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第一章 当たり前になる音
ふたりで一緒の時間を過ごすことが当たり前になった現在、三好の部屋の合鍵を使うのは、もう特別なことじゃなくなった。そう思うこと自体、考えないようにしていた。
鍵を開けて玄関に入ると、夕飯を作るいい匂いを鼻が感知する。途端にお腹が鳴った。
思わず腕時計を見る。時刻は二十一時を少し回ったところ。残業で連絡が遅くなったはずなのに目の前の部屋は明るくて、ちゃんと生活の音がしている。
「……直人?」
キッチンから顔を出した三好が、すぐに表情を緩めた。
「お疲れさま。遅くなるって聞いてたから」
「夕飯……作ってたのか」
「簡単なものですけど」
簡単、の基準を三好に当てはめるのは危険だ。三好は俺よりも料理上手だった。
テーブルには、温かい料理が二人分並んでいた。焼き魚と煮物と味噌汁。
「座ってください。すぐに味噌汁、よそいますね」
そう言って背を向ける。その動きがあまりに自然で、胸の奥が理由もなくざわついた。
──三ヶ月。"身代わりの恋人"という言葉を使う機会は減った。名前も、いつの間にか下で呼び合うようになった。
「……ありがとう、直人」
「どういたしまして、恒一」
それが、当たり前になっている。
ふたりで向かい合って椅子に座り、箸を取る。疲れていたはずなのに、三好の手料理を一口食べただけで肩の力が抜けた。
「美味い」
「それはよかった」
三好は自分の分を控えめに口に運びながら、俺の皿の減り具合を気にしている。
警備員の仕事をしている時と、同じ目なのかもしれない。ちゃんと食べているかを確認する目は、不審者を見逃さないようにしている眼差しにどこか似ている。
「……今日さ」
俺は、味噌汁茶碗を置いて話を切り出した。
「会社の先輩に、良い人を紹介するかって聞かれて」
「……紹介?」
三好の箸が、ほんの一瞬止まる。
「彼女」
「……ああ」
彼の理解は早かった。表情も声も崩れないまま、世間話をするように返事をする。
「この前言ってた先輩ですか。結婚、心配してるって」
「そう」
話している内容は事実だけのはずなのに、言葉数がいつもより少なくなる。
「お見合い、ってほどじゃないけど」
「会うだけ、ですよね」
「……まあ」
三好は頷いて、また箸を動かした。
「条件の範囲内です。恒一が決めたことですから、俺からは何も――」
その言葉で、この話は終わるはずだった。なのに、胸の奥にだけ引っかかりが残った。
「直人……嫌じゃないのか」
だから言葉を紡いでしまう。
「何がですか」
「そういう話、聞くの」
三好は少し考えてから、静かに答えた。
「嫌かどうかで言えば……」
一拍置いて、どこか諦めたような笑みを浮かべる。
「役目、ですから」
その言い方が、妙に胸に刺さった。
(役――まだ、そう呼ぶのか……)
「直人」
「はい」
名前を呼んだだけなのに三好はきちんと顔を上げて、俺を見つめた。咄嗟に出かかった言葉を飲み込み、違うものに変換する。
「……ご飯、冷めない内に食うか」
「ですね」
話はそこで途切れた。しかも歪んだ空気は戻らない。食後、三好が食器を下げる。俺はソファに座り、背もたれに体を預けた。
「恒一、今日は泊まっていきます?」
キッチンから、いつもの調子で聞かれる。
「……ああ」
答えながら思う。
先輩から彼女を紹介される話を、なぜここでしてしまったのか。なぜこの部屋で、この夕飯の最中に。
背中越しに、三好が言った。
「疲れてますよね。先にシャワーどうぞ」
「……直人」
「はい?」
振り向いた三好と目が合う。言いたいことは、うまく言葉にならない。だから俺は、曖昧に言った。
「夕飯ありがとう、美味かった」
「……どういたしまして」
その返事は、いつもより少しだけ距離があった。
──三ヶ月。
役のはずの関係は、簡単には整理できないところまで来ていることに、俺だけがまだ気づいていない。
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