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第5話
この町の近くには、中央卸売市場があり、町の住民の中には、その恩恵にあずかっている者も少なくなかった。
和也の母親と祖父は、その市場の青果部門で早朝から午前中まで働き、また母親は午後から別のパートに出て家計を支えていた。
市場に勤めていることもあって、米をはじめとする食料品や加工品など、一般の人々がスーパーマーケットで購入するよりも安く手に入れることができたのは、家族にとって大きな助けとなっていた。
こうして何とか、中流家庭としての暮らしを守り続けていた。
夕方、母がエプロン姿で台所に立ち、夕食の支度をしていると、祖母はその横で器用に包丁を動かしている。
リビングでは、祖父が今まで読んでいた新聞を静かにたたんだ。
老眼鏡を外し、和也の方へ眼を向ける。
「和也、試合はどうなんだ?今度の大会」
気負いのない声だった。
問い詰めるでもなく、ただ孫の様子を確かめるような調子だ。
「うん、他の部員の人たちが頑張ってくれてるよ」
和也は靴下を脱ぎながら答えた。
「僕は補欠にも入れないけどね。縁のない話だよ」
祖父は小さく鼻を鳴らし、新聞を脇に置いた。
「ほら、またそうやって。最初から線を引く癖は、あまり感心せんな」
叱るというより、独り言に近い口調だった。
「前向きになれば、見えるものも変わるもんだ」
和也は苦笑いを浮かべるだけで、それ以上は何も言わなかった。
言い返す気も、反論するほどの自信もない。
ただ、このやり取りさえも、家に帰ってきた証のように思えた。
そのとき、テーブルに広げたノートに向かっていた妹の梨沙子が、ぐっと眉を寄せる。
「ああ、来年は受験かぁ……頭が痛いな」
鉛筆を持つ手を止め、天井を仰ぐその様子は、いかにも年相応だ。
「まだ一年あるだろう」
祖父が言うと、
「その一年が長いんだって……でも、なるようにしかならないから適当に頑張るか…」
梨沙子は不満げに返しながらも、少し照れくさそうに笑った。
「ほら、できたよ。」
母と祖母の声が重なると…、食卓に湯気の立つ料理が並び始める。
「いただきます。」
「いただきます。」
揃って手を合わせる。家の中がほっと和らぐ、箸を持つ手、嚙み締める音。
家族という名の、温かい場所……。
それは、失ったものを静かに補いながら、今日もまた確かにそこにあった。
他愛もない会話が、リビングの空気を満たしていく。
和也はその中に身を置きながら、胸の奥がゆっくりとほどけていくのを感じていた。
ここでは、勝ち負けも立場も関係ない。
ただ、和也としていられる場所だった。
食事を終えた後、和也はひとり二階の自室に戻った。
小さな机の上には、読みかけの教科書と今日提出したプリントの束が置きっぱなしになっている。
窓を開けると、夜風が微かに洗濯物の匂いを運んできた。
ベットに腰掛け、何気なく天井を見上げる。
こうして一日を終えるたび、心のどこかが少しだけ軋むのを知っていた。
その痛みの正体を、今夜は素直に受け止める気になった。
━━父さん。
声に出すことはできなかったが、胸の中でそっと呼んでみる。
もう、記憶の中の父は、輪郭が少しぼやけていた。
けれども、あの大きな手に頭をなでられた感触だけは、なぜか消えずに残っている。
寂しい…でも、それだけじゃない。
残された家族と過ごす日々の中で、和也は確かに温かさを知っている。
誰かがいなくなった後も、それでも続いていくものがある……。
そんなことを、まだ若い心で微かに理解し始めていた。
和也は、夜空に浮かぶ星空を、しばらく見つめていた。
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