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第一章 当たり前になる音
ふたりで一緒の時間を過ごすことが当たり前になった現在、三好の部屋の合鍵を使うのは、もう特別なことじゃなくなった。しかも、玄関を開ける前からどこか安心している自分がいる。その理由については、あまり考えないようにしていた。
この部屋には、俺の歯ブラシが置いてある。洗面所の棚には髭剃りもあった。最初は「置いていっていいですよ」と三好が言っただけだったのに、気付けば替刃まできちんと補充してあった。
ソファの端には、俺がよく着るスウェットが畳まれていた。先週泊まった時に脱ぎっぱなしにしたものだ。冷蔵庫を開ければ、自分が飲む銘柄のビールが入っていることも知っている。
ここは三好の部屋――それなのに時々、自分の部屋へ帰ってきたような錯覚を覚える。もちろん、それは俺の勘違いだ。この場所は借り物で、この関係も期限付きのものなのだから――。
鍵を開けて玄関に入ると、夕飯を作るいい匂いを鼻が感知する。途端にお腹が鳴った。思わず腕時計を見る。時刻は二十一時を少し回ったところ。残業で連絡が遅くなったはずなのに目の前の部屋は明るくて、ちゃんと生活の音がしている。
「……直人?」
キッチンから、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。他にも水の流れる音や、換気扇の回る音、皿と皿が触れ合う小さな音。それらは、三ヶ月前には知らなかった生活の音ばかり。目を閉じれば、それが妙に心地いい――この音が聞こえなくなる日を、なぜか想像したくなかった。
キッチンから顔を出した三好が、すぐに表情を緩める。
「お疲れさま。遅くなるって聞いてたから」
「夕飯……作ってたのか」
「簡単なものですけど」
『簡単』の基準を、三好に当てはめるのは危険だ。三好は俺よりも料理上手だった。テーブルには、温かい料理が二人分並んでいた。焼き魚と煮物と味噌汁。
「座ってください。すぐに味噌汁、よそいますね」
そう言って背を向ける。その動きがあまりに自然で、胸の奥が理由もなくざわついた。
この三ヶ月、身代わりの恋人という言葉を使う機会は格段に減った。名前だって、いつの間にか下で呼び合うようになった――。
「……ありがとう、直人」
「どういたしまして、恒一」
契約を決めた時には、想像できなかった。今の俺たちは、それが当たり前になっている。
ふたりで向かい合って椅子に座り、箸を取る。疲れていたはずなのに、三好の手料理を一口食べただけで肩の力がふっと抜けた。口内に染み渡るあったかい煮物の優しい甘みに、自然と口角が上がる。
「美味い」
「それはよかった」
三好は自分の分を控えめに口に運びながら、俺の皿の減り具合を気にしている。
警備員の仕事をしている時と、同じ目なのかもしれない。ちゃんと食べているかを確認する目は、不審者を見逃さないようにしている眼差しにどこか似ている気がした。
「……今日さ」
俺は、味噌汁茶碗を置いて話を切り出した。
「会社の先輩に、良い人を紹介するかって聞かれて」
「……紹介?」
三好の箸が、ほんの一瞬止まる。
「彼女」
「……ああ」
彼の理解は早かった。表情も声も崩れないまま、世間話をするように返事をする。
「この前言ってた先輩ですか。結婚、心配してるって」
「そう」
話している内容は事実だけのはずなのに、言葉数がいつもより少なくなる。
「お見合い、ってほどじゃないけど」
「それって会うだけ、ですよね」
「……まあ、うん」
三好は頷いて、また箸を動かした。見た感じ、いつもと変わらない。
「条件の範囲内です。恒一が決めたことですから、俺からは何も――」
その言葉で、この話は終わるはずだった。なのに、胸の奥にだけ妙な引っかかりが残る。
契約を持ち出したのは、自分からだ。本命ができたら終わる、そう決めたのも自分。それなのに三好が平然としていることに、なぜだか安堵できない。
「直人……嫌じゃないのか」
だから、言葉を紡いでしまう。
「何がですか」
「そういう話、聞くの」
三好は少し考えてから、静かに答えた。
「嫌かどうかで言えば……」
一拍置いて、どこか諦めたような笑みを浮かべる。
「役目、ですから」
三好らしくないその言い方が、胸に突き刺さる。
(役――まだ、そう呼ぶのか……)
「直人」
「はい」
名前を呼んだだけなのに三好はきちんと顔を上げて、俺をじっと見つめた。慌てて咄嗟に出かかった言葉を飲み込み、違うものに変換する。
「……ご飯、冷めない内に食うか」
「ですね」
話はそこで途切れたものの、歪んだ空気は戻らない。食後、三好が食器を下げる。俺は暗い気持ちを引きずったままソファに座り、背もたれに体を預けた。
「恒一、今日は泊まっていきますか?」
キッチンから、いつもの調子で聞かれる。
「……ああ」
答えながら思う。
先輩から彼女を紹介される話を、なぜここでしてしまったのか。なぜこの部屋で、この夕飯の最中に――。
背中越しに、三好が言った。
「疲れてますよね。先にシャワーどうぞ」
「……直人」
「はい?」
振り向いた三好と目が合う。言いたいことは、うまく言葉にならない。だから俺は、曖昧に言った。
「夕飯ありがとう、美味かった」
「……どういたしまして」
その返事は、いつもより少しだけ距離があった。
──三ヶ月。キッチンから聞こえる食器の触れ合う音を聞きながら、目を閉じる。その音が途切れる日を、なぜか想像したくなかった。
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