇって」 「そ、そ、そういう問題ではありません!」 そのやり取りを眺めながら、雪広がとうとう声を上げて笑った。 「はは……なるほどね」 そして、どこか納得したように言う。 「司が手放さない理由も、よく分かったよ」 奏汰は耳まで赤くなり、思わず両手で頭を抱えた。

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