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第32話

休憩を二度入れて、片道三時間ほど車を走らせて着いた場所は、茅葺屋根の 古民家を改装した一軒のカフェがひっそりと佇んでいた。 ペンキもオイルも施されていない、風雨に晒された古木の風合いが、かえって味わい深く、目を引く。 時を経た日本の家具や建具には使い込まれたものだけが持つ、不思議なぬくもりと魅力が宿っていた。 「せっかくだから、昼食まで外を歩かないか?景色もよいことだし…」 佳孝の言葉に和也は「うん」と答えた。 遠くには、霞の中に柔らかく連なる山並みが見え、並木の隙間からは、 透き通るような青空が覗いていた。 近くの梢では、小鳥たちが囀りを交わし、季節の気配を一際身近に 感じさせている。 裏山には小径が延び、その奥には清閑な滝が姿を見せていた。 苔むした岩肌の伝い落ちる水は、あたりの静けさに心地良い調べを 添えている。 散策路の脇には、年月を経た木製ベンチが、いくつか置かれていた。 地方都市で育った和也にとって、こうした自然の美しさ、静けさは今までの人生で触れたことのない世界だった。 手をつないで歩く若い恋人たちの姿も見掛けたが、どちらかと言えば、静かに寄り添う中高年のカップルの方が目に留まった。 彼らは互いに多くを語らずとも、共に流れを味わうように歩を進めている。 佳孝が、ぽつりと呟く…。 「ここ…何処にも宣伝していないのに、人伝に評判が広がって予約はいつも、いっぱいなんだよ」 「へえ…そうなんだ」 和也はそう答えたあと…(じゃあ、佳孝はいつ、ここを予約したのだろう?) と、そんな思いが心の中を過った。 二人で歩いた散策路、ふいに風が吹き抜けるたびに、葉がふるえ、影が揺れる、そのたびに、世界が優しくなっていくような気がした。 そんな場所が、現実にあったこと、そんな静けさに身を置けたこと、そしてふと思う――自分ひとりだったら、ここには来なかっただろう。 この美しい世界を見せてくれたのは、佳孝だった。「ありがとう」と、言葉にするには、小さすぎる気がした。 けれど胸の奥にそっと残されたものが、やさしく灯をともすように、和也のなかに確かに息づいていた。 しばらく歩いたあと、古民家のカフェに足を踏み入れると、テーブルの上に置かれたオイルランプの灯が仄かに揺れている。 その優しい明かりが、空間全体に懐かしい風情を添えられ、店内は木の香りが仄かに漂っていた。 ほどなく二人の前に運ばれてきたのは、木のトレイに丁寧に並べられた、 和の定食だった。 主菜は豆腐と蓮根のハンバーグ。たっぷりとおろし大根が添えられ、ほんのりと柚子が香る。 副菜には、ひじきと大豆の煮物、青菜のおひたし、そして出汁のしみた卵焼きが小鉢に収まっている。 湯気の立つ味噌汁には、刻んだ葱と薄切りの舞茸が浮かび、炊き立ての雑穀米には黒コショウがふられていた。 「すごいな……どれも、ちゃんと手で作られているのが分かる」 和也は、目を細め箸を動かした。 ほのかに甘くて、やさしい塩気、どの皿にも尖った味が一つもない。 ただ、素朴で、静かでどこか懐かしい。 「食べるって、こういうことなんだ」 佳孝が、さりげなく言う…腹を満たす以上に、心の奥まで染みてくるような滋味がそこにあった。 ふと見上げると、窓の外に揺れる青もみじの葉が、柔らかい風にそよいでいた。 こうしたカフェでは、地域農家と提携して地元野菜を使ったり、保存食を使わない昔ながらの調理法にこだわったりする場合も多く。 『身体にやさしい料理』『心が落ち着く料理』を目指していた。 食事を終えた二人は、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。 室内は静寂に包まれ、時折、古い柱時計の針が時を刻む音と、遠くで聞こえる水のせせらぎだけが、空間の底で微かに響いていた。 お互いの家族や仕事については、すでに語りつくしている。 どちらも口数が多い方ではなく、自然と会話は途切れがちになり、重たく よどんだ空気が漂い始めていた。 何ともいえない沈黙が続き、その気まずさに、和也はふと視線を落とした。 その時、隣のテ-ブルに、若い男女六人のグループが席に着いた。 初めに目にした瞬間、こうした古民家風の落ち着いた店には、そぐわない客層だと正直なところ思った。 だが、やがてその明るく賑やかな会話に、自然と耳を傾けていく。 話題は、彼氏彼女の話から始まり、親や教師への愚痴や不満、趣味や食の好み、ペットの話、さらには思いのほか真剣な口調で語られる政治や経済への懸念にまで及んだ。 訊いているうちに、「うん、なるほど」と、頷きたくなることもあり、二人の間に流れていた沈黙が少しずつ和らいでいくのを感じた。 時折、佳孝と目が合い、どちらかともなく小さく笑みを交わす。 無言のまま向き合っていた自分たちの空気を、この見知らぬ若者たちが 知らず知らずのうちにほぐしてくれた。 和也は、その存在が妙にありがたく感じられた。

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